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16章:潮騒の二重奏


色の欠けたモノクロ写真のような灰色がのっぺりと重く覆う空。

それをそっくりそのまま写し取った水面には、泡立つ白波がよく映えた。

ザザ、ザザァと寄せては引いていく涙の音が殷々と繰り返し響いて、耳の奥にこびりつく。


《ふん♪ふんふん♪》


そんな潮騒に混じって、やたらと楽しそうな鼻歌が聞こえてきた。


これは何の曲だったか。一昔前まで教育チャンネルの子供向け番組で流れていたような気がする。

ちゃんと見たことはないけれど、何を見ようかと適当にチャンネルを弄る合間にでも聞いたのだろう。


幼げで耳馴染みのいい単純なメロディー。

ふとした拍子に口ずさんでしまいそうなそれは、シンプルでありながら元気がもらえるような…ゆらゆらと体を揺らしてノリたくなるような、そんな曲だった。


だからこそ、今この瞬間にはどこまでも不釣り合いで不気味なのだが…


《ふふふん♪ふふーん♪ふんふふふーん♪》

《あ"……ぅ"…う"ぁ…っ》

《だず、げ……っ…いぎっ…》


グチャリグチャリと雨上がりの地面を叩きつけるような音が、ゴキリボキリと何か硬いものを折り砕く音が、おぞましい悲鳴が、痛切な命乞いが、耐えきれないと飛び去っていく鳥達の羽音が…鼻歌のバックコーラスとして混入していく。

この場においてその曲はキラキラした夢を子供達に見せるための曲ではなく、ただただ理不尽と絶望を嗤う狂騒曲に成り果てていた。


《きゃはははは!さようなら虫さん!!さてさて、あと何匹いるんですかぁ?きゃははは!》

《や、やめとくれ…!見逃しておくれ!!》

《何でですか?嫌ですよ!》


しわくちゃな両手を擦り合わせる年老いた女に影がさしたかと思えば、その筋ばった体はあっという暇もなく巨大な鉄球の下敷きとなり辺りへ血を撒き散らす。


その近くでへたり込んでいた男が慌てて這いつくばりながら背を向けるも、横薙ぎに振るわれた凶器によって腰から下を吹き飛ばされながら波打ち際にどしゃりと落ちた。


寄せては引いていく濁った波が、骸からにじむ赤を沖へと運ぶ。

もしこの海でサメが生き残っているのなら、大喜びで犇めいていることだろう。


《あー!?もう!虫さんのクセに、海を汚しちゃダメですよぅ!》


死体蹴り。

文字通り男の死体を砂浜の方へと蹴り飛ばすその様子を見れば、成る程"アイツ"は人間を…一般人をゴミか何か、とるに足らない汚物とでも認識しているのだろうと思い知らされた。


誰かの悲鳴が波に溶けていく。

誰かの流した血と体液をすすった砂浜は、もう元の色を忘れていた。

誰かの肉片が"ルールを守って海水浴をお楽しみください"と書かれた看板にべしゃりと飛び散り、誰かの頭がスイカのように割られて…


かつては水着に身を包んだ人々の楽しげな声で溢れかえっていたのだろうこの場所は、今やボロ切れ同然の服とも呼べない布を纏った人々が絶望の叫びと臓物を撒き散らすだけの地獄へと変貌していた。

赤い絨毯の上で何度も何度も鼻歌をリピートし続ける"アイツ"によって。


《ふんふーん♪ふっふふふーん♪》

《ぎっ……ぐぁ…あ"、ぁ"っ…!!》

《い"…ぃ"だい"…!い"だぃよ"、お"…っ》

《…っ…!やめ…やめてっ!もう、やめてよ!!》

《ふん♪ふん♪ふーん♪…ん?》


見ていられなくて、無駄と分かりつつ嗄れた喉で叫んだものだから…口に血の味が広がった。

ドスンドスンと"アイツ"の鉄球が叩きつけられる度に、そこから繋がる鎖によってぐるぐる巻きにされた私へ振動が走る。

命の断末魔が冷たい鎖を伝って流れ込んで来るようで、私は波の揺らぎにも満たない微かな揺れにも関わらず酷い船酔いを起こしたのかと感じるくらいに吐き気をもよおした。


《う"ぅ…っぷ……ォエ》


怨念でも流れ込んで、私の体を蝕んでいるのかもしれない。

ただ見てるだけの私を…無力な私を恨んで呪い殺そうとしてるんだ。なんて。

ここに来てすぐくらいに抵抗して殴られた頭は切れているようで、未だ流れる血のせいかぼぅっとするし体が冷えきっている。


《きゃははは!お掃除おしまい!害虫駆除完了!二菜、頑張りましたよぅ!!》


長いような短いような時が過ぎ、私と"アイツ"以外の呼吸が絶えた。


ザザァ、ザァ。ザザァ、ザァ。


側にある海は無関係とばかりに一定の波音を奏でるばかり。

あぁ、きっとあの水は…身も凍るほど冷たいのだろうな。


《おーい、虫さーん!!ちゃんと見てましたぁ?ね、ね、二菜お掃除出来て偉かったでしょう!?きゃははは!》


跳ねるようにしてこちらへ来る足どりは親を見つけた子供のように軽く、しかしぱしゃりと海水と血の混ざった水溜まりを弾けさせる姿はそんな可愛いものじゃない。


どうしてかは知らないが、"アイツ"は私に懐いている。懐いているとはいっても"虫さん"呼びだし、容赦なく殺されるけど…毎回会話しようとしてくるのだ。まったく嬉しくないが。


《虫さん?生きてます?生きてますよね、まだ。どうして返事してくれないんです?二菜とお話しましょうよぅ!》

《う…るさ、い…》


あぁ、気持ち悪い。吐き気をこらえて奴を睨んだ。


《?うるさい虫さんはみぃんな潰しましたよぅ!きゃははは!だから、褒めてくれていいんですよ!静かになってようやく二人でお話出来ますし!!》


元であれば大きくて愛嬌のあったであろう瞳はぽっかり空いた穴のように虚ろで、すぐ側の薄汚れた海よりも狂気によって濁っている。

それを弓なりに細め、口を歪めて嗤う姿はとても同じ人間には見えない…ケダモノの顔だった。


《どうして…どうして、殺す必要があったの…っ!?皆がお前に何かした!?してないじゃない!なのに…っ、なのに!!》

《んー?どうしてって…あの、私にとって海って大切なものなんです!だから、その近くで彷徨いてる薄汚い虫さんを駆除して綺麗にしたんですよ!!お掃除!そう、お掃除です!きゃははははは!》

《コレが、綺麗…?こんな、死を撒き散らした海が…綺麗な筈無いでしょう!!》

《えー?そうですかぁ?きゃはっ、きゃはははははははは!!!!》


壊れたようにケタケタ笑い始めたソイツは何を思ったのか…近くに落ちていた肉片を拾い上げると、私の顔にベチョリと押し付けたではないか。

間近で香る鉄錆の臭いと腐臭という最低な組み合わせにたまらずえずいた。

しかし、胃液すら吐ききった体はただびくんびくんと震えるだけで、出たのは僅かな涙と唾液だけだったが。


《きゃはっ、ほら…よく見てくださいよぅ。"あの子"の最後とおんなじなんです。綺麗でしょう?綺麗に決まってます》

《…気持ち悪いよ、お前。そんなの…綺麗なもんか…望まない死が、綺麗なもんか!!っぐ!?》

《はぁ?何なんですか?いい加減うるさいですよ》


肉片を離した血塗れの手が私の首を鷲掴む。

とても片手とは思えない力で気道が容赦なく絞まっていくのが分かった。

あぁ、『怪力』をもつ"コイツ"にとってはこのくらい…本当に虫を潰すように容易いことなんだろうな。


《あぁ、あぁ!!うるさい、うるさいなぁ!虫さん…そういえばさっき、二菜に"やめろ"とか言ってました?言ってましたよね?》


ぐぐっと首を絞める力が増していき、酸欠でチカチカと目の前の"ソイツ"が明滅する。

キィィィンと耳鳴りが音を遠ざけていく中、どうしてか"ソイツ"の声だけは頭の中で囁かれたのかと錯覚するくらいハッキリと聞こえてきた。


《二菜を止めていいのは…"あの子"だけなんです》

《…っは……く、だら…な…》


精一杯声を捻り出した私は次の瞬間、ゴグンと不愉快な音と共に意識を手放したのである。


目蓋の裏に残った"アイツ"の泣きそうな顔を、鼻で笑いながら。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「う、わぁ…!!」

人目も気にせず、私は心から溢れた感嘆を吐息に混ぜて吐き出した。


ギラギラと朝から本気を出す太陽は常より近く、焼かれたアスファルトの上ではゆらゆらと蜃気楼が踊っている八月半ばの猛暑日。


そんな、普通なら一歩たりとも外になど出たくないだろう空の下にはしかし、離れていても聞こえてくる賑やかな声で満ち溢れていた。


現在地、私がいるのは千葉県の凪祗(ナツミ)市という場所である。

『転移』によってやって来た凪祗駅は少し小高い場所にある無人駅で、人影も疎ら。

ならば声の出所はどこかというと…ズバリ、眼下に広がる海からだった。


夏の強い日差しを浴びて煌めくそれは青空がそのまま落ちてきたような濃いマリンブルーで、雲の代わりに波が、鳥の代わりに人々が遊んでいる。

水平線との境界が溶け合っているせいかそれはどこまでも広く果てないものに見えた。

理由は分からないけれど、同じ海なのに『楽園』を囲む色とはどこか違って映る。


波打つ度に光が弾ける様子は宝石を思わせ、飛び交う海鳥はそれを狙う怪盗なのかも知れない。なんて。


「どうですか!お姉さん!!」


ばっと両手を広げた二菜ちゃんがそんな贅沢な景色を抱き締めるようにして笑う姿につられて、私も感動を引きずりながら表情を緩めた。


「凄い…凄いよ!二菜ちゃんの地元、海がすっごく綺麗なんだね!」

「えへへ!そうでしょそうでしょー!?二菜の自慢の景色なんですよぅ!!」


彼女曰く、昔は泳ぐのも躊躇われるくらい汚れていてくすんだ色をしていたらしいのだけど、近年の水質向上政策が功を奏して沖縄までとはいかずとも十分に美しい色を取り戻したのだとか。

そんな事情があり、ここの海水浴場は生まれ変わった海を泳げるとそこそこに有名なのだそうだ。


潮風が私達の間を抜けて、独特の香りが鼻をくすぐる。

生ぬるくて湿っぽいその空気で肺を溺れさせるように、私は目一杯深呼吸した。


さて、何故私と二菜ちゃんはここにいるのか。

話は三日前に遡る…


ーーー……


「お姉さん!海にいきましょう!!」

「なんて??」


バァン!と扉を壊さん勢いで図書室に転がり込んできたのは、先日四恩さんから完治だとお墨付きをもらって無事軟禁療養を終えた二菜ちゃんだった。


ちょくちょく寮室に様子を見に行ったり話し相手になったりしていたから久しぶりというわけではないけれど…溌剌とした笑顔と可視化されそうな元気オーラを見せる彼女にホッとする。


部屋では退屈過ぎてしょぼしょぼと萎れてたたからね…

ちなみに至くんは真逆で、ゲーム三昧出来ると生き生きしていたよ。

インドア派かアウトドア派かがハッキリ分かれてて面白かった。


意識を現実に戻して彼女を改めて見つめる。

唐突な台詞とともに現れたその姿は、浮き輪、シュノーケル、フィンを身に纏ってビーチボールを小脇に抱え、空いたもう片手には銛を携えていた。

更に足元には両手でも抱えきれるか怪しいくらい大きな風呂敷包みを転がし、ついでににっこにこの笑顔も完備である。


うん。凄く海を主張してくるセットだ…というか私、本物の銛なんて見たの初めてだわ。


ひとまず汗だくになっている二菜ちゃんを談話スペースに座らせ、今朝のうちにヤカンで煮出しておいた麦茶をグラスに注いだ。

まだ冷えきっていなかったそれは透明な氷をすぐさま溶かしてカラコロと鳴らし、香ばしい香りを古紙の匂いに満ちた空間に割り込ませていく。


もう既に汗をかき始めたグラスに改めて夏だなぁと感慨深くなりながら、コースターをひいて二菜ちゃんの前にコトリと置いた。


「はい、どうぞ。そんな大荷物抱えて歩いてきたなら喉、乾いてるでしょ?ちゃんと水分補給してね」

「わぁ!ありがとうございます!!…ごくごく……ん、っぷは!んーーー!!!生き返りますぅ!!」


おお、良い飲みっぷり。あっという間になくなっちゃった。


「ふはぁー…しばらく体を動かしていなかったせいで体が錆び付いちゃってますよぅ!まさかこれだけで疲れちゃうとは…むむぅ」


残った氷をガリガリと噛み砕きながら、彼女は拗ねたように机に伏せる。

トレーニングしなきゃ、でも暑い…とジレンマを抱えてブツブツ繰り返す姿に苦笑をこぼし、私も一口麦茶を流し込んで喉を潤した。


「えっと、それで…二菜ちゃん。どうして急に海?」

「はっ!?そうでした!海ですよ、海!!」


ガバッとダレていた体を起こし、二菜ちゃんは外の太陽にも負けないくらいの光を瞳に乗せて机に身を乗り出す。

その勢いに私は少し体を後ろへ引いたけれど、どうやら興奮気味の彼女は気付いていないらしくそのまま言葉を続けた。


「あの!二菜、もうすぐ一時帰省するんですけど…良かったらお姉さんも一緒にどうかなと思いまして!!」

「え??わ、私も…?いやいや、絶対邪魔になっちゃうでしょ!?」

「いえ全然!大丈夫です!!むしろじーちゃんもばーちゃんも会いたいって言ってました!!」

「そ、そう…なんだ…?」


笑顔満開の表情に嘘の気配はなく、迷惑どころか期待と願望をひしひしと感じる始末。

キラキラしたその瞳にワンコの幻覚を見たよね。


「それで、あの!二菜の地元は海の近くでして、有名な海水浴場があるんです!だから一緒に遊びたいなって!!」

「あ、そっか。それで海に行こうって…」

「はい!!」


すちゃっと頭に乗っていたシュノーケルを装着し、スコースコーと呼吸音を鳴らしながら泳ぐ真似をする彼女に小さく吹き出す。だってシュールなんだもの。

うーん、凄く魅力的なお誘いではあるんだけどなぁ…


「私、勝手に外出は出来な…」

「あ!!一ノ世さんには許可をもらいました!!」

「はっや」


食い気味に返された。どうやら既に手を回されていたらしい。


曰く…

「海ぃ?あー…ハイハイ。いいよいいよ、むしろ連れてってやって。たまにはさ、日に焼けんのもいいでしょ。健康的ってやつ?はー…俺ってばやっさしー」

とのこと。脳内再生余裕過ぎて何か腹が立った。


というか私の扱い軽くない?いや、許可くれるのはありがたいんだけど…良いのかな。

ちなみに私、日焼けには弱いから絶対に焼きたくない派だ。真っ赤になって痛くなるだけなんだよね…


「護衛の人も一ノ世さんが手配してくれるそうなので、後はお姉さんが頷いてくれればオッケーです!」

「それ実質決定事項じゃん…」

「い、嫌…ですか?」

「う"っ…い、やじゃ…ないけど」

「じゃあじゃあ、二菜と海…行ってくれますか?」

「…よ、よろしくお願いします…」

「やったぁ!!!」


きゅうんと捨てられたワンコの如く情に訴えてくる目をした二菜ちゃんにあっさり陥落すると、彼女はすぐ様にぱっとした笑顔に戻ってガッツポーズをした。

あれ?もしや私、二菜ちゃんにコロコロっと転がされた?


ボソッと一ノ世さんの言う通りとか聞こえたのは気のせいでいい?むしろ気のせいであってくれ。

まぁ…良いように誘導されたとしても嫌じゃないのは確かだし…いっか。

これを人は思考放棄と言うのだろう。


「至くん達も誘うの?」

「誘ったんですけど、至くんは運悪く任務と重なっちゃったみたいで…フラれちゃいました。五月雨先輩は家族旅行で、その日から三泊四日で箱根だそうです」

「そ、そっか…」


いつもはその二人と一緒に補習が終わった夏休みの最後数日で帰省していたらしいのだけど、今回は補習がもないので帰省を例年より早めたみたい。

それが悪手だったのか…見事に予定が重なった、と。


祈ちゃんは家族仲を修復して以来、今までの埋め合わせのように両親との日常を満喫している。そんな彼女を見て、さすがに無理も文句も言えなかったことだろう。


至くんに関しては本当にタイミングが悪かったとしか言えない。

夏休みと言えども任務が完全にゼロになるとは限らないのだそう。世知辛い。


しょんぼりと肩を落とす二菜ちゃんを見ると、多少強引にでも私を誘った理由が分かった気がする。

たぶん…寂しかったんだね。

二菜ちゃん的に私は最後の頼みの綱とやらだったのだろう。


「まぁ、許可が出るなら断る理由はないから…私で良ければ、改めてよろしくお願いします」

「…!はい!はい!!一緒に楽しみましょう!!」


喜びのあまり力が入ってしまったのか、二菜ちゃんの持っていた浮き輪がパァン!と破裂する。

瞬間、何かが弾丸のような勢いで私の前に躍り出た。


「グルルル……!」

「はわわわ!?な、何ですか!?」

テーブルの上で私を庇うように小さな四肢を踏ん張り、腹に響くうなり声を上げたのは…

「…みにばうくん?」


今にも二菜ちゃんに飛びかかりそうなその子をひょいと持ち上げ、自分の膝に乗せた。

プライベートスペースで寝ていたと思うのだけど…

どうやら先程の破裂音で私が攻撃されてると思ってしまったみたいだ。


そわそわと落ち着かない様子で二菜ちゃんを警戒しているみにばうくんを宥めるように撫で、私はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「大丈夫。大丈夫だよ、みにばうくん。危ない事は何もないし、二菜ちゃんの事は知ってるでしょう?」

「ば…ばう、ばーう…」

「あと、テーブルの上に乗っちゃダメって教えたよね?」

「…きゅうん」

「でも…守ろうとしてくれてありがとう。ふふ!格好よかったよ」

「…!ばう!」

「はわわ…!お、お姉さんがお母さんに進化してます…!と、尊い!!」

「なんて??」


お母さんて…まぁ確かにみにばうくんには子供に対するような接し方をしてしまっているかもしれない。

だってほら、小さいし…それに捻木さんに作られてから時間も経っていないらしいから、子供で間違っていない筈…だよね?


「…ばーう」


撫でている間に落ち着いてきたのか、みにばうくんはピリッとした空気を引っ込めてつぶらな瞳で二菜ちゃんをじっと見つめた。

…うん。害はないと判断したみたい。

ほどなくして私の膝から飛び降り、彼女の方へちょこちょこと歩み寄る。


「はわわ…な、仲直り…ですかね?」


足元にお座りしたみにばうくんと私を見比べ、二菜ちゃんはぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。


「そうだね。良かったら撫でてあげて?」

「わ、わかりました!」


相手は一応ロボットだけど…二菜ちゃん、小動物とのふれあいに慣れていないのかな。

恐る恐るといった様子でツルツルなボディをぎこちなく撫でる姿は…なんだろう。凄くホッコリする。


「ばう!」

「はわ、い、痛くなかったですか!?」

「ばうばー!」


やがて満足気に一鳴きして、みにばうくんは再び私の膝へと戻ってきた。

…たぶん、ついでに二菜ちゃんを登録してきたんだろうなぁ。

取扱説明書曰く、撫でられたら瞬時に静脈認証して、登録者以外は噛みつくって書いてあったし。


「…えっと、続きのお話大丈夫ですか?」

「うん。もう平気みたいだから、お願いしていいかな?」

「はい!」


一先ず場が落ち着きを取り戻したところで、二菜ちゃんはお出かけの話題へ話を戻す。


「とりあえず帰省は二泊三日で予定を立てているんですが…お姉さんの予定は大丈夫そうですか?」

「あはは、元々何の予定もないから大丈夫だよ」


今更不安そうにこちらを伺う桜色を安心させるようにゆっくりと頷いた。


それにしても…二泊三日かぁ。

いきなりではあるけど、合宿のおかげでお泊まり用のセットは大体揃っている。

化粧品、歯ブラシセット、タオルに着替え…あ、日焼け止めだけは新しいの買わないとかな。あと足りないのは…


「あ…水着」


海に行くなら水着がないと困ってしまう…というか、勿体ない。

うん、日焼け止めと一緒に買いに行こう。

七尾さんに許可をもらいに行かなくては、と一人計画を立てながら二菜ちゃんに視線を戻す…と、待ってましたとばかりに目を輝かせた彼女がいて面食らった。


「ふっふっふ…」

「に、二菜ちゃん…?」


え、何その顔…なーんか嫌な予感が…


「そうじゃないかと思って…じゃん!!」

「え"」

「ばうっ!?」


どんっとテーブルに置かれた風呂敷包みが開かれると、目に痛いほどのカラフルな布地の山が現れたではないか。

これってまさか…


「事前に試着用として水着を借りてきちゃいましたー!!」


やっぱり、全部水着だった。

いやあのこれ…何着あるの??


「あー!お姉さんこれなんてどうです!?オレンジの水玉…絶対に可愛いですよ!!」

「えっと、ちょっと可愛すぎるというか…派手かな」

「えー??」


模様もさることながら、あちらにもこちらにもリボンとフリルのついたビキニは…さすがにキツかった。

全力で可愛いに振りすぎていっそ痛い。


「ばう!」

「…ん?」


いつの間に膝から降りていたのか、ばっと布の山から出てきたみにばうくんが一着の水着を咥えて持ってくる。

それを受け取った私はどんなデザインかと広げて…顔をひきつらせた。


「えぇと、みにばうくん…ヒモ系は、ハードル高過ぎかな…」

「はわわ!!なんて大胆な…!めっちゃ大人なチョイスですね!!二菜も負けませんよぅ!これ!この黒いのなんてどうですか!?」

「ぬ…布面積…っ!!」

「ばう!?ばーう!!ばう!」

「お姉さん、次はこっちも見てください!」

「ちょ、待っ…」

「ばうば!!」


何故か互いに闘志を燃やし始めてしまった二菜ちゃんとみにばうくんに次々と水着を差し出されるけれど…どれもこれも攻めに攻めたデザインばかりで、とても着れたものではない。


中には必要最小限の布しかないギリギリ…というかもはやアウトとしか思えないものまであって眩暈がしてきた。どっから持ってきたのそんなの…


いや、水着自体は可愛いよ?可愛いけどさぁ…!

そもそもの問題として、体作りをしていない状態でのビキニタイプは普通に厳しいものがある。


どんどんヒートアップしていく両者を涙目になりながら抑えていると、不意にガチャリと鳴った扉が来客を告げた。


「あのぉ、綴戯さぁん?すっごく騒がしいですけど一体何が…」


扉の隙間にひょこりと覗いたのはアッシュグレー…門倉くんだ。

学生を辞めた彼は今、寮ではなく図書室の隣で開かずの間と化していた倉庫を整えて自室として使っている。

防音性もない標準仕様の壁一枚隔てた程度では私達の騒ぎは全てとは言わずとも筒抜けだったのだろう。五月蝿くして申し訳ない。


しかし何にせよ、救世主だ。


「か、門倉くぅぅぅぅぅん!!」

「うわぁ…面倒事な予感」


そんな彼に腹の底からヘルプを求めると、さっきまで寝ていたのか寝ぼけ眼を嵌め込んだ顔が丸めた紙のように歪んだ。

そしてカラフルな水着が散らばる室内をぐるりと見渡した後、一転してそれはそれは綺麗な作り笑顔を浮かべたのである。


「…お邪魔しましたぁ」

「わー!!待って!お願いだから待って!見捨てないで!!」

「そう言われてもぉ…さすがに男としてその中に突入するのは、ちょっとぉ……」

「うぐっ!それは、まぁ、わかるけど…!」


いくら水着とはいえ形はほぼ下着と同じようなものだ。それが床やら机に散らばり椅子にペロンと引っ掛かってる状態は…うん。

男でなくとも妙に気まずいものを感じる。


でもごめんよ門倉くん…その気まずさ承知でお願いします助けてください!!

私じゃこの二人は止められません!


そんな心の叫びが聞こえたのか、それとも余程顔に出ていたのか…

ともあれ門倉くんは私の顔をじっと見つめ、深くため息をつきながらも部屋に足を踏み入れてくれた。


「それでぇ…熊ちゃん先輩とみに先輩は何してるんですかぁ」

「何って見ての通りだよ!お姉さんの水着選び!!」

「ばばう!」

「えぇー?自分で選んでもらえば良いじゃないですかぁ。子供じゃないんですからぁ」

「そ、そうそう!気持ちは嬉しいけど、私自分で選ぶよ!」


さすが門倉くん!ストレートに意見を言ってくれるね!

私の水着を私が選ぶべきなのは当然であるからして…是非とも自分で選ばせていただきたい。

ほら、例えば今二菜ちゃんがどけようとして手に持ったその大人しめなやつなんて好みだなぁ、なんて…


「それはダメです!!」

「ヒェ」

「考えてもみてよ門倉!お姉さんに任せたらきっと、コレみたいなもったりしたダサいヤツ選んじゃうでしょ!!そんな勿体無いのは許せない!」

「う"っ」


バッサリ切り捨てられ、ついでに口に出してもいないのに自分のチョイスをダメ出しされてしまった。

放られた水着がへなりと床に落ちる様子に何というか…しょっぱい気持ちになる。


「あー…それはまぁ、確かにありえまぁす」

「いや、それはほら、シンプル・イズ・ベストっていうし…」

「それはそうですけどぉ…アレみたいなのはナイでぇす」


アレと示されたのはやはり先程の水着。嘘だろそんなにダメか私のセンス。

傷口に塩を塗り込まれた気分である。追いうちは良くないと思うの。


「お姉さんはとっても可愛いんですから、着飾らないと損ですよ!!絶対!…ね!?」

「ばう!!ばばうばう!!」


なんで意気投合してるのだろうかこの子達は…


「…まぁ、一理ありますねぇ」

「え!?」


最悪味方とはいかずとも中立は保ってくれると思っていた彼に秒で裏切られた。

なんて事だ。敵が増えてしまったじゃないか。


いやね?可愛いと言ってもらえるのはたとえお世辞でも嬉しいんだけどね?

現実的に考えて私の…何とは言わないけど発育状態でビキニとかセクシーなものは虚しいだけなんだよ分かっておくれ…っ!

…言ってて自分で涙出そう。現実って辛い。


「じゃあじゃあ、門倉だったらどれが言いと思う!?」

「ばうばー?」

「えぇ…?」


一人自爆ダメージを受けている私などお構いなしに、二菜ちゃんとみにばうくんが水着の山へ門倉くんを引っ張っていく。

自分に矛先が向くとは思っていなかったのか、門倉くんは瞳の明度を一段落としてさも面倒くさそうに大きなため息を吐き出した。


「僕も選ぶんですかぁ…?……一ノ世さんに殺されそう」


最後の呟きは聞き取れなかったけれど、とりあえず気が進まないって感情は伝わってきたよ。

それでも選んでくれようとするあたり意外と律儀というか何というか…


とにかく、選ぶならシンプルで普通なやつ、シンプルで普通なやつ…と念を送り、ついでに口パクでも"普通ので!"とお願いしておいた。


「えぇと、じゃあ…」


集まる視線と水着の山に挟まれて居心地悪そうな顔を分かりやすく張り付けながらも、門倉くんは散乱している水着の一角をのったり指し示す。


「それでどぉでしょう」

「えっと…これ?むむ、随分暗い色だよ?」

「ばーう?」


力が込もっていないのか少し丸まっている指の先。

そこにあったのは、深海を思わせる深いネイビー単色で彩られた水着だった。


ふむ、色は落ち着いていて嫌いじゃないな。

そんな風に考えていた私の楽観的な余裕は、ぴろっと二菜ちゃんによって広げられて明らかになったその全貌を見て砕け散ったのだけど。


「なっ……」

「…うわぁ、門倉……うわぁ…」

「ばうぁ…」


門倉くん以外の私達三人は三者三様の声を漏らしたものの、心は示し合わせるまでもなく一つだった。


コレは無しでしょ、と。


二菜ちゃんの手にぶら下げられた問題の水着は、ビキニのようなセパレートタイプと違って体をいっぺんに覆うようなものである。

競泳用の水着といえばピンとくるだろうか。いや、競泳用であればまだ良かったのだけれど…


その水着は柄もなくシンプルに一色で塗りつぶされているが、一ヶ所…胸の部分だけは白く横長の長方形に色が抜かれていた。

そう、これは…どう見ても旧時代においてスクール水着と呼ばれていたものではないか。

あれでしょ?白抜きされた所に一年何組とか名前とか入れるんでしょ?


「門倉ってこんな趣味あったんだね…」

「何がですかぁ?僕はいたって"普通"な水着を選んだだけですよぉ」

「えっと…私の年齢考えると、もうこれアブノーマルというか特殊性癖の域だよ門倉くん…」

「え?」

「ばうばー…」


ーーー……


と、そんな一騒動があったりしたものの、海水浴の予定は拍子抜けするくらいあっさり決まった。

というか、答えを出したときには手続きほとんど終わってたんだけどね…

何はともあれ、私は正式な二泊三日の外出許可を引っ提げてここに来た次第である。


門倉くんも来れたら良かったのだけれど、まだ腕が本調子じゃないことと専属になるにあたって必要な手続きがまだ色々残っているらしく、外出はお預けということになった。


みにばうくんは言わずもがな金属製だからね。

いくら防水仕様とはいえ、さすがに塩水はよろしくないとのこと。

だから門倉くんと一緒にお留守番を頼んだのである。


「お姉さんお姉さん!!早く下りて海に行きましょう!」


やはり里帰りとなると浮き足立つのか、いつも以上に落ち着きのない様子の二菜ちゃんに苦笑をこぼす。


「二菜ちゃん、その前に…眼鏡」

「はっ!?」


忘れてた!と素直に顔に出しながら、彼女は可愛らしいポシェットタイプの収納装置に手を突っ込んだ。

すると出るわ出るわお菓子、お菓子、そのまたお菓子…

もーお菓子は三百円までって言ったでしょー…じゃなくて!!

その山何日分なの??というかまだ出てくるんだけど!?


ようやく認識阻害の眼鏡を発掘した頃には、二菜ちゃんの足元は大変ファンシーなことになっていた。

…蟻が来ちゃうから早くしまうことをオススメするよ。


「そぉぉぉぉちゃあく!!!」


ちょっとよく分からないポーズを決めながら、二菜ちゃんはすちゃっと眼鏡をかける。

途端に桜餅に似た色彩はなりを潜め、カラー写真がセピア化されたかのように彼女の両眼にはありふれた焦げ茶色が嵌め込まれていた。


「どうですか!?」

「うん!ばっちりだよ」


親指と人差し指で丸を作ると、満足そうな笑顔が花を咲かす。


「早く海に行きたい気持ちは分かるけど、まず監視の人と合流しなきゃだよ」

「もー…"護衛"ですよぅ、お姉さん。でもそうですね!勝手に動いてたら怒られちゃいますし、探しましょう!」


探すといっても誰なのかさっぱり分からないんだけどね…

七尾さん達はまだ合宿のゴタゴタの事後処理に追われているらしく、今回一緒に過ごす監…いやえっと、護衛?の人はまた別の人にお願いしてあるらしい。


一ノ世には現地で合流する予定だって言われているけれど、『転移』先だった駅舎にはそれらしい人影は見当たら無かったんだよね。

だから少し歩いて捜索範囲を広げてみたものの、やはり観光客や海水浴客以外はいなそうだ。

さて…どうしたものか。


「えーっと、とりあえず街に下りませんか?」

「でも、入れ違いになっちゃわない?」

「このまま外とか空調のないあの駅舎にいたら倒れちゃいますよぅ!」

「それは…確かにそうだね」


彼女の言う通り、いくら木々の影があるといってもこの時期外に突っ立っているなど自殺行為だ。

実際頭はぼんやりしてきているし、私も二菜ちゃんも吹き出した汗で既に水浴びでもしたような有り様である。

…うん、どこかで涼むのが懸命だ。


それにしても…連絡先を聞いておかなかったのが悔やまれるなぁ。

というか一ノ世の奴、せめて二菜ちゃんには誰なのかとか伝えておけよ!


脳内でうっかりうっかりと悪びれなく笑う一ノ世の姿が容易に浮かび、更に頭が痛くなった。

あぁ…想像に容易いってきっとこういうこと。


出来すぎた脳内一ノ世を追い払い、私は二菜ちゃんと並んで駅から続く坂を下っていく。

潮の香りが増すと共に人々の喧騒もだんだん増していくのを耳で感じながら、何となく目元に手を伸ばして眼鏡の感触を確かめた。


「…海の方、本当に人が凄いね」


まだここから見える砂浜は遠いけれど、それでもひしめき合う人々とその隙間に咲くパラソルの花達は分かる。


「はい!この時期はいっつも満杯です!下に新しく出来た駅なんて歩けないくらい凄いですよ!」

「あ、だからこっちの駅は人が疎らだったんだね。さすが地元民!ナイス采配だね!」

「えへへ!二菜はこっちの駅の方が馴染みありますし、そもそも下は人が多過ぎて『転移』じゃ目立っちゃうので」


無人駅かつローカル線一種しか来ない凪祇駅と違い、海の近くに作られた新凪祇駅は国鉄やら新幹線やら色々来るらしい。そりゃ混雑もするだろう。

東京の駅レベルの人混みを思い浮かべるとそれだけで息苦しくなった。


「そういえば、ここの海にはクラゲとかは来ないの?今頃って結構被害聞く時期だけど…」

「昔は海面を埋め尽くすくらいいたらしいですよ!でも最近は改善されてるので、二菜は生まれてこのかた見たことないですね!」


曰く、特殊な網を沖に張り巡らせたり海中ロボットを巡回させたりしながら危険な生物の侵入を防いでいるのだそうだ。

おかげで何かの書籍や写真で見るようなクラゲ大量発生による水玉模様はこの海において過去の話になった…というわけである。

水質改善といい、この地域は本気で海に向かい合ったんだね。凄いや。


「おねーさーん!こっちに来てくださーい!」

「わ…二菜ちゃん、いつの間にあんなところまで…」


少し考え事で足を止めていただけなのに…気付けば彼女は随分先まで進んでいた。


頭上の太陽とアスファルトによる照り返しで上がる一方の気温に抗うべく滲む汗を拭い、ぶんぶんと大きく手を振る二菜ちゃんの元へ足を早める。

たったこれだけの動きでも奪われる体力が尋常じゃないのだから、夏という季節は恐ろしい。走ったりなんかしたら即ぶっ倒れそうだ。


「こっちです!ここ!ここからの眺めが最高なんですよ!」


乱れる呼吸を押し込めつつ、興奮で瞳を煌めかせる二菜ちゃんの示す指先を追って…


私は一瞬、呼吸を忘れた。


「…ぅ…わ」


木々に囲まれた山道の途中にぽっかりそこだけ空いた自然の窓の向こう。

見えたのは、海水浴場からは離れた海岸だった。


立ち入り禁止なのか人影のない砂浜は目に痛いくらい白く陽光を集めて光を放ち、遥か遠方まで寝そべった海の紺碧とのコントラストがあまりにも鮮やかに目の奥へ焼き付く。

レース編みのように連なった波しぶきが終わりなく押し寄せ、その度に波打ち際との境界線が不揃いにぼかされていく様子はいつまででも見ていられそうな不思議な心地にさせた。

海鳥が波に紛れて空を泳ぎ、白い翼を広げて舞う姿が花びらのように青の合間を揺れている。


そんな、写真に閉じ込めることも絵画に起こすことも出来ない一瞬一瞬が胸を熱くする。

あぁもう、月並みな言葉しか浮かばないけど…凄く、綺麗だ。


錆の浮く古ぼけたガードレールに手を置きながら景色に釘付けになっていると、ふと隣で気配が動いたのを感じる。

二菜ちゃんかな?と、そう思った私を…降ってきた声が否定した。


「やぁ、美しいレディ。こんなところで考え事かい?」

「…え?」



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