8-4
光にほんのり色が付き始めたような、傾きかけの日差しが西付けの格子窓から差し込んでいた。まだ高い夏の太陽は夕刻と呼ぶには早く見える。
「よし!」
その光に照らされながら私は念入りに洗った両手できゅっと握り拳を作り、目の前にごろりと並ぶ食材達と存在感たっぷりに佇む巨大鍋の前で気合いを入れた。
つられて揺れる影が何となく頼もしく見えた気がしてつい微笑みが浮かぶ。
何をするのかと問われれば、夕食の支度である。
例年の合宿だと、食事は全部学園で寮母さんが作って転移で持ってくるそうなのだけど…便利で合理的なんだろうけど、なんか少しコレジャナイ感あるよね。
今回はテストを頑張った二菜ちゃんと至くんへのご褒美を兼ねて、それとおそらく私への気遣いも兼ねて一から皆で作れるように用意してもらったらしかった。
なんだけど…
「綴戯、すまない…」
「いえ!大丈夫です。精一杯頑張りますね」
残念ながら、主役二名はただいま部屋で屍になっているそうだ。
そりゃ当然だよね。
朝からずっとトレーニングに励んだ体は体力的にも精神的にもゴリゴリに削られたことだろう。精神面は主にマリアンヌさんのせいな気がするが。
「本当に大丈夫かい?男五人のみならず、その、熊ヶ峰くんの分も加味された量だろう?」
私は曖昧な顔で苦笑した。
どうりで業務用かと思われる巨大鍋が台所の中心に鎮座しているわけだ。
二菜ちゃんを想定した量を作るなら成る程納得である。
「この量を一人に任せる事になるとは…私が甘かった」
甘かったというよりは超絶辛口な訓練故だと思います、とは心の中だけで呟いた。
あれでも例年より甘いらしいので。
「ほほほ、最悪麓まで誰か走らせましょうか?ね?三神さんとか」
「何故僕なんですか絶対嫌ですよ」
ちなみに、七尾さん達大人勢は今日のトレーニングに関する総評と明日の打ち合わせでこれから会議をするそうだ。
つまり私以外に夕食を作っていられる余裕のある人はいないのである。
いや、どうせ暇だし何もしないのはただただ申し訳なく感じてしまうから全然構わないのだけど。
「…ん?なんだ?」
七尾さんが呟いた直後、台所の外の廊下からバタバタドタドタと複数名の足音が聞こえ、私は肩を跳ねさせた。何?侵入者?
皆が扉に体を向け、用意されていた香辛料の香り漂う空気をピリッと緊張したものに塗り替える。
近付く音にゴクリ、と生唾を飲み込んだその時、バァン!と壊さんばかりの勢いで扉が開かれ…
「おっ邪魔しますにゃー!」
「お邪魔するっすー!」
「どーもぉー」
見知った三つの影が飛び出してきて、私はぎょっと目を丸くした。
「マオちゃん!?瀬切くんと門倉くんも!?」
「綴戯さん!会いたかったですにゃ!」
にぱっと揃って夏の太陽みたいな笑みを浮かべたのは、緑の学園ジャージに身を包んだ二年生三人組だったのだ。
「な!?何で二年がこんなところに!?」
七尾さんの驚きはもっともで、マオちゃん達も確か房総の方で合宿中の筈である。
転移でも使ってわざわざ来たのだろうか?
「なんでってぇ、僕ら隣の山にいますしぃ。そりゃ遊びに来ますよぉ」
「運動がてら走ってきたんす!」
「なんですって?」
のんびりした門倉くんの言葉に三神が固い声で反応した。
見ればお得意の笑顔を消した真剣な顔がそこにあり、そのチリチリと焼ける音の幻聴が聞こえそうな気迫に息を飲む。
合宿場所が違うという事実は確かに大問題だろうけど、どうやらそう単純な話ではない何かを孕んでいるようだ。
だって三神や他の大人達の顔には怒りではなく焦りに似た感情が垣間見えたから。
「その合宿所は最初に決められていた場所ですよね。変更になった筈では?」
「そ、そうですけどぉ…先生が…」
三神の雰囲気に押されてたじろく門倉くんがさっと扉に目を向けたのを追うと、いつの間にかもう一人人影があることに気付く。
腕を組んで顰めっ面のまま私達を見やる齢四十近くだろう中肉中背の彼は確か、二年生の担任だったと記憶している。
ほとんど接点はないし、たまに廊下ですれ違っても何故か嫌な顔をされるから良い印象はないけどね。
「どういうつもりですか槝木先生」
歳上だからか敬語を使ってはいるものの、七尾さんの表情は完全に"どういう腹積もりだゴラァ!"と語っていた。
つまり滅茶苦茶人相が悪い。元ヤンがひょっこりしてますよ。
しかし槝木と呼ばれた男はそれを歯牙にもかけず、小馬鹿にするような仕草でひょいと肩をすくめて見せた。
「申し訳ないが、俺は一ノ世に振り回されるのは御免被る。指示に従うつもりはない」
同感だと言いたいところだが、今回の事に関しては正直どうなのだろうと思う。
彼個人に押し付けられた指示ならまだしも、合宿所の変更は七尾さん含め他の教師にも出された学園全体への指示の筈だ。
それを感情だけでフイにするのは…違うんじゃないかな。
あの性格だから仕方ないけど、アイツ敵多いね。
「理由はご存じの筈!生徒の為ですよ!?」
「何かあれば守れば良いだけの話だろう」
傲慢に鼻を鳴らして皆を無遠慮に視線で撫でていくその姿に、私は嫌悪感を感じながら目を細めた。
生徒の命を預かる身として随分な余裕じゃないか。
実力の有無に関わらず、七尾さん達のように慎重になる方が当然だと思うのだけど。
こういうタイプは嫌いだ。
「ハッ!随分な顔ぶれじゃないか。過保護なものだよ。君達も随分暇らしいな」
馬鹿にするような口振りでそう吐き捨てた槝木に、四葉さんが美人なその顔に冷笑を湛えながらコトリと首をかしげる。
「ほほほ、おかしな事を仰りますね?ね?確かそちらにも二人ほど本部からの派遣が付いている筈でございますでしょう?しょう?」
「あぁ、いたな。だが直ぐに帰したさ。今までも一人で問題なかったのに、今更増やす意味があるか?第一、一ノ世に宛がわれた奴らの助けなんか必要ない」
「思春期かよ」
思わず耐えかねてつい言葉を漏らすと、槝木はタコを茹でたかのようにさっと顔を赤くして私を睨み付けた。
「貴様…っ!」
相手にする気もないのでつんと知らない振りして顔を逸らせば、背けた視線の先で肩を震わせる三神が見える。
だって本当の事じゃないか。
この男はただただ一ノ世のやることなすことに反発したいだけのガキ。これを思春期と言わずなんと言えば良いのだろう。
まぁこんなオッサンの思春期なんて目も当てられないが。
チラリと視線を動かして、居心地悪そうに床の木目を目でなぞる二年生達を見た。
巻き込まれたあの子達が可哀想でならない。
というか、会う度に私を睨んでいたのってまさか…いつぞやのお偉いさんのように私を"一ノ世のモノ"と勘違いしてるからとか?
だとしたら物凄く嫌なんだけど。
私が胸くそ悪い事実に思い至って鳥肌を立てていると、チッ!と忌々し気な舌打ちが響いた。
「とにかく!俺のやり方で十分なんだ!口を出さないでもらおうか。…お前達、帰るぞ」
その言葉に、三人は示し会わせたかのような完璧な動きで私の後ろにささっと隠れ、千手観音様の手よろしくひょこひょこと頭だけを出しながら口を開く。
「えー嫌だにゃ。先生だけ帰れば良いにょ」
「せっかく来たんすから俺らこっちで遊んでいくっす!」
「もう自由時間なんだしぃ、別にいいでしょお?」
三人はそう好き勝手言うと揃ってヒラヒラと手を振った。
教え子にまで見放されて完全に孤立した槝木は再度顔を赤くすると、怒りでぶるぶると震えながら唾でも吐きそうな顔で再度舌を打つ。なんともまぁ教育に悪い大人である。
「勝手にしろ。俺は帰る」
「帰りはどうするつもりなんだい?連絡を入れたら迎えにくるのかな?」
「そっちが一人でも付けて帰せ。どうせ暇だろうが」
そう言い捨て、ふてぶてしい態度で踵を返した槝木はどすどすと足取り荒く去っていった。
外の扉が閉まる音が遠くに響き、森のどこかでカナカナと虚しく鳴くヒグラシの声だけが西日と共に束の間の静寂の中に差し込んでいる。
「…はぁ」
やがて体の空気を全て吐くかのような特大のため息が七尾さんから漏れ、ギスギスした空気が霧散した。
「すみませんっす。俺らの先生が…」
「いや、お前達は悪くない」
「そうだよ!皆が謝る必要ないからね。絶対!」
しゅんと落ち込んでしまった皆の頭をポンポンと軽く撫でれば、らしくない遠慮がちな顔ではにかむ。
「ありがとですにゃ。うちらの担任、めっっっっっちゃ一ノ世嫌いなんですにょ」
「うん。私も嫌い」
「んっふふ!そんな食い気味に即答しなくても…!」
「あは、綴戯さん正直ぃー」
おっといけない。口元を揃えた指先で隠し、にっこり笑って誤魔化してみる。
ついうっかり本音がつるりとした水まんじゅうみたいに落ちてしまった。
「でも私はさっきの人と違うよ?皆のためなら嫌いでも我慢できるからね。嫌いでも」
「「「綴戯さん…!」」」
「強調したな」
「イヤはイヤなのですね。ね?」
好きー!とぎゅうぎゅうに抱き付いてくるマオちゃんと門倉くんに背骨の危機を感じていると、水季さんという彼女…いやもはや婚約者?がいるからか少し離れていた瀬切くんが、台所に並ぶ食材を見て目をパチリと瞬かせる。
「そう言えば綴戯さん、俺ら気配感じて飛び込んじゃったすけど、台所で何をしてたんすか?」
「あ、今から夕食を作ろうと思っていたんだよ」
私の答えに抱き付いていた二人もばっと顔をあげ、先程までの落ち込み様などどこ吹く風と言わんばかりにキラキラと瞳を輝かせた。
「にゃにゃ!?作るんですかにゃ!?」
「あのぉ、何作るんですかぁ?」
「ふふ、定番のカレーです!」
そう、夕食のメニューは大体皆好きなカレー。作るの簡単だし量も出来るから、何となく合宿とか林間学校ではよく見かけるイメージがあるよね。
三人はささっと素早く互いに目配せをすると、ピシッとお手本のように右手を挙手して口を揃えた。
「「「手伝います!」」」
ハキハキとした元気な宣誓にきょとんと間抜け面を晒す。
「え、ええと、気持ちは嬉しいけど…皆も疲れてるよね?」
二菜ちゃん達は今回手加減(?)してもらって尚あの状態だ。
合宿のメニュー、特に一日目の基礎トレーニングは学年で大差無いと聞いているし、二年生達も相応に疲れている筈なのだけど…
「あー…」
瀬切くんが言いにくそうにチラリと七尾さんを眺め、ひきつった表情で口をモゴモゴと動かした。
「俺ら、今回先輩方みたいなスパルタメニューじゃないんすよ」
「何?」
「勝手にメニュー変えてるみたいでしてぇ…楽で良いんですけどねぇ」
「自分がみっちり付いていたくにゃいのと、一ノ世さんの時代に考案されたってのが嫌みたいですにぇ」
全員開いた口が塞がらないといった心境であり、笑顔がデフォルトな東雲兄妹も三神も揃ってすんと真顔である。こっわ。
「あンのクソ野郎が…!今すぐブチのめしてヤキ入れてやらァ!!」
「七尾先輩落ち着いてください。生徒の前ですよ」
七尾さんに至っては完全に脱サラしてヤンキーに再就職していた。
あまり慣れていないのか、ドカンと噴火した七尾さんに二年生達は驚きで固まったネコチャンのように目をまん丸くして停止している。
「まったく…いくら一ノ世くんが嫌いとは言え、これは酷いね」
「ほほほ、そもそも仕事に私情を挟むのが間違いでしょう。ね? 」
「そうですよ。それが許されるなら僕はもう女性の接待など死んでもやりませんが」
普段より一段低い声に三神の本気度が窺い知れたし、それでもきちんと仕事の範囲でこなしているのだろう事実に内心拍手を送った。
性格は腹黒くとも存外真面目らしい。
「というか、どうしてそんな人が教師やってるんですか?」
「…綴戯。能力者から教育者を出すのがどれ程難しいと思う」
「あっ察しました」
成る程あんなんでも使わないとやっていけないわけだ。
能力者の精神性からして生徒を指導…どころか、見ていられる人すら少数だろう。
興味ない、じゃ済まされないのだから。
「と、とにかーく!そんな訳でアタシ達は元気ですにゃ!なのでお手伝いしたいですにぇ! 」
「熊先輩の分もだとヤバい量っすからね!是非手伝わせてくださいっす!」
ささくれ立った空気を吹き飛ばすように明るく声をあげるマオちゃん達…なんて良い子!!
おいこら一ノ世。いつぞや自分が良い子だとかトチ狂った事ほざいていたけれど、本当の良い子っていうのはこういう子達の事だからな!
爪の垢でも煎じて飲め。
いや、それすら一ノ世の為にくれてやるには勿体ないか。
「先生方ぁ、いかがですかぁ?」
「そりゃ、人手が増えてくれるのはありがたいが…」
言い切らずに濁した七尾さんが、曖昧な表情を張り付けながら私と三人の間でうろうろと視線を彷徨わせる。
うん。心配されてるなこれ。
青い瞳が"コイツらが一緒で大丈夫か?"と語りかけてくるようだ。
そりゃまぁ私も先日のパーティーの有り様を思い出せば、彼らにはトラブルメーカーの血が流れているのでは?と薄々感じているけど…
「まぁ綴戯さんが良いなら構わないんじゃないですか。どのみち一人では大変なんですから」
「ふむ…綴戯くん。どうかな」
「えっと、マオちゃん達が辛くないなら是非」
元々二菜ちゃんや至くんとやるつもりでいたからか、正直一人でやるのは寂しいと思っていた。
ところで、今三神"司書さん"じゃなくて名前で呼ばなかった?気のせい?
「なら決まりですね。ね?」
「「「やったー!」」」
疑問は頭の片隅に追いやって、両手を上げて喜ぶ皆にクスクスと笑みを溢す。
楽しい料理タイムになりそうだ。
「では!綴戯さん&二年ズの…」
「「「ワクワク☆クッキングー!!」」」
どこぞのテレビ番組のオープニングかと思うような掛け声と共に、マオちゃん、瀬切くん、門倉くんはそれぞれニンジン、菜箸、カレールゥを構えてポーズを決めた。
「…皆まず手を洗おうか」
「本当に大丈夫か…?」
正直潮が満ちるのに似たじわじわした不安が押し寄せてくる。
どうか平和に終わりますように、なんて…フラグだろうか。
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「にゃにゃ!手はピッカピカ!」
「エプロンもバッチリっす!」
「でわ、改めてぇ…」
「「「綴戯さん&二年ズのワクワク☆クッキングー!!」」」
何故か仕切り直しをした三人を、私は微笑ましさと不安がない交ぜになった複雑な心境で眺めていた。
この子達本当にテンション高いよね。
「綴戯さん!アタシ達は何をすれば良いですかにぇ?」
ピョコンと跳ねるような足取りで私の隣にやって来たマオちゃんが、アーモンド型の目に期待というレンズを嵌めた眼差してこちらを覗き込む。
えっと、カレーの作り方と言えば…始めは野菜やお肉を切って準備するところからだよね。
あ、あとご飯も炊かなくちゃ。
…こう改めて見てみると、目眩を起こしそうな量の材料である。
具材が多いということは即ち、それを調理する器具もそれなりになるのは当然な訳で…
台所には地域で炊き出しでもするのかと思えるくらいの大鍋と、十合炊きの炊飯器3つが置かれていた。容赦ない。
寮母さんが用意したとは聞いているが、彼女の知る二菜ちゃんは一体何杯のカレーを食べるのだろう。
「じゃあ門倉くんには一緒にお米を研いでもらって、瀬切くんとマオちゃんは具材の準備をしてもらおうかな」
「「「了解!」」」
刃物が大丈夫か不安になりはしたけれど、仮にも高校生だし平気…だよね?
さすが指示を受けてからの動きは各人俊敏で、皆さっと二手に別れて作業を開始した。
「うわぁ、米で砂場作れそうでぇす」
「中々見ない量だよね…」
十合の釜の大きさに目を丸くしながらあらかじめ計られていた綺麗な白い米を入れれば、さぁと軽快な音を跳ねさせて門倉くんが言う通り小さな砂場のようにそこへ広がる。
次はこれに水を入れて…
「ちょ、瀬切?どこ行くにょ???」
すっとんきょうなマオちゃんの声にすわ早速トラブルかと顔を向けると、何故か篭一杯に野菜を詰めた瀬切くんが台所を出ようと扉に手を掛けていた。
呼び止められた当人はきょとんとしているけれど、その顔をしたいのはこっちだぞ。
「えっと、瀬切くん?どうしたの?」
「はい!野菜洗ってくるっす!切る前には洗うんすよね?」
「そうだけど…どこで洗うつもりかな?」
「ん?洗濯室っすよ!洗うと言えば洗濯機っすもんね!」
「「ステイ!!!」」
未知の言語を囁かれた気分で宇宙を背負った私に代わり、マオちゃんと門倉くんが瀬切くんを確保して彼の奇行を阻止してくれた。
え、今の本気だった?まさか冗談だよね?
なんてね!って言葉を期待して瀬切くんを見ても、彼はさも不思議そうに首をかしげるばかり。
だからその行動したいのはこっちだってば。
「与武ぅ、マジで言ってんのぉ?」
「いやだって洗うんすよね?汚れたものは全部洗濯機入れるじゃないっすか」
「あり得ないにゃ…おみゃー今までどうしてたにょ」
「み、身の回りの事は小さい頃からクレアが全部…」
「「けっ」」
マオちゃんと門倉くんがアスキーアートみたいな顔になっている。
しかしながら私も、リア充爆発しろって思う心境が少し分かった気がした。
水季さんの愛情が天元突破しているけど、彼女は果たしていつから彼が好きなのだろうか。帰ったら聞いてみよう。
「瀬切くん。野菜を洗うのは水道水で大丈夫だからね」
「洗剤は?」
「要りません」
私はマオちゃんに視線を送り、どうかよく見てあげて欲しいと念を込めた。
彼女は凛々しい顔でサムズアップを返してくれたので、私は瀬切くんを任せて米研ぎに戻る。
ちなみに門倉くんは米を研ぐために洗剤を…なんてベタなことはせず、しゃこしゃこと日本らしい平和な音を立てながら普通にこなしていたよ。
どうでも良いけど水込みの十合ってかなり重いな…?私水流す為に傾けるのすら腕がキツいのだけど。
明日情けなくも筋肉痛になる気がして内心こっそり泣いた。
十合分の米研ぎを早々に終わらせた私は残りを門倉くんに任せて具材班に合流する。
瀬切くんという不安分子がいるので、野菜を切るのはやはりきちんと私の目がある状態でと思ったのだ。
「よし、じゃあ野菜を切っていこうか」
「一口大ってのにすれば良いのにぇ?」
「そうだよ。でもその前に…」
綺麗に洗われたニンジンやジャガイモをまな板に乗せ、包丁を取り出そうと少し場所を離れた瞬間、気合いたっぷりのマオちゃんの声が聞こえた。
「よっし!ぱぱっといくにゃ!『変化』!」
え、と口に出す暇すらなく慌てて振り返った私の目に写ったのは、獣のそれのように『変化』させた爪を振りかぶった彼女であり…次の瞬間にはぱっと魔法のように野菜が規則性のない形でバラバラになったのである。
…下にあったまな板ごと。
「ありゃ、加減間違えたにゃ?」
何でわざわざ能力使おうと思ったの?とか色々言いたいことはあるが、私は混乱の末一言だけ言葉を絞り出した。
「…皮、剥こうか」
どうしよう。まだカレーの入り口程度の段階なのに不安しかないぞ。
ちゃんと完成するのだろうか。
マオちゃんと瀬切くんにはもう何も障害はないだろう鶏肉をハサミで切ってもらうことにして、私と米研ぎを終えた門倉くんで野菜の準備を整えていく。
夏野菜カレーが想定されているらしく、定番のニンジン玉ねぎジャガイモの他にもかぼちゃや茄子、オクラやパプリカまで具沢山。
食べるのは最高に美味しいだろうけど用意するとなると少し大変である。
門倉くんだけでもまともに調理がこなせる子で助かった。手際は良いし器用である。
チラリと彼がくし切りにした玉ねぎやトマトを見ると厚さも大きさもほとんどきっかり揃えられていて、私がやるよりよっぽど綺麗だった。
『転移』という能力がかなり繊細なコントロールを必要とするからか、それを扱う能力者も几帳面な人が多いとは聞いていたけれど…どうやら彼も例に漏れずという感じらしい。
普段はそう見えないのにね。
そんな、妙な安心感に油断していたのがいけなかったのか…不意にダァン!と凄まじい音が件の彼の方から鳴り響いた。
「ひぇ」
何事かと視線を向けて小さく悲鳴を漏らす。
なんと、身がしっかり詰まっているのだろう丸々としたかぼちゃの上に、良い子は真似しちゃいけない感じで包丁が突き刺さっていた。
なんだなんだ、今度は何があった。
「か、門倉くん?どうしたのかな?」
「…あ、すみませぇん。中々切れないからついイラァっとしちゃいましたぁ」
てへ、とオノマトペが付きそうな笑顔を浮かべながら後頭部に片手を添える姿は大変可愛らしいが、墓標よろしくそびえる刃物が完全に台無しにしている。
ちょいちょいと肩をつつかれて顔だけで振り向こうとすると、その前に私のそれとは質の違うさらりとした黒髪が顔のすぐ側で揺れてマオちゃんの密やかな声が耳朶に触れた。
「あぁ見えてアタシ達の中で一番短気なのは門倉ですにゃ」
「…ソウナンダ」
想定外の器用さといい、想定外の短気さといい…いきなりギャップ詰め込んでくるの止めていただきたい。
取り敢えずかぼちゃの調理は私が変わった。
何とか切り終えた野菜がズラリとボウルに入って並び、漸くカレー作りのステップ2に移行である。既に軽く走り込みをしたくらいの疲労があるのは何なのだろう。
「綴戯さん、次は何をするのにゃ?」
「次は具材を炒めていくよ」
彼女達に火を扱わせるのはもはや不安しかないので、この行程は私が鍋に張り付いて皆には具材を投入してもらうことにしようと決め、玉ねぎと油を持って台所の中央に陣取る鍋に向かうべくくるりと振り返った。
「…え」
危うくせっかく門倉くんが切り揃えてくれた玉ねぎを落としかけながら、私は我が目を疑ってくしくしと目を擦る。
が、やはり幻覚ではないらしい。
「あ、綴戯さん!危ないっすよ、火が付いてるっすから」
「えっと、そう…だね」
確かに火が付いてるね。鍋本体に。
メラメラと漫画やアニメのエフェクトのように炎を纏うそれはしかし、残念ながら現実であった。
「炒めるって聞いたんで『付与』しといたっす!ゲーム風に言えば"炎の鍋 Lv.5"的な感じっすね!」
そうじゃないんだよ!と頭を抱えたい気分だったが、ボールを拾ってきたワンコのようにキラッキラな目を見れば完全な善意であることは分かる為、強く叱ることも憚られる。
「瀬切…いつの間ににゃ…」
「本体をバーニングさせてどうするのさぁ…」
呆れを通り越してもはや虚無顔な二人なんて気にすることもなく、瀬切くんはぐっ!と親指を上げてにっかり笑った。
「俺の能力に時間制限があるんで、火力強めでぱっと出来るようにしてあるっす!さ、どうぞっすよ綴戯さん!」
いやどうぞと言われても…
「…近寄れないかな」
「あ」
具材どころか私がバーニングしてデス数が増える未来が見えたよね。
どうやら自分から途中解除は出来ないそうなので、『付与』が切れるのを待って調理を再開した。
ここからは実にスムーズで…というか、皆のトラブルスキルが発揮されるような場面がないから当然なのだけど。
順番に炒めた具材に水を加え、クツクツと煮立たせること暫く。
一度火を止めた鍋にマオちゃんがルゥを入れればもう完成したも同然である。
「完成っすか?」
「うん。後は焦がさないように煮立たせるだけだよ」
「ならぁ、混ぜるの代わりまぁす」
普通より大きなヘラをスマートに手から抜き取られ、私は鍋の前からやんわり遠ざけられた。
正直凄くありがたい。この量を混ぜるとなると想像以上に重く負担が掛かるもので、もう腕がプルプルしていたのだ。
「にぇにぇ、綴戯さん。トマトとかパプリカが余ってますにゃ」
「あ、それは冷蔵庫にサニーレタスがあったからサラダにしようと思ってたんだ」
予め手を付けずに残しておいたトマト、パプリカ、産毛の処理をしたオクラを勿体なそうに見ていたマオちゃんにそう告げながら冷蔵庫からレタスと水菜、ついでに卵も取り出した。
やっぱりカレーだけじゃなくて葉物野菜も取りたいからね。
「ドレッシングやマヨネーズはあったし、後はゆで卵でも添えれば…」
「にゃ!」
「任せるっす!」
「ちょ!?」
ささっと目の前から奪われた食材達に思わず手を伸ばして制止の声をかけようとしたが、ヤル気満々な彼女達からダメ!と取り上げるのもどうなのかと言葉を飲み込んだ。
いや、私だって学習してない訳じゃないんだよ?
でもほら瀬切くんはちゃんと水道で野菜を洗っているし、マオちゃんもきっちり包丁を握ってトマトを切っているし…
しっかり成長しているわけだから、信じてみても大丈夫だと思うんだ。
それにサラダ作るだけなら、ね?
手持ち無沙汰になった私はせっかくだからカレーに隠し味でも入れようと戸棚を開く。
個人的にはインスタントコーヒーが好きだけど、ソースやチョコレートもまた捨てがたい。
「あ、インスタントコーヒーがあった!」
期限を確認すれば大丈夫そうだったので、私はインスタントコーヒーと手近にあったスプーンを持って門倉くんの元へ戻る。
「門倉くん。ちょっと止めてもらって良いかな?…?」
一定のスピードでくーるくるとヘラを動かしていた彼に声をかけるも応答がないしヘラも止まらなかった。
再度呼び掛けても反応がなく、まるで自分が透明人間にでもなったかのような錯覚さえする。勿論そんなわけない。
心なしか頭がふらふらと揺れている気がして、もしや具合が悪いのかと手を伸ばし…
「っ!?」
ガクリと鍋に落ちかけた彼の頭を半ば反射で受け止めた。
どしゃりと門倉くんを抱えたまま床に尻餅を付く。
私は一驚を喫して声も出ず、心臓が飛び出でそうなくらいにドクドクと跳ねているのを感じながら腕の中にいる存在を見た。
良かった…危うく隠し味が門倉くんになるところだったよ。なんて、笑えない冗談である。
しかし急にどうしたのだろう?触った感じ熱は無さそうだし、立ち眩みだろうか。
「…すぅ」
「…ん???」
よくよく耳を澄ませれば深く一定な息遣いが聞こえ、まさかと思いつつさらりと彼の顔を隠していた髪を鋤いて退けると…そこには酷く安らかな表情で目を閉じる門倉くんがいた。
「嘘でしょ…」
まさかの居眠り…しかも起きる気配もなく力の抜けた体が重たい。
頭痛がしてきた私の頭も重たい。
とまれかくまれ誰かに門倉くんを退かしてもらおうと顔をあげて…後悔した。
二人の方から聞こえるガチャン、ドカンと言う音に私は乾いた笑みを浮かべ、保育士って大変なんだろうな、と遠い目をしながらしみじみ思った。
もう誰か助けてください。




