幕間:ある少女の『ソノヒ』
「…あ……」
その少女…五月雨祈が気付いた時には、薄暗い部屋には雨音が遠くから響くだけの静寂に満ちていた。
五月雨はぼんやりしたままうろ、と視線を彷徨わせる。
先程までいたはずの最愛の両親の姿を探して、迷子の子供のように頼りない様子で。
しかし、虚ろな瞳がある一点を映した瞬間、彼女に現実が牙を剥いた。
〈祈、分かって?愛しているから殺すの。だって殺せば、永遠に一緒ですもの。わたくし達は愛する娘を心に刻めるの。もう、どこにも"わたくし達の祈"はいなくならない。奪われない〉
最愛の母に"銃"を、最愛の両親に"殺意"を"拒絶"を突き付けられながら甘く甘く毒のように垂らされたその言葉。
ぽたり。ぽたりと。雨のように、飴のように。
細かいヒビが埋め尽くす硝子細工の隙間に入り込んだそれに五月雨はもう、すがり付くしかなかった。
だって、殺してしまえば永遠に一緒にいられると言うから。
私はまだ愛する娘。つまり、それなら私も…まだ私を愛してくれているままに両親を刻める筈だ。
…今ここで、コロしてしまえば。
そう、だって、愛しているから、殺すのでしょう?
ざぁざぁと酷い雨のような耳鳴りの中。ひたりと向けられた銃口から凶弾が弾けるその前に、五月雨は思いのままに手を伸ばし両親を囲う『結界』を…
「あ…ぁぁ…っ!」
思い出して、陸に上がった魚のようにはくはくと呼吸を繰り返した。
〈うぐ、が、あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ" ぁ"ぁ"!!!!〉
〈い"…の"……り"ぃぃぃぃぃ!!!!〉
バキリ、ボキリ、グニャリ、ネチャリ、ビシャビシャ、グチャグチャ…
絶望だけを詰め合わせた演奏会が五月雨の耳の奥でひたすらに繰り返される。
今更ながらに鼻につくひどく生臭い、鉄臭い香りまでが彼女を責めて、とうとう耐えきれずに胃液を吐いた。
落ち窪んだ目でそっと、真っ赤な水溜まりに落ちる一つの四角い肉塊を見る。
あれが、両親の成れの果て。
彼女の犯した罪の形そのものだった。
「あ、あ、ぁあああぁあぁぁぁぁぁ!!」
赤子の泣き声のように感情を100吐き出す悲鳴が、五月雨のかさついた唇から濁流のように溢れてこぼれて日常の残滓を飲み込んでいく。
もう、何も戻らない。
自ら"世界"に止めをさしたのだから。
彼女はただ当たり前の、絵に描いたような幸せが続いてほしかっただけだったのに。
愛し愛された少しだけ人より幸せな場所で笑っていたかったのに。
それがただ、"能力者"であるというだけでこうも遠くなるものなのか。砂上の楼閣のように、脆く呆気なく崩れ去るものなのか。
「わた、わたし…は…っ!!」
愛されたかった。
愛されていたかった彼女は、殺したい程に自分が憎まれていた事を知ってしまった。否、目を背けていただけだ。
その結果が、この惨状だ。
五月雨は、いっそ眠っている時に引き金を引いてほしかったと咽び泣く。
泣き続け赤い血溜まりへと落ちていく雫は壊れて砕けて涙に溶けた彼女の心そのものだった。
せめて最期くらいは溶け合いたいと願いながら、五月雨祈もまた死んでいく。
やがて身体中の水分を、心を涙で出しきったようにカラカラになった彼女は、まだ暖かい塊を汚れるのも厭わず抱き締めた。
「だ…大丈夫。大丈、夫。だ…だってこれで永遠に一緒だよ、ね?」
愛してる、と光の無い瞳を歪めた五月雨はソレが腐らないようにと大切に冷凍室へ入れ…"いつも通り"の顔をして島に帰ったのである。
だって、五月雨の中に両親はいる。"世界"はある。今までと変わらず愛し愛されている。そう、信じていたから。
《昨日未明から、富山県□□市在住の五月雨市太郎さんとその妻紀恵さんが行方不明になりました。五月雨氏は五月雨グループの社長で…》
《冷凍室からブロック状の肉塊が発見された他は変わった物は見当たらず、邸宅に争った形跡は無いものの近くに現れたとの情報がある怪異の関与も視野に入れ…》
「五月雨先輩!大変ですよ!?先輩のご両親が、失踪って…!!」
「う…ふふふ。失踪?何を言ってるの?お父様もお母様も私の中にいる、わ」
「…え?」
そのニュースが島に届くまでずっと。
「五月雨くん。どういう事なんだい?」
「う…ふふふ。愛している、の。あ…愛してるから殺した、の。だ…だってそうすれば私の事を好きな二人のまま永遠に二人の愛は私のものでもう、もう、失うこともない!そうよ、愛してるから殺すのよ!そうでしょう!お母様!お父様!う…ふふふふふふふふ!!」
養護教諭にそう語る彼女の瞳はもはや正気ではなくて、その場で共に見守っていた後輩は、仲間は皆理解した。
「あぁ…そうか、君はもう…」
五月雨祈の"世界"は、もう崩れ去っていたのだと。
「…な、んで、さっ!…クソ!!!」
酷く悔しそうな顔で、近くのゴミ箱を長い足でもって蹴りあげたのは果たして誰であったのか。
『廃人』の烙印をおされ、"施設"に隔離されて尚彼女は平然としていた。
彼女は己の中の"世界"からの愛をただただ妄信的に信じていたから。しかし、それで誤魔化せたのは最初だけだった。
「…た…足りな、い。ど…どうして?二人の愛は全て私のモノにしたのに、足りない、足りない、足りない足りない足りない足りない!!!!」
それは、当たり前の話。
何せ彼女がいくら信じようとも、もう両親からの愛は返ってこないのだから。
「もう、誰でも、誰でも良いから、愛して、愛して、愛して愛して愛して愛して愛して!私に愛を頂戴よ!!」
やがて彼女は極度の飢餓感に蝕まれ、しかしもうこの一人きりの牢獄から出ることは叶わず。
このまま飢えて死ぬのだろうと思っていた。
「や!皆をさ、殺しにいかない?」
『ソノヒ』、見知った青年がやってくるまでは。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
右も左も上も下もないまっさらなノートのように何もない空間に、とんでもなく雑な字で"ふくしゅー部屋"と書かれた張り紙の貼られた扉があった。
「…え?」
その扉の前にはおどおどとした少女が1人。
名を"五月雨祈"という。
「な…なんでこんなところ、に?」
怯えを孕んだ目で辺りを見渡すも、やはり扉以外は何もない。五月雨はすこぶる長い時間悩んで、恐る恐るやたら装飾の凝ったドアノブへ手を伸ばした。
確か己は"死んでいる"筈なのだから何が起こっても大丈夫だ、と再三言い聞かせながら。
「…え?」
「ん?よぅ、来たか」
扉の先には大画面のテレビと適当に置かれたソファやクッション、床には常識外れな量のお菓子や飲み物が山のように積み重ねられ、空き缶やら空き袋が散らかった大きめのローテーブルが中央に鎮座している。
そして…ソファに身を預けてぷしっと新しい缶ビールを開け、この異様な空間を満喫している知り合いの男。名を"七尾晴樹"という。
「な…何してる、の。あ…あなた死んだ筈じゃない、の」
「ハッ!そりゃお互いサマだろ。マァ取り敢えず座っとけや」
壊れたもの同士。
仲間に会えた懐かしさや感慨はもう心には湧かないが、何故何処何事という疑問は頭を埋め尽くすくらいに湧いて出る。
言いたい事は色々あるが、ミックスナッツを摘まんでビールをあおる七尾に無駄を悟って大人しくちょこんとソファの端に腰掛けた。
《祈。今までお前を見てやれなくてすまなかった。私達はもう恐れたりしない。…もっと恐ろしいモノを知ってしまったしね。ちゃんと祈と向き合うって約束するよ》
「…え」
不意に今までは部屋の様子に気を取られていて気付かなかったテレビから溢れ出た音声に、彼女はびくりと肩を揺らす。
そこに写っていたのは記憶よりもシワが刻まれた、しかし見間違う筈もない彼女の両親。
五月雨が失ってしまった、自ら壊してしまった筈の宝物と…
《ふふ!…祈、あなたの能力は人を守る素敵な力だったのね。恐れてごめんなさい。遅くなってしまいましたけど、あの時も今も…わたくし達を守ってくれてありがとう》
二人が話し掛ける先にいる存在へ目を向け、五月雨はわなわなと血の気が引いて青くなった唇を戦慄かせた。
「な…なん、で!?」
無理もない。何せ彼らの腕に抱かれていたのは、紛れもない己の姿…"五月雨祈"自身だったのだから。
《私達のしたことは最低だ。なぁ祈、赦してくれなくて良い。赦されてはいけないんだ》
《わたくし達は己の弱さと今日の罪を忘れませんわ。だから…一生をかけてあなたに証明させてくださいな》
《《祈を、愛してることを》》
久しぶりに見た、最後に見たのがいつかも分からない両親の心からの笑顔に五月雨は絶句する。
自分がいくら手を伸ばしても取り戻せなかった幸せ。それを享受する自分じゃない自分にヘドロのような嫉妬が渦巻いた。
「ど…どうし、て。どうしてこんなもの見せるの!?」
我関せずでテレビを眺める七尾にギシリと歯を食い縛りながら問い詰める。
彼は殺気立つ彼女を面倒そうに見やり、ただ一言呟いた。
「復讐」
その意味を考える暇も問い返す暇も無くテレビの向こう側では時が進み、あちらの"五月雨"がピアノを奏で始める。
「…っ!」
自分もよく知る曲だった。
雨に降られながらも開かない彼女の家の扉の前で愛を歌い続ける男を描いた曲。気に入りの一曲。
けれどその演奏は、自分とは似ても似つかない光に満ちていた。
「おーおー、テメェピアノなんざ弾けたのかよ。ハハ!良いねェ上手いじゃねェか!」
「ち…違う。こんな解釈…知らな、い」
一方通行の愛の歌。五月雨の知るこの曲はそうである筈なのに、"五月雨"の奏でる音には悲壮感も諦めもありはしない。
そう、それはまるで…
《お父様!お母様!愛しています!!》
《ええ、わたくし達も》
《ああ、私達も》
《《愛してるよ、祈》》
その扉が開くのを、知っていたかのように。
言われたのが自分であったなら、それはきっと天使のラッパのように極上の音だっただろうに。
五月雨にとってそれは、断罪の音に他なら無かった。
これが、彼女が諦めて己から砕き壊した"世界"なのだ、と。
彼女が棄てた道の先なのだ、と。
「わ…私、あんな風に笑えたんだ、ね」
「テメェとは大違いだわな。あっちのが可愛いんじゃねェの」
自分もそう思うと同意しようとして、別の声がそれを遮った。
《ほら、見ているか、大嫌いな"五月雨祈"》
「…え?」
「ックク!」
誰の声なのかは不思議と直ぐに分かって、しかし何故彼女の声が?と五月雨は目を白黒させる。
五月雨にとって"彼女"は可哀い人だった。
力は能力者の誰よりも弱く、誰からも等しく虐げられ時には殺される。
立場は一般人の誰よりも低く、蔑まれ罵られ居場所の一つも与えられない。
一人ぼっちの弱者。それが"彼女"。
可哀いくて可哀くて、けれど五月雨が欲しいと願っても死なないためにモノに出来なかった…そんな、哀れで惨めな存在。
しかし…
《この"記録"はお前に送る私からの嫌がらせだ。そして、五月雨さんに送る心からの祝福でもある》
その弱者が、まさに今、五月雨祈へ牙を剥いたのだ。
画面に映る世界の中で、照れたように"五月雨"と抱擁を交わしながら…"そこ"に存在しながら。
弱かった。
しかし弱かった筈の"彼女"は死んだ五月雨に、ここにいる彼女が掴めなかった未来を側に携えてこう吐き捨てたのだ。
ざまぁみろ、と。
「あんなに愛されて…羨ましい」
あちらの"五月雨"は両親にも、焦がれていた"彼女"にも愛されていた。
「…そっか、復讐」
ここで漸く七尾の言葉を理解する。
あぁ、これは罰なのか、と
自分達の身勝手に彼女を、世界を巻き込んだ。
だとしたら、なんて優しくて残酷な罰だろう。
ぱたぱたと握りしめた手の甲に涙が落ちていく。
「どんな気分よ」
「…ふふっ、最低最悪だ、よ」
「ハハッ!だよな」
だけど込み上げるのは怒りよりもいっそ清々しい、完敗した己を笑う気持ち。
そうだ、五月雨は負けたのだ。
誰よりも弱い彼女に。
「ほら、取り敢えず飲め」
「み…未成年だからビールはちょっ、と」
「今更法律もクソもあるかよ」
それもそうかと思い至り、五月雨は手渡されるままビールを口につけて傾ける。
ここが何なのか、どうして彼女が瓦礫の世界じゃない場所にいるのか…分からないことだらけだが、既にリタイア済みの自分達には関係もないこと。
あとはただ、彼女の歩む"復讐"の道をこうして覗き見するくらいしか出来ないのだから。
五月雨が初めて飲んだビールの味は、そこはかとなく苦く感じた。




