6-3
心の中はまるでぐらぐらとマグマが煮えたぎるような怒りで満ちているのに、頭は自分でも驚くくらいに冷えきっていた。
立派な本棚に小ぢんまりとした、しかし造りの美しい一人用デスク。
優しげな照明の灯りも相まって本来なら落ち着いたプライベートスペースなのだろう。
しかし、図書室と似ている筈のこの場所にはあちらのような安らぎはまるでなくなっていて、ぎしりと軋んだ空気が滞ったまま本達を傷めているみたいに見えた。
外は酷い天気なのか、叩きつけるような雨の音が微かにだが聞こえてくる。
この家に来てからというもの、雨の音が"あちら"のような冷たさを帯びている気がして気分が悪い。
波立った気を落ち着かせるように辺りをゆっくり見た後、私は仁王立ちしたまま物理的にも恐らく精神的にも腰を抜かしているのだろう二人を睨む。
最初は比較的軽い気持ちで悪事を"記録"しようと思っていた私だけれど、まさか五月雨さんのところに運ばれるとは思っていなかった。
少し格好つけて八丸くんと別行動をした意味がないじゃないか。
…まぁ、それはいいけど。
問題なのはその五月雨さんが怪我だらけであった事と、彼女に向けられた言刃の数々。
どれもこれも実の娘に吐くものとは到底思えないくらい、酷く悪辣な台詞だったけれど…
その、最後を締め括った言葉。それを聞いて分かってしまったのだ。
《こ…殺すのは愛なんだって教えてもらった、から。だ…だって殺せばいつまでも私の中で永遠に一緒だ、もん》
〈祈、分かって?愛しているから殺すの。だって殺せば、永遠に一緒ですもの〉
理解できないと思っていた"アイツ"の言葉は、丸きり今しがた聞いた母親の科白と変わらないじゃないか。
理屈を理解できないのは変わらないけれど、"アイツ"は確かにこの言葉を信じていたのだろう事は理解できた。
そしてその上で、もう1つの真実にも気付いてしまったのだ。
暖かいと思っていたオレンジ色に似た照明がやたら赤く肌を照らしているように見え、窓のない空間に籠った空気はどこか生臭さを感じさせながら不気味にそこにある。
私の心がそうさせているのだろう。
だって、あまりにも気分が悪い。
〈〔冷凍室からブロック状の肉塊が発見された他は変わった物は見当たらず…〕〉
不自然に邸宅にあったそれ。
どうして思い出した時に察せなかった?
その、"ブロック状の肉塊"なら何度も見てきたじゃないか。私がなったことすら幾度もあったじゃないか。
"あちら"の、瓦礫の大地の上で。
それは恐らく"アイツ"の、"五月雨祈"の能力で圧縮された人間の成れの果て。
さっきのやり取りで確信した。
あのニュースで報じられた肉塊は…きっと彼女の両親だと。
《せ…"世界"は私の中にきちんとある、よ?》
五月雨さんの"世界"と呼ぶべきものが具体的に何であるのかは分からないけれど…
もし、もしも、だ。
それが両親に関係するものであり、あんな拒絶をされたのだとしたら。
その上で、殺す事は愛なのだと囁かれたなら。
私の知る五月雨さんではなく、壊れた先の"アイツ"ならどうしただろうか?
その答えは、伸ばされようとしていた五月雨さんの腕と発動しかけた能力が物語っていた。
あれは銃から己を守る為に発動したんじゃない。
だってあれは…私が嫌でも見慣れた殺す対象を囲って閉じ込める箱形の結界だったから。
何度も目の前で見てきたんだ。さすがに分かる。
つまるところ、あれは怪異事件でも失踪事件でもなく能力者…それも身内による殺人だったのだ。
こんな真実を世間に知られるわけにはいかなかったからこそ、本当の事は隠されたのだろう。
そりゃ、能力者は実の家族すら殺します…なんて言えないでしょう。
必死に怪異を討伐して一般人へ無害アピールしているのだから。
それにしても…嫌な予感に突き動かされて無我夢中で割り入ったけれど、完成直前で本当にギリギリだった。
たぶん"こっち"では初めてか慣れていない使い方だったのだろう。
タイムラグがあった事、集中を切らせる程度で発動を中断できた事…本当に幸運だった。
というか、至くんに大樹くんの治療道具を頼んだ時も思ったけれど、能力者の判断力とか行動力が凄い。
咄嗟に出た一声だったのに、待ってましたとばかりに八丸くんが動いてくれるなんて思わなかった。いや、ありがたいし仕事も完璧で言うこと無しなんだけどね。
…七尾さんの時よりずっと情報が少ないせいか、確信と呼べるほどのものはない。
それでも不思議と私には分かってしまった。
《ほ…本当に欲しいと思ったものは、いつも手に入らない、のね》
これがきっと、"五月雨祈"の『ソノヒ』である、と。
…あれ?それならもう私の『復讐』は達成出来たのか?
少なくとも五月雨さんが両親を殺すのは止められた、と思うけれど…この空気ではい解決!って感じは全くしないな。
何より、七尾さんの時のような…"あっち"と"こっち"が完全に解離する感覚がなかった。
どうすれば良いかは分からないけど、とりあえずこのまま黙っていても仕方ない。
正直、進んで人様の家庭事情に首を突っ込みたくはないけど…いいや、首絞められた恨みもあるし、とことん無神経になってやる。
彼女の『ソノヒ』を叩き折るという、私の『復讐』の為に。
1つ、深呼吸をして私は彼女の父親へと歩を進めた。
「ッ…」
私みたいなひょろひょろの小娘、しかも先程首を締めた相手に向かって声にもならない悲鳴をあげる彼に心底呆れながらそのすぐ側にしゃがむ。
「よく、わからないんだけれど」
思いの外冷たく響いた私の声はまるで瓦礫を撫でる風のように無機質で、蝋燭の火を吹き消すみたいに小さな空間から暖かみを奪う。
いけない。"アイツ"を思い出したせいで口調や態度があの頃に寄ってしまった。
視界の端でぴんと耳を立てて驚いている八丸くんには悪いことをしたな。ごめんね。
こほんと咳払いをして無理やり空気を弛緩させ、続きを紡ぐべく再度口を開く。
「どうしてお前達は、五月雨さんを化け物だと言うの?」
「ど、どうして?…はは、おかしな事を聞くね。そりゃ、娘が能力者だからだよ」
大樹くんの時の男もそうだけど、どうにも一般人の中には異様に能力者を拒絶する人が少なくないみたいだ。
昔の私や友人達は気にしたこともなかったし、むしろ噂を聞いたりすれば凄い人がいるんだなと漫画の1頁やアニメのワンシーンを見た感想くらいに軽い憧れを持っていたものだけど。
まぁ現物を見て抱いた感情については割愛する。何せ初見が"アイツ"だし、アレだったからね。言わずもがなでしょ。
私があまり納得していない表情を浮かべたせいか、彼は痺れているだろう体を震わせて尚も言い募る。
「娘の事は愛していたさ!今だって愛したい!だが、無理なんだよ!!能力者?人の枠から外れた力を持つ?そんなの普通じゃないだろう!そんな得体の知れないモノ、化け物以外の何だと言うんだ!」
それはさながらダムの放水のように流れ出る思いの奔流だった。
唾を飛ばす勢いで叫んだ五月雨さんの父親に同調するように、奥さんの方も銃を失った手を不自由そうに握りしめてひきつった声をあげる。
「娘を、娘を愛したいわ…愛したいわよ!!わたくし達の宝、わたくし達の天使!でも、能力者だったの!わたくし達と違うの!違う存在なの!!それがおぞましくて、どうしようもなく気持ち悪いのですわ!!」
「っ…」
微かに息を飲む音がした。
そっと五月雨さんを見れば、俯きがちな顔は空色の髪がカーテンのように隠してしまっているけれど、すらりとした指が白くなるほど強く握られた服のぐしゃりとしたシワが彼女の心情そのものだろう。
酷い言葉を聞かせてしまっているのはわかってる。首を突っ込んで本当にごめんなさい。
けど、成る程分かった。
この人達はきっと…臆病だったんだね。
能力者の人並外れた力の噂だけを聞いて勝手に恐れ、子供が魔王と聞いて悪魔のような化け物を想像するのと同じように…おぞましい姿を己の頭に形作ったのだろう。
それこそ、"化け物"と呼ぶに相応しい何かを。
そうして勝手に作った"能力者"の姿を,幻影を五月雨さんに押し付けて、恐れ,嫌悪しているのだ。
なんて、私がそんな事を考えている間にも勢い付いてしまったのか奥さんが更に言葉を重ねていく。
「怪異だなんて呼ばれる化け物だって本当は能力者のことなのでしょう!?そうに決まっていますわ!」
「キサマら…!!黙って聞いていれば…!これ以上仲間を侮辱するならいくらイノリの家族とて許さないのヨ!!」
「「ヒッ!な、仲間…!?」」
タン!と質の良い絨毯を踏みつけながら、八丸くんは子供姿には到底似つかわしくないくらいに酷く恐ろしい顔で二人を睨めつけた。
そりゃ、とてもじゃないが気分の良いものじゃないだろう。
いくらなんでも怪異と同視されるのは酷すぎる。
二菜ちゃんや至くんに聞いた話では能力者達は怪異との戦いで命を落とすことが多い。
七尾さんの奥さんだってそうだったと聞いた。
そんな、仲間を殺す怪物と同じだと言われた八丸くんや背後の五月雨さんの心中は、私では到底計り知れない。
今にも飛び掛かりそうな八丸くんを横目に、今の発言で彼が能力者だと気付いたのか遠ざかろうともがく二人に内心ため息をつく。
耳と尾の事は置いておくにしても、八丸くんて虹彩も瞳も鮮やかだし結構分かりやすく能力者だと思うんだけど…今更?
本当に彼らは無知で、先入観という眼鏡越しに能力者を見ていたのだろうね。
ところで八丸くん、いつの間にかバッジの効果切れてない?大丈夫なの?
私は二人と五月雨さんを交互に眺めた後、ゆるりと首をかしげる。
「ねぇ、お前達は好き勝手な妄想で五月雨さんを傷付けてきた訳だけど…彼女の力は一度でもお前達を傷付けたのかな?」
「「…は?」」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、五月雨夫婦は揃って瞬いた。
そんなに意外な質問か?否。そんなわけがない。
ただこの二人がその可能性を考えてもいなかっただけだ。
例えば自分より強い相手…そうだな、銃を持った相手に進んで暴力をふるいにいく人はいないだろう。
それと同じで、人の枠を外れた力が恐ろしいだ何だと言っているクセにその存在に暴力をふるうなんて、普通に考えるならあり得ない。
だってそんなの勇者過ぎるじゃないか。
やり返されたら、自分より相手の方が確実に強いのだから。
死なないと分かっている私ですら、"あっち"の一ノ世を殴ろうとしたことなんかないぞ。
いや、まぁ頭の中じゃサンドバッグにして殴っていたけど…これは蛇足か。
「自分の方が強いなら、私だったらやり返す。…お前達ならどう?」
「そ、れは…」
「じゃあ他の意見も聞いてみる?はい、では八丸くん。あなたが五月雨さんと同じ立場になったらどうしますか」
「そりゃ、普通に相手を殺すのヨ。あんな痣だらけになるまで痛い思いしたくないし、化け物なんて言ってくる親とかいらないのヨ。だからたっぷり今までの分痛めつけて惨たらしく殺す。因果応報ってやつなのヨ」
「「ヒッ!」」
「ちょっとまって予想より過激」
さらっと、しかし決して冗談ではない響きで殺すと言い捨てた八丸くんに、夫婦は怯えて短い悲鳴を上げて体を揺らす。
別に脅したかった訳ではなかったのだけど…まぁいい。
私は気を取り直すようにこほんと咳払いを1つ溢し、ぴっと人差し指を立てた。
「まぁつまり…もし彼女がお前達の恐れる化け物ならさ、家族だとか関係なくとっくにやり返されていると思うのだけど。何で無事なんだと思う?いや、何で大丈夫だろうと…信じれた?」
わかっている筈だ。ただ家族であることが安心材料にはなり得ないことが。
悲しい事に親が子を、子が親を殺めたというニュースは珍しくないのだから。
恐らく二人も自分ならと想像したのだろう。
何かを言おうとして、しかし何も言い返す言葉が生まれないまま揃って口をつぐむ。
「私はこう思ったよ。それは、間違いなく彼女がお前達の愛する娘であり、同時にお前達が彼女の愛する両親だからだ、と」
「…ぁ」
いくら五月雨さんを能力者だ化け物だと嫌悪しても心にある愛情は消えなかった。
それは、幸せそうに思い出話を語っていた奥さんの様子が物語っている。だって…あの表情は本物だった筈だから。
その愛情が良くも悪くも信じさせていたのだろう。
愛する娘が自分たちに牙を剥く筈がない、と。
私は五月雨さんに向き直り、何か言いたそうな顔でこちらを見ていた彼女に小さく微笑んで1つ頷いて見せる。
私につられた二人の目がここに来て初めて真っ直ぐ五月雨さんを見つめた。
擦ったのか目元を赤く染め、流れる雫で頬を濡らしながら座り込む1人の少女を。
「祈…」
彼女は一瞬口をぎゅっとつぐみ、先程の両親達のように思いを吐き出すべくおずおずと口を開いた。
「わ…私は普通でありたかった、よ。の…能力者なんてなりたくなかった。だ…だって能力者じゃなければ、昔みたいに愛してもらえた、のに!な…何度もこの目を抉ろうとも思っ、た!でも…でもそんな事したら、もう大好きなお父様とお母様が見えないじゃない!」
「祈…あなた…」
「私は!私はただ二人の愛する娘でいたかったのに!頭だって撫でられたいし、ピアノだって聞いてほしいの!!ただ、ただ…"能力者"じゃなくて、"私"を見て愛して欲しかったの!!だって、私は…どんな事をされたって、二人が大好きなんだから!!愛しているんだから!!」
今まで冷えきっていた空気を火傷でもしそうな熱を孕んだ言葉が上書きしていく。
それは今まで見てきた五月雨さんらしからぬ熱烈な告白。ありふれた、しかし純然たる愛の言葉。
きっと八丸くんも、そして五月雨さんの両親も初めてこんな感情的な彼女を見たのだろう、揃ってポカンとした顔を晒している。
「大好きよ!当たり前じゃない!私は生まれた時からずっと、お父様とお母様が大好きだよ!この思いが変わった事なんて一度もないし、これからもないわ!だから愛して!もう一度私を愛してよ!!私は"能力者"じゃなくて、"五月雨祈"なんだから!!」
誰も言葉を発せずに、叫び疲れた五月雨さんの荒い呼吸だけが聞こえていた。
チラリと彼女の両親を見れば、彼らは音もなくはらはらと涙を流している。
その瞳にあるのは困惑と後悔ばかりであり、先程まであった嫌悪は吹き飛ばされたようにどこにもない。
どうやら少しは届いた、のかな。
「…娘を愛していたのなら、キサマらは拒むより先に知る努力をするべきだったのヨ。一般人とか能力者以前に…親子なんだから」
五月雨さんを慰めるようにその背を撫でる八丸くんの言葉に、二人は揃って項垂れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小さな空間には不愉快ではない沈黙が未だに激しい雨音と共に落ちている。
そんな中でヴーヴーと微かなバイブ音が響いた。どうやら八丸くんの端末かららしく、彼はやや険しい顔でメッセージの題名を確認している。
「サエちゃん、ララちゃんの御誘いと…ヒサヤから?えぇと、ん?怪異の情報? 」
最初2つはどうでも良いとして怪異…?
「何々?〔今報告来たんだけどさ、その辺に二三日前から怪異らしきモノがいる痕跡があるっぽいから気を付けてね〕…?げっ…まずいのヨ!!今ここには…!!」
何かを思い出しそうになったところで、雨音に紛れてどこからかキシリキシリと嫌な音がしてきた。
どうやら私以外にも聞こえているらしく皆が不安そうにキョロキョロと辺りを見渡す。
八丸くんの耳もぴこぴこと忙しなく動いていたが、あの不快な音が鳴り止んだ瞬間それはぴん!と立ち、同時に彼は焦ったように口を開いた。
「イノリ!!」
「…っ!?」
それは一瞬の事。
五月雨さんが弾かれるように立ち上がって咄嗟に『結界』を張ったその瞬間…外に面していた壁が吹き飛び、そこから巨大な鎌のようなものが襲い掛かってきたのだ。
ガキィン!と硬い音を立て間一髪『結界』に受け止められたそれを驚いて座り込んでしまった体勢のまま辿れば、そこにいたのはサソリとカマキリを混ぜたような格好をした異形。
雨なのか他の何かなのかぬらぬらと濡れて不気味に光る黒いそれは、首なしのトルソーに似た体から鎌がついた巨大な2本の腕を伸ばし、体を支える四本の脚はまるで人間の腕みたいで気色悪い。
【Kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii】
サソリのような尾の先についた球体がぐぱぁと口を開き、牙を剥き出しにしてよだれを垂らしながら雄叫びを上げた。
あぁ、これは…怪異だ。何度見ても気色悪い。
『結界』を見たことによる恐怖も相まって喉がカラカラである。
あの透明な壁が今にも迫って私を押し潰す…そんな幻視がちらついて、"記録"がにじり寄るように血生臭さが鼻の奥で渦巻いた。
馬鹿か私は。今それどころじゃないだろう。
【Kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii】
「っ…まずい!!」
再びふるわれた鎌が『結界』に阻まれるも、その一撃は衝撃で空気を揺らすほどに重く、ピシリと透明な壁にヒビを入れる。
「イノリ!その体で無理しちゃダメなのヨ!オレサマが引き付けるから、一度開けるのヨ!」
「…っ、は、はい」
立っているのも辛そうな五月雨さんは脂汗を浮かべながら八丸くんの指示に従って怪異の隙を見ながら『結界』を解くと、彼の戦闘スペースを確保するためか私達のいる方へ駆け寄って前線を下げた。
「五月雨さん、大丈夫…?」
「へ…平気で、す。わ…私が守り…くっ!!」
ふらふらと体を揺らして絶対に大丈夫なんかじゃないのに。それでも彼女は飛んでくる瓦礫や攻撃から私や父親、母親を守る為に『結界』を張る。
張り直したおかげかヒビの消えたそれはしかし、どこか不安定にも見えた。
「…っ!」
一度ぎゅっと目を閉じて再び開く。
よく見ろ綴戯栞里。今目の前に立ってくれているのは…"アイツ"じゃない。五月雨さんだ。
彼女の『結界』は、人を殺すためのものじゃない。
己に言い聞かせながら深呼吸を繰り返せば、視界のノイズは消えていた。
〈〔近くに現れたとの情報がある怪異の関与も視野に入れ…〕〉
落ち着いたところで思い出すのはあのニュースの記憶。
やっぱりあの事件の軸をなぞっている可能性が高い気がする。
あれは結局怪異事件ではなかったみたいだけれど、近くに怪異が出現していたのは間違いない。
そしてこちらでも同じように近くに怪異が出現したのなら…今、能力者が三人も集っているこの場所に来ない筈がないのだ。
つまりそれが現状。なんて、分かったところでどうしようもないのだけれど。
「くそ、コイツ…!『硬質化』持ちなのヨ!かったい!!!…っうわ!!」
「八丸くん!?」
腕を様々な武器に『変化』させながら怪異を翻弄していた八丸くんが、尾の球体に頭突き(?)されてポーンと飛ばされる。
『硬質化』って七尾さんと同じ系統の力…なら今のは彼の拳同様鉄球でぶん殴られるような衝撃じゃ!?
しかし私の心配を余所に、彼はなんでもないようにクルリと空中で体制を整えてシュタッと『結界』を隔てた目の前に着地した。
「八丸くん、だ、大丈夫なの?」
「オレサマは平気なのヨ。一瞬体を衝撃吸収剤に変えたからダメージはないのヨ」
何それ凄い。
アレだよね、生卵を凄く高くから落としても割れないってやつ。
「でも困ったのヨ。オレサマ基本戦車や重火器とかに『変化』してちゃっちゃと済ませるタイプなのに…」
八丸くんはチラリと五月雨さんを、ついで何がなんだか分からずに放心している夫婦を見て表情を曇らせる。
「今のイノリじゃオレサマの攻撃に耐えられる『結界』は張れないのよ。全員が避難してもらう他ないけど…っと!」
ぶおん!と凄まじい風切り音を立てて、今しがた八丸くんのいた場所を…つまり私の目の前を鎌が通過していった。
『結界』があるから衝撃や風は来なかったけれど、つぅっと冷や汗が落ちる。
一応死ななくても恐怖はあるからね。
「つ…綴戯さん危ないので下がってくだ、さい」
「わ、わかった…」
毎度何の役にも立てない己に悔しさが込み上げるけど、自分に腹を立てていても仕方がない。力がないのは事実だ。
大人しく下がろうとしてふと八丸くんの言いかけた言葉を思い返す。
八丸くんが本気を出せないのはここに、この狭い空間にあの夫婦がいるからだ。
本来なら五月雨さんの『結界』があれば問題なかったであろう話だけど、今の彼女は本調子どころか立っているのでやっとなくらい弱っている。
なら…今、私のすべきことは…無力を嘆くことじゃない。
私は足を向ける方向を、痺れはとれたのか互いに抱き合う夫婦へと向けた。
「あの、ここは危ないので避難しませんか?」
さっきまでの口調を引っ込め、なるべく優しく撫でるように私は二人へと声を掛ける。
と、反応が帰ってくるより先にまたしてもキィン!!と凄まじい音が辺りに響き渡り、ビリビリと空気を震わせた。み、耳が…!
振り返って怪異の様子を見ると、先程とは様子が違っている事に気付く。
全身があのぬらぬらとした濡れ感からピカピカな金属を彷彿とさせる質感に変わっており、球体についた口が八丸くんではなくこちらを見てにいっと笑った。
ゾクッと体が感じた恐怖は間違いではなく、怪異は気持ち悪い脚部を出来の悪いおもちゃのようにカタカタ動かしながらこちらへ迫ってくるではないか。
「おい!!キサマの相手はオレサマなのヨ!!余所見すんな!!」
八丸くんのアサルトライフルを鎌で防ぎ、続く刀の一撃も酷く硬い響きだけ残して弾かれる。
「チィッ!!硬すぎなのヨ!!!小火器じゃ歯が立たないのヨ…!イノリ!」
【Kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii】
怪異はそのまま八丸くんを丸っと無視して、五月雨さんの『結界』に体当たりをしてきたのだ。ピシリと嫌な音が微かに走る。
なんでこっちに?能力者が多いから?否、あれは…あの笑いは…
狙われたんだ、故意に。
弱っている、もしくは弱い私達側を…!
「っく…!ま…負け、ない!」
「五月雨さん!!」
「だ…大丈夫!!大丈夫なんだから!!」
私は強く唇を噛む。ぶつりと食い破った痛みと血の味で、何とか冷静さを保つ。
狼狽えるな。こんなのあの地獄よりましな筈だろう綴戯栞里…!
心配だと言うのなら行動してみせろ!何とかこの状況を変えるんだ!
パチンと頬を叩いて私は再度夫婦へ向き直る。
「大丈夫ですか!立てますか!」
「な、なななな、何なのだ!?一体何が起こっている!!何故壁に穴が!?」
「なんですの!?今の叫び声は!!この揺れは…!!あぁ!神よ!!」
まずい。さっきの衝撃でパニックになってる。立たせようとするも、ガタガタと足が震えて力が全く入らないらしく…これじゃあ非力な私じゃ運べないぞ。
立てない事実に余計に慌て出した二人に何とか落ち着かせようと声をかけた。
「落ち着いて。今、娘さんともう1人は怪異と戦っています、だから…」
「あいつだ!!能力者が暴れているんだ!!そうだろう!!他に何がある!!やはり化け物じゃないか!!」
「違います!彼らは怪異と…」
「あぁ!やはりわたくし達を恨んで殺そうとしているのでしょう!?祈はわたくし達を閉じ込めているんだわ!」
話が全く通じやしない。怪異が見えず、しかし五月雨さんと八丸くんだけが見える状況なんて最悪すぎる。
パニックでさっきまでの話が飛んで振り出しに戻ってしまった。しかも今度は能力者を妄想で恐れるのではなく現実で、となると…
「聞いてください!!これは五月雨さん達の仕業じゃない!彼女達は私達を守ってくれているんです!」
「嘘をつけ!!何から守ると言うんだ!!あの化け物達以外何もいないではないか!!祈は私達を外に逃げないようにして…やはり化け物の仲間だったんだ!」
「そうですわ!屋敷を破壊したのも、今暴れているのも…あのおぞましい子供ではないですの!!いずれ祈に閉じ込められたわたくし達も…!」
どうして伝わってくれない…!
五月雨さんの『結界』は閉じ込めているのではなく、守ってくれているのに!!
八丸くんは暴れているのではなく、怪異の注意を引くために戦ってくれているのに!!
そもそも父親が外と指差した穴には怪異がいて出られたものじゃないんだぞ!!
五月雨さんの背が震えている。悲しくて、辛くて仕方がないだろうに…それでも彼女は立ってくれていて、あんなに、あんなになってまで守ろうとしてくれているのに…!!
「シオリ!一般人に話したって無駄なのヨ!」
八丸くんの言葉はもっともだ。
わかってる。
怪異は一般人にはどうやっても見えないもので、見えないものの存在証明なんて酷く難しい。
いくつか研究はされていたけれど、結局は全部失敗して無駄に終わっているのだ。
けれど、だからって…
今この瞬間も"無駄"の一言で片付けろと?
生憎だけれど、地獄を這いずり回った私は人一倍諦めが悪いし性格も悪いんだ。
「このまま目を背けるなんて、間違ってる」
五月雨さんを傷つけといて、現実から目を背けるなんて楽な道はあげない。そんなものくれてやるものか。
どうやっても立ち上がれる様子のない二人から手を離し、私はまっすぐに佇む。
予定変更だ。逃がせないならせめて、戦っている彼女らへの雑音を消すとしようじゃないか。
「な、なんだ!?なにをするつもりだ!?」
「ま、まさかあなたも能力者なの…!?」
私は気付いたのだ。
私だからこそ出来る1つの可能性に。
私の"記録"に刻まれるのは当然私が認識したものである。
だとするならば、私が今"記録"したこの場所には…私というカメラを通したそこにはきっと…
「『開示』!!」
対象は夫婦。呼び出す"記録"は…リアルタイム!!
一瞬だけ世界が歪み、しかしすぐになんでもないように景色が戻る。
傍らに浮かぶ本を見るに私の能力は発動しているのだろうけれど、如何せん私から見たら何一つ変化はない。けれど、彼らには決定的に違っている筈だ。
【Kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii】
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「なっ!?なんだあれは!?さっきまであんなものいなかっただろう!!いつの間に!?」
よし、成功だ。
私の認識を通した"記録"であれば、そこには怪異の姿だって刻まれている筈…仮説は間違っていなかった。
余程あの異形に驚いたのか、二人の顔色が今まで一酷い気がするけれど…そっか、そりゃアレは気持ち悪いわ。
危ない危ない。一歩間違えば失神させて更に面倒な事になるところだった。私は冷静なつもりで全然冷静じゃなかったらしい。
ガツン!と音が鳴り、再び奴が体当たりをしているのが見える。相変わらず球体はこちらをにたにたと眺め、二本の鎌は八丸くんからの防衛に徹したまま体は体当たりを繰り返す。
「…っう…くぅ!」
五月雨さんも限界が近い。
そんな苦しげな彼女の様子に、パニック手前だった二人は息を飲むようにして固まった。
すうっと火薬と埃、それから未だに降り続く雨の匂いを吸い込んで、私はパニックを抑えるべく努めて穏やかに言葉を紡ぐ。
「あれが怪異。今なら見えますね?」
「か、怪異…?あれが、本当に…?」
「そんな、あんなものが…?」
ガツン!と続く体当たり。
その度に『結界』を保とうとしている五月雨さんの体がビクリと震える。
「い、祈は何をしていますの…!?あんな、ところで…」
「彼女の能力は『結界』。あの壁は、あなた達を守る為に…彼女がその身を呈して張っているんですよ」
「そ、んな…じゃあ…あれは閉じ込める為じゃ…」
「言った筈です。守ってくれている、と。人を守る力なんて、彼女らしいですよね」
父親の唇がわなわなと震える。
五月雨さんのふらふらな背中を見て、彼は今何を思っているのだろう。
「結界…そうですわ…あの日も祈は、わたくし達を守ろうと…なのに…!」
震える手で口を抑える母親は、何を思っているのだろう。
「あの、子供も…戦ってくれていた、のか。あんなに小さいのに…」
二人の視線はやがて八丸くんにも向き、辛そうに顔を歪ませる…が、申し訳ない。
八丸くんは子供なの見てくれだけだから。
中身は成人済みの変態だからそこまで憐れむ視線はいらないかな。
ガツン!とまた衝撃。着実にヒビが増えていく。
二人は肩を震わせて、今にも倒れそうにふらついた五月雨さんを見た。母親が思わずといった体で、ずるずると這うように彼女へ近付こうとするのを前に立つことで止める。
「っの!!!いい加減無視すんななのヨ!」
チラリと様子を見れば、八丸くんがイライラした様子で怪異の球体をハンマーで打ち込んでいた。
二菜ちゃん程の威力はさすがにないけれど中々の衝撃だったのか、ふらついた怪異の体当たりが止まる。
「これを見ても、あなた方は能力者を…娘を化け物だと言いますか。怪異と同じものだと罵れますか」
「「…っ」」
私が問いかける前から二人は血が出るくらいに口を噛み締め、泣いていた。
聞くまでもなく答えは出ているだろう。
「ねぇ。教えて頂戴。祈は、いつもあんなものと…?」
「…はい。いつも戦っていますよ。能力者はああして怪異と戦って一般人を守り、そして…時に死ぬんです。あなた方と同じように、いえ、もしかしたらあなた方より呆気なく…死んでしまうんですよ」
「そんな…!ならわたくしは…なんてことを…」
二菜ちゃんや至くんのような学生でさえ毎日のように任務が入って戦っている。
あんな、人を食らう怪物と戦っているのだ。
守られている彼らより危険であるのは当たり前で、いつだって死は隣で口を開けていることだろう。
「そんな、まるで…兵士じゃないか」
「そうですね。能力者は少し人と違うだけで…こうして戦場に立たされるんです。これが、あなた方の恐れた"能力者"と呼ばれる人間の現実ですよ」
「…っ!!」
なんて。私だって知ったのはごく最近だ。
けど、だからこそ私はそれを当たり前だとは受け止めない。
知らないままでいる傲慢も、知ってもらう努力をしない怠惰も私は許されると思わない。
その考えを人に押し付ける辺り最低なんだろうけど、それは理解した上で…私は私の自分勝手な意思の元で彼らに怪異を見せたのだ。
正直見せていいものだったのかは知らないんだけどね。まぁ八丸くんに止められなかったのだから大丈夫…の筈。
…やだな、後で怒られたらどうしよう。
「…っ祈!!!」
母親の叫びにピクリと五月雨さんが肩を震わせる。その様子はどこか怯えているように見えた。
「わ、わたくし達は…あなたから逃げて、何度も酷い言葉を吐いて、拒絶して、知ることを放棄して、勝手に終わらせようともした最低の、人間ですわ」
ずるりと、母親が私の横を這いずっていく。
危ないのだろうけれど、今度は止める気が起きなかった。
体の半分が私より先に出たくらいで体力の限界なのか前進を止め、彼女は戦いの音に負けないようにと続きを口にする。
「けれど…!今更になって…あなたが死ぬかもしれない事が、失うかもしれない、事が…こ、んな、こんなにも、恐ろしい…!」
「…っ」
震える声がようやく彼女の…母親としての本心を紡いだ。
どこまでも深い後悔がぼろぼろと大粒の涙と共に落ちていく。
「酷い身勝手ですわよね。愚かで、最低で…本当にどうしようもない。許してなんて虫の良い事は言えません。…けれど、それでももし、こんな最低なわたくし達の我が儘が、許されるのなら…」
そこで一度言葉を切った彼女は、決して良いとは言えない戦場の空気を肺に一杯吸い込んで…凛と五月雨さんを見据えた。
そして…
「もう一度…あなたの、祈のピアノを…聞かせては、くれないかしら」
「…えっ…?」
涙に濡れた顔のまま、彼女は酷く美しく微笑んだのだ。
母親と同じようにずるずると這いずって並んだ父親も、体裁もプライドもかなぐり捨てたように酷い有り様のまま同じように微笑む。
「祈。どうかチャンスを、くれないか。私達は…知らないことが、多すぎた。だから…そうだな。お前の好きだったケーキ…あれを囲んで、話をしたい」
どうしてかはわからない。
ただ何故か、この場から一切の音が遠退いたような不思議な感覚があった。
もちろん実際そんな筈はない。戦っている八丸くんだって怪異だってちゃんと見えている。
けれど、そう感じてしまうくらいに…穏やかな空気が流れたのだ。
「ねぇ、お父様、お母様」
震える声がぼろぼろの背中から微かに聞こえる。
「嘘でもいいの。もう一度私に…愛をくれないかな…?」
すがるような甘えるようなその声には、たしかな渇望もにじんでいた。
私には、まるでそれが小さな子供の泣き声に聞こえる。
「祈。きっと私達はね、祈ではなく自分にずっと嘘をついていたんだ」
「でも、今ならちゃんと言える気がしますわ。祈」
そんな声を包み込むように、寄り添うように、応えるように…あぁこれが恐れも怒りもない彼らの本当の声なのだと思える夫婦の優しい声が、ついにその言葉を紡いだ。
「「愛してる」」
それはまるで優しく抱かれるように、あまりにも暖かい声。
弾かれるように振り向いた五月雨さんは両親と同じくらいに涙で酷くくちゃくちゃの顔をしていて…
けれど幸せを詰め込んだかのような笑顔を浮かべてこう言った。
「…っ私も!!愛してる!!」
瞬間、涙でぬれた五月雨さんの瞳が雨上がりの大地の如くキラキラと煌めき、その色が瞳と虹彩で入れ替わる。
そしてただの壁でしかなかった結界が半円のドーム状に形を変えて私達を覆うと、透明だった結界に空のような透き通った色がついた。
「これが、祈の力…」
「ええ…綺麗ね…本当に」
互いに身を寄せ合いながら、夫婦は見とれたように結界を仰ぎ見る。
「…凄い。青空に囲まれているみたい」
私も状況を忘れて感嘆の息が溢れた。
それに、これは綺麗なだけじゃない。
私が見ても分かるくらいに感じる能力の密度が…恐らく強度が桁違いだ。
これならと思い八丸くんに目を向ければ彼はポカンと驚いたような顔をしていたけれど、私に気付くと大層頼もしくにぃっと笑った。




