6章:五月雨祈のアネクドトス
ざぁざぁと景色をぼかす不透明な水の幕が街を覆っている。
まるで水中に沈んでいるような街だったものはしかし、別に海底都市のような遺産ではない。
そこはつい数日前にでも誰かが壊した地上のどこか。
市区町村は定かではないが、確か落ちていた標識には富山県とあった気がする。
降りしきる雨がどこまでも冷たく見える。
もしかしたら化学物質でも含まれている毒の雨かも知れない。
とはいえ然程この街には関係はないだろう。
だってそれは、死体を濡らし血を雪いでいくだけだから。
《…っ…》
叫びすぎて枯れた喉から掠れた声と僅かな血が溢れた。
自分を囲う透明な壁を容赦なく叩き続けた手はすっかり血塗れで、壁にもたれ掛かる際に赤黒い線を指先で引く。
私はここで閉じ込められたまま、誰かが目の前で殺されても何も出来なかった。
1人で叫んで暴れて終わり。本当に役立たずだ。
《…お前は…何が、したいの》
話し掛けた先は、隣の瓦礫にせっせと今しがた作った肉の正方形を何故か等間隔にきっちり並べるソイツ。
話したくも無いのが本音だけど、どうせ逃げられないし…かといって死ぬのを静かに待つだけというのは嫌いだから。
私の声にきょとんと動きを止めたソイツは、嬉しそうにこちらへ体を寄せた。
《う…ふふふ!わ…私が気にな、るの?》
どうやら今日の情緒は空模様と違って話せる程度にはまともらしい。
人を殺しておいてまともとは何だという話だが、ダメな日は話し掛けただけですぐにあの正方形のお仲間にされるから。
《わ…私はね、可哀想な皆を愛して、いるの。だ…だから殺す、の。こ…殺すのは愛なんだって教えてもらった、から。だ…だって殺せばいつまでも私の中で永遠に一緒だ、もん。あ…愛なんだよこれ、は》
《…世界を滅茶苦茶に、しておいて…愛なんて、良く、言えるね》
《な…何言って、るの?せ…"世界"は私の中にきちんとある、よ?で…でも足りな、い。み…満たされ、ない。だ…だからもっと欲し、いの。で…でも皆くれないから私が愛す、るの》
世界が自分の中にあるだなんて、まるで当たり前の事を言うように話すソイツに眉を寄せる。どんな理屈だ。
それに言ってることも支離滅裂じゃないか。
愛してる、満たされない、欲しい…一体何の話だか。
分かっていたことだが、やはり能力者共の言うことは分からない。
《あ…あなたも欲しい、のに。い…いつまでも私のものになってくれ、ない。こ…殺せな、い》
《文句、なら…アイツに言って》
私を不老不死にしてくれた元凶。
『ソノヒ』、アイツにさえ出会わなければ…私はただの人間であれたのに。
《ほ…本当に欲しいと思ったものは、いつも手に入らない、のね》
《…は?…っぐぅ!!》
いつもの狂気じみた声じゃない、泣きそうな音が聞こえた気がしたけれど、すぐ縮まり始めた結界にそれどころじゃなくなった。
骨を砕かれ肉を潰されながら、憎悪のままにソイツを睨む。
《沢山愛してあげるから、皆、私にもーーを頂戴?》
ソイツはざばざばと先程より酷くなった雨になぜかそのまま打たれながら…
なんだよ。そんな寂しそうな顔しながら殺すなよ。
ほんと、気持ち悪い。
私は理解を放棄して、ぐちゃりという音を聴いた。
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青天の霹靂とはまさにこの事か。
いや、青天どころか今日も今日とて雨模様の曇天だけれど。
つまり何が言いたいのかと言えば…
「や!元気してた?」
「うびゃあ!!」
「ぶはっ!!あっははははははは!!何さ、その鳴き声!!」
一ノ世が来た。
それはもう急に来たものだから、油断しきっていた私は我ながら訳のわからない悲鳴をあげたよね。
しかも距離感に容赦のないソイツは、ねぇねぇと子供のように声をかけながら普通に近付いてくる。
本当に止めてほしい。
その、にまにまと笑う顔がトラウマのまんま過ぎて眩暈がしてきたし、気持ち悪いし頭が痛いし視界がバグる。散々だ。
「なになに?君さ、寂しんぼなんだって?俺に会えなくて寂しかったんだ?可愛いとこあんじゃん栞里ぃ」
「脳ミソにカビでも生えた?」
「はー…うっざ。やっぱりさ、可愛くないわ」
薄気味悪いこと言われたせいで鳥肌が立ってしまったじゃないか。
ただでさえ気分最悪なのにどうしてくれる。
というか、さらりと名前を呼ばれた気がするのだけど許可した覚えは毛頭ない。
なんて、毎度のように無理やり吐き出した軽口で自身を落ち着けながら、何とかパニックにならないよう持ちこたえた。
如何せん昨日からテスト本番になったから、数日間は二菜ちゃんと至くんを精神的な頼りには出来ないからね。
むしろ二人の方がケアが必要かもしれない。
テスト前日すっごい顔してたし…大丈夫かな。
呆れと安堵を混ぜながらこれ見よがしにため息をつき、こうなったら一ノ世の存在を無視してしまおうと準備していた紅茶を入れる。
が、秒でカップを奪われた。
「げ、ストレートじゃん。あのさ、砂糖か蜂蜜ないの?」
「お前それ私のカップ!!」
「はー…面倒くさ。別に洗えば良いじゃん」
「良くない!!買い直さなきゃじゃん!!」
「は?それさ、どういう意味?"記録者"として答えてみ?」
「是。カップ見る度お前思い出すとかマジで無理」
「はー…うっざ」
自分から聞いたくせに、何故不機嫌になるのか。
分かりきっていた解答だと思うけどな。
というか、今の問い"記録者"関係なくない?
「っはははははは!!」
と、不意に私でも一ノ世のものでもない笑い声が響いた。
次いで、ぽふんと軽快な音と共にカウンターに置いてあったぬいぐるみの一つが小さな子供に変わる。
ふぁさっと柔らかそうな尾をふるい、八丸くんはくふくふと上機嫌な様子で笑いの余韻を引き摺っていた。
「いやー二人とも、テンポ良すぎなのヨ!漫才師みたいなのヨ」
「誠に遺憾」
食いぎみに返答した私にまたしてもケラケラと笑う八丸くん。
笑いの沸点が下がってるのか?
「クスクス…とか言いつつシオリ、ちゃあんと砂糖用意してるのヨ」
言われてはたっと止まり視線を己の手へと下げれば、成る程確かに私の両手はシュガーポットを包んでいた。
しまった…!つい…
ひくりと顔をひきつらせた私などお構いなしに、無駄に長い腕がひょいとそこからほろほろと角の崩れた角砂糖をかっさらっていく。
「ほーん?栞里さ、やっさしーじゃん」
「う、うるさい!!あと名前を呼ぶな!!」
「それはもう諦めた方がいいのヨ…」
なんて事を言うんだ八丸くん。
諦めたらこのゾワゾワとおさらばできないじゃないか。
あと絶対コイツが調子に乗る。
「だいたいお前、何しに来たの」
言外に冷やかしなら帰れ、と含ませながら睨むと、一ノ世はきょとんと子供みたいな顔で首をかしげた。
「は?あのさ、図書室に本借りに来る以外あるわけ?」
「ヒサヤが本…??」
「ぶはっ!!何その顔ひっど!!」
そんな馬鹿なと私も思ったけれど、八丸くんの方が受けた衝撃が大きかったらしい。
宇宙背負ったネコチャンの顔になってるよ。
「実はさ、探してほしい本があんの」
「え、本気だったの!?」
「はー…面倒くさ。二人して何なわけ?」
おっとこれはまずい。
そろそろ機嫌が悪くなってきたらしい。
滲んだ殺気に手の震えが止まらなくなってきたぞ。
「あ、あー…ヒサヤはなんて本を探してるのヨ?」
私の顔色が悪いことに気付いてくれたらしく、八丸くんが気遣わしげにチラリと私を見ながら本題に入ってくれた。ありがたい。
「確か、『心と音楽vol.26』ってやつだったかな」
最近聞いた覚えのある題名にパチパチと瞬く。
確かめるように貸出しリストに目を通せば、やはりというか記録があった。
「えっと…その本なら、五月雨さんが借りてるけど」
一冊だけ系統が違っていたからよく覚えている。音楽雑誌のはずだけれど、何故一ノ世が…?
「あー…マジ?それさ、中身エロ本なの」
「なんて???」
思わず脳が理解を拒否したけれど、今とんでもない事を言わなかったかコイツ。
エロ本ってあれだよね?健全な男性諸君の夜のオトモダチ的な…え?いや、なんで!?いつの間に!?
「元々イナリが退屈しないようにって親切心で俺のオススメ置いといたんだけどさ、まさか借りられるなんてね!あっはははは!!」
「むしろヒサヤはオレサマがどういう訳でその本を開くと思ったのヨ…」
「あー…なんかさ、変態の嗅覚的な?きゅぴーん!とかなんない?」
「むむー、確かにオレサマの嗅覚を持ってしたらきゅぴーんといける気がするのヨ!」
「IQの低い会話止めてくれる!?今一大事なんだけど!?」
つまり、つまり、つまり…!!
今五月雨さんの手元には音楽雑誌に扮した一ノ世のエロ本があって、しかもそれは私が貸し出したとかいう最悪な状況。
私の品性が疑われる大ピンチである。
「つーかさ、貸した栞里が悪くね?」
「差し替えたお前が間違いなく悪いわ!!」
「あー…ハイハイ。取り敢えずさ、回収しといてよ。俺のだし」
「言われなくてもするに決まってるでしよ!!」
私と五月雨さんの今後の関係が掛かっているのだから当然だ。
まだ中身を見てない事を切に切に願う。
「シオリに行かせるのヨ?」
「だってさ、俺あの家行きたくないし」
「…まぁ、ヒサヤが行ったら血の雨が降るのは間違いないのヨ」
物凄く物騒な台詞が聞こえた気がするぞ。
しかも、あんな軽々しく言った一ノ世に対して八丸くんの表情は苦々しく、冗談の類いじゃないと嫌でも分かる。
…そういうところはやっぱり"アイツ"と重なって気分が悪い。
うっかり自分が血の雨になった"記録"がフラッシュバックして、そっと片手で口を覆った。
「五月雨は大学の為に本土の実家で暮らしてんの。外出許可は出しとくからさ、テキトーによろしく」
「おう!シオリはバッチリ守ってやるのヨ!」
「…うん。よろしく、八丸くん。一ノ世、"記録"するから地図出してよ。あと一応電話番号も」
「あー…ハイハイ」
どうせ皆テスト中で図書室は暇だったし、お使いくらいは全然構わない。
二人の様子は気になるものの、五月雨さんの家に遊びに行くと思えば少しワクワクもする。私は現金な奴なので。
一ノ世の端末に表示されている住所と周辺地図を見て、さっと"記録"に刻み込む。
…へぇ。五月雨さんて富山に住んでいるんだ。
〈〔…ぎの…ニュース…富山県…市…家が……不明に…〕〉
「…っ!!」
ジリッと頭の奥に火がついたような感覚に一瞬ぐらりとよろけ、たたらを踏む。
今の、は…?
「あのさ、覚えた?もういい?」
「ヒッ!、あ、うん。もう大丈夫」
しかし、引っ込められた端末と視界に入った一ノ世に塗り潰され、小さな違和感はかき消えた。
私は外出の準備をすべく、足早にプライベートスペースにしている空間に引っ込む。
実家暮らしだと言うなら、服とメイクくらいはきちんとしないと親御さんに会ってしまった時失礼になりかねない。
あ、いきなり行くのもまずいから電話もしておかなくちゃ…
「というか、ヒサヤがオススメとか意外なのヨ。いつも統一性なくない?」
「ま、顔はどうでもいいからね。違いわかんねーし」
「うわぁ相変わらずなのヨ…」
「デカいか小さいかの差分っつーの?それも気分で変わるからさ、あと1週間もすれば今のは飽きる」
「ふむふむ。ちなみにオレサマは…」
「最低な会話はいいからもう帰れ!!」
本当にデリカシーも何もありゃしない。
取り敢えず一ノ世がだいぶクズ野郎だということは再認識した。今更か。
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「「うっわぁ…」」
傘に当たって跳ねる楽しげな雨音を頭上に携えながら、私と八丸くんは揃ってポカンと間抜け面を晒す。漫画みたいにカチャリと眼鏡がずれて、そっと元に戻した。ベタかよ私。
富山県天泣市の某所。
一ノ世に教わった住所を頼りに辿り着いたのは…所謂豪邸とやらだった。
「話には聞いていたけど…オレサマ来るのは初めてなのヨ。これはビックリ」
「も、もしかして五月雨さんてお嬢様的な感じ?」
「確か、オヤジが五月雨グループの社長なのヨ」
完全に社長令嬢ですありがとうございます。
五月雨グループっていえば、医療機器や医療用品を中心としたそこそこ名のある企業…だっけ?
医療関係の会社なんてよく知ってたな私。
あれ?でもその社長って確か…
何かが引っ掛かって、ひどい違和感を感じた。
記憶の扉を叩く音がする。
これ…この感覚はさっきもあった。
いや、もっと前にも…そうだ、七尾さんの時と同じだ。
「シオリ?」
「ご、めん。少し待って…」
考え事に集中すべく眼鏡の奥で一度目を閉じ、規則正しい雨音に耳を傾ける。
どこで私はその、五月雨グループの事を聞いた?
頭の中にうずまく記憶を片っ端から覗いていく。
"記録"ならこんな手間をかけずとも望めばすぐ開示出来るけれど、当たり前ながら『ソノヒ』より前の記憶なのだから頑張る他ない。
五月雨、富山県、天泣市、社長…えっと、ええと…
カチリ、とピースが嵌まったような感覚。
それはまるで目の前を覆い隠していた灰色の霧が晴れるように、はっきりと1つの記憶が呼び起こされた。
〈〔次のニュースです〕〉
流れる風景を横目に、私はどこかはっきりしない曇り空を眺めていた。
確かこの記憶は大学1年のある日、友人達とのドライブの途中のものだ。
〈〔昨日未明から、富山県天泣市在住の五月雨市太郎さんとその妻紀恵さんが行方不明になりました。五月雨氏は五月雨グループの社長で…〕〉
〈社長が行方不明とかやばー〉
〈五月雨グループって医療機器とか医療用品のメーカーだよね。その界隈じゃそこそこ有名どころ〉
〈え、詳しいね?〉
〈そりゃあたしん家医者いるし〉
わいわいと友人と騒ぎながら、何となく気になってニュースの続きに耳を傾ける。
〈〔冷凍室からブロック状の肉塊が発見された他は変わった物は見当たらず、邸宅に争った形跡は無いものの近くに現れたとの情報がある怪異の関与も視野に入れ…〕〉
〈げ、怪異事件?〉
〈ここ数年本当に多いよね〉
〈というかブロック状の肉塊とか何?狼でも飼ってるの?〉
〈まさかそれが社長、とか!?〉
〈やめやめ!音楽流そ!!〉
アナウンサーの平坦な声がが消え、代わりに明るい音がカーステレオから流れ出す。
そうだ、夏の怪談話の後に似たヒヤリとして生臭いような空気を吹き飛ばすために、友人が流行りのポップスをかけたんだっけ。
私はパタン、と記憶を閉じた。
さぁさぁと雨の音が戻ってくる。
目を開けて、知らず緊張していた体を解すようにホッと息を吐いた。
しかし、ニュースの事は思い出せてもまだ釈然としない。
だって…この事件は未解決だったんだ。
結構夫婦の行方は分からないままで、怪異事件ではないかと言われて終わっていた。
けれど、怪異が絡む報道に信憑性が無いことは先日学習済みだ。
だからコレにも別の真実があったかもしれない。なんて、考えすぎだろうか。
「シオリ?ねぇ、大丈夫なのヨ?気分悪いなら…」
「え、あ、ううん!大丈夫。心配かけてごめんね八丸くん」
いけない。少し考え事に夢中になりすぎていた。
僅かに傾けた子供用の傘から心配そうにこちらを覗くオッドアイに、安心させるため笑みを向ける。
しかしどうにも納得されなかったらしく、八丸くんはつんと口を尖らせた。
「むむー、本当に?オレサマ、ヒサヤのエロ本とかどうでも良いと思うのヨ。やっぱり今日は帰るのヨ」
「うん。私がどうでも良くないから行こうか!」
とにかく、五月雨夫婦の様子を見るのはついでだ。ついで。
今は一刻も早くエロ本を回収しないといけないからね。
だって五月雨さんに八丸くんを見るような目で見られたら泣く自信があるもの。
巨大な門に近づいてキョロキョロと辺りを見渡せば、黒いインターホンのボタンを見つけた。
「…な、なんか緊張するかも」
「むむー、ならオレサマが押してやるのヨ」
「いや届かないでしょ」
「ふふーん!そこは任せるのヨ……ぬん!」
八丸くんが気合いをいれると、彼の右手がぽふんと音を立てて大人の手に『変化』する。
子供の体躯に似合わない長さと丸みのない筋ばった男らしいそれは…
「いや気持ち悪いな」
「な!?失礼なのヨ!」
アンバランスが過ぎる。しかも片方だけなのがまた、ね。
「『変化』って部分的にも出来るんだね」
「そりゃそうなのヨ。じゃなきゃこの耳やら尾を隠せないのヨ」
「あ、成る程」
確かに能力者ならまだ理解はあるだろうけど、一般人とも接するなら隠さないとやっていけないだろう。
良くてコスプレと勘違い。悪くて研究対象だ。
「ちなみに、オネショタプレイの時も重宝するのヨ!さすがに大きくしないとメスを満足させられな…」
「八丸くん、黙ろうか」
結局変態思考に落ち着く辺り八丸くんクオリティだよね。
というか、人様の家の前で何やってるんだろう。
八丸くんがリンゴーンと呼び鈴を押して少し。
〔はい?〕
応答したのは少しばかり神経質そうな女性の声だった。
「すみません、先程ご連絡致しました司書の綴戯と申します」
〔あぁ…本の…お待ち下さい〕
うん。事前に一報入れておいて良かったね。
こんな邸宅相手じゃ本の回収に来ました、なんてよく分からない理由の訪問は詐欺を疑われかねないもの。
暫くして重たい音と共に自動で門が開き、私達は揃って芝生の敷き詰められた庭へと歩を進めた。
ちなみに八丸くんは例のバッジでまるごと姿を消している。
なんでも、ただでさえ子供に『変化』しているのに追加で耳やしっぽを『変化』で消すとなると、さすがにしんどいのだそうだ。
ただ、ここに来る前バッジの調子が悪いと言っていたけれど…大丈夫なんだろうか。
遮るもののない広い庭は降りしきる雨が満遍なく濡らし、芝生独特の青々とした香りが細かい飛沫と共に立ち込める。
「シオリ、1つ忠告なのヨ」
ふと、歩みを止めぬままいつもより固い声色で八丸くんが声をかけてきた。
「…?何?」
「オレサマも昔イノリの担任をしていたハルキに聞いただけだけど、ここの家では能力や能力者に関する話題は厳禁なのヨ。気をつけて」
それはどういう事なんだろう。
わざわざ実家暮らしをするくらいだから、七尾さんみたいに隠してるって訳ではないと思うけど。
「えっと…分かった。教えてくれてありがとう」
八丸くんもそれ以上の事は教えてくれなかったし玄関にもたどり着いてしまったから、私は追求を諦めてただ素直に忠告を受けとることにした。
チラリと庭を振り返る。
何故だろう、さっきまでは命の息吹を感じたその雨が…今はどこか冷たく見えた。
「お邪魔致します。突然の訪問で申し訳ありません」
「いらっしゃい。構わないわ。どうぞこちらへ」
玄関を抜けると、とても若々しく綺麗なマダムが品の良い笑顔で出迎えてくれた。
スラリとしていながらも出るところは程よく出ている。
一瞬だけ自分を見下ろして落ち込んだよね。
まぁすぐに視界の端で励ましのつもりか親指を立てて生温い視線を送ってきた八丸くんが見えて、落ち込みから苛つきにシフトチェンジたけど。
邸宅は白を基調としたヨーロピアン家具が多く置かれており、壁には私では価値の分からない大きな風景画が飾られている。
天井は当然のように高く、きらびやかなシャンデリアのスワロフスキーが灯りをキラキラと反射していた。
凄い。なんかもう、日本じゃないような気がしてくる。
八丸くんも落ち着かないのか、しっぽをそわそわさせながらあちらこちらに視線を動かしていた。
体がまふりと沈む質の良いソファに案内され、目の前に装飾の美しいティーカップが置かれる。
「娘に返しに行かせたかったのですけど、あいにく今外に出ておりますの。司書さんにわざわざいらしていただいて申し訳ありませんわ。夫が探しているみたいなのでお待ち下さいな」
「え!?あ、そうなんですか…お手間をおかけしてかえって申し訳ありません」
マジか。夫さん見付けても絶対中身開けないでくださいお願いします。
ドン引き案件間違いなしだからね。
不意にピクリ、と隣に座っていた八丸くんの大きな耳が揺れ視線を向けると、彼はいつもはパチリとしている目をすっと鋭く細めていた。
奥さんが離れた隙を見て、彼はそっと口を開く。
「シオリ、たぶん今の話は嘘なのヨ」
「…え?」
「オレサマ、そういう能力はないけど…何となく経験で分かるのヨ」
らしくないピリピリとした雰囲気に気圧されながら、私は顎に手を添えて考える。
嘘、とは果たして本を探してくれているという事かそれとも五月雨さんの不在か…
いや、八丸くんは話そのものが嘘だと言った。ならばどちらも、ということだろう。
八丸くんの勘を疑うつもりはない。
何故なら私も何となく腑に落ちないからだ。
そもそも電話した時もおそらく奥さんが出たけれど、五月雨さんの事は何も言っていなかった。普通本人が不在なら訪問を断るだろうし、連絡した後に彼女が出かけるなんて考えにくい。それこそ親である奥さんが止める筈だ。
なんで私は招かれた?
その疑問が信じる対象を八丸くんの勘に傾けたのだ。
もう本を探す云々はこの際良いとして、どうして五月雨さんの不在を偽る必要があるのだろうか。
理由がまったく分からない。
…少なくとも、五月雨さんからの拒絶ではないと思うんだよね。
だって、面と向かって二菜ちゃんに嫌いだと言えるような彼女が…こんな遠ざけ方をするかな。
凄くもやもやする。室内なのに霧が辺りを覆っているかのようで、纏わりつく湿気に似た不快感とヒヤリとした空気の冷たさを感じた。
…嫌な感じがするな。
カチャカチャと奥で微かに聞こえる音に耳を澄ませながら、私は八丸くんにそっと声をかける。
「八丸くん、五月雨さんを探してみてくれないかな」
「イノリを?」
アレが嘘だと言うなら彼女はこの家にいることになる。
これが誰の思惑かは分からないけれど、どういった理由にせよ五月雨さん本人に聞くのが一番だ。
それに…
〈お…お父様が選んだ大学しか受けさせてもらえな、くて〉
〈も…物好きという、か。お…お父様にも言われて、るし〉
〈と…友達を作るのは禁止されている、ので〉
改めて思い返すと、五月雨さんから溢される家族の断片はどうにも良い印象がない。
大半は"お父様"の事だったけど、黙認してるなら奥さんも同罪。
「でも、シオリから離れるのは…」
「私は大丈夫。だからお願い」
嘘。本当は結構怖い。
何となくだけど、長年地獄を生きた私の勘が警告を鳴らしている。
この家に来てから嫌な予感がチクチクと肌を刺すのだ。まるで歓迎されてないみたい。なんて。
けれど、このまま何もしないなんて無理。
お節介?違うね。これはただの自分勝手だ。
家庭事情だろうが何だろうが、何も知らないまま物事に巻き込まれるのは…もう御免なんだよね。懲り懲りなんだ。
「…むむー、曲げなそうなのヨ。わかった。オレサマも気になるし、行ってきてあげるのヨ」
「ありがとう。八丸くん」
「くれぐれも気を付けるのヨ、シオリ」
「ふふっ、八丸くんもね」
ぴょんとソファから飛び降りた彼と入れ換えに、スコーンを手に持った奥さんが戻ってくる。
「こんなものしかお出しできませんけど…」
「い、いえ!そんなお構い無く!」
彼女は私の向かいに姿勢良く腰かけると、ふわりと柔らかく笑った。
「司書さんは娘と親しいのですか?」
「…ええ、一応。五月雨さんは良く図書室を利用してくださいますから。時間があればお話もしています」
「まぁ!そうでしたの」
実際はまだ二回程度の付き合いだけれど、取り敢えず話を繋ぐために平然とした顔で嘘をつく。
制約さえないなら必要な嘘は普通に吐けるタイプだからね私は。
にこにこと目尻のシワを深めている奥さんに今のところおかしなところは感じられない。
杞憂ならばそれでいいけど…
「そうだ、折角ですからお話にお付き合いくださいな。祈の様子も聞きたいですし」
頬に手を当ててゆるりと首をかしげた彼女にパチパチと瞬く。
「えっと…私でよろしければ」
とは言ってみたものの、どうしよう…内心汗ダラダラである。
だって普段の五月雨さんなんて私にはさっぱりだぞ。
私だってまだこっちの"五月雨さん"を知ろうとしている途中なのだから当たり前だろう。
切実に二菜ちゃんと至くんを召喚したい。
いや、今頃それどころじゃないだろうけど。
とにかく言ってしまった言葉は戻らないし、八丸くんが帰ってくるまでは乗り切るしかない。頑張れ私!!
大樹くんの授業参観だってやりきったんだし、今回だって何とかなる。
浮かべた笑顔の下で1人気合いを入れ直し、己のミッションに向き合った。
「司書さんはお若いようですけれど、年は祈と近いのかしら」
「私は25になりますね。大学を出てすぐに司書になったんです」
「まぁまぁ、そうですの!では娘も話しやすいのでしょうね」
「そうだと嬉しいです。五月雨さん、とても優しい人ですよ。私も良く気遣ってもらったりしますから」
「うふふ、あの子は昔から世話焼きというか…困ったり頼られたりすると放っておけないんですって。幼稚園では皆のお姉さん役をこなしてくれるって保育士さんから良く感謝されましたわ」
世話焼き…成る程。さすがリハビリを学ぶだけのことはある。
二菜ちゃんや至くんに勉強を教えている姿は凄く自然体だったし、こういうの嫌いじゃないんだろうとは思っていたけどね。
まさか幼稚園時代からとは恐れ入る。
《わ…私はね、可哀想な皆を愛して、いるの》
"アイツ"の歪んだ思考は、そんな世話焼きな心が根底にあったんだろうか。なんて。
もう知りようもない話だけど。
「家でも料理をしていたらいつも手伝いをするって聞かなくて…そうそう、ネクタイの結び方をいつの間にか覚えて、夫のネクタイを毎朝結んでいた時期もありましたの」
なにそれ新妻かな。
私なんて自分のすら未だに結べるか自信ないのに。
「わたくしが風邪で倒れた時も、夫よりしっかり看病してくれましたのよ。うふふ!」
「む、昔からしっかりしていらっしゃるんですね…」
「しっかり、というのも確かですけれど…元々は私達の気を引きたかったみたいなんですの」
「気を引く?」
「ええ。ほら、子供が良いことをしたら撫でたりキスしたり抱き締めたり…方法は様々として褒めますでしょう?そういう、わたくし達からの愛情が沢山欲しかったみたいで…褒められるために色々目を向けていたら、いつの間にか世話焼きになっていたみたいですのよ」
懐かしむように目を伏せてくすくすと笑う奥さんを見つめながら、私は思考にちらつく"アイツ"の姿に意識を奪われていた。
愛情が、ほしい…か。
似た言葉を聞いた気がする。
"アイツ"とまともに会話出来た事は何度かあるけど…いつだったか、酷く寂しそうな顔で言っていなかったか?
《沢山愛してあげるから、皆、私にもーーを頂戴?》
"アイツ"が欲していたのは…そうだ。
《私にも"愛"を頂戴?》
あの頃は余裕がなくて考えたこともなかったけれど、寂しさだけじゃなく飢えのような響きも確かにあった。
なら…
《ほ…本当に欲しいと思ったものは、いつも手に入らない、のね》
あの言葉の真意は何だと言うのか。
「まぁわたくし達も娘にはつい甘いのでいつも思惑に乗ってしまいましてね。あの子が欲しがれば欲しがるだけ可愛がってしまっていたのですけど」
「あ、はは。そうなんですね」
柔らかく笑って頬を染める姿に、嘘は感じられない。
むしろ思い出話を始めてからずっと…幸せそうだ。
ピアノを弾いていた五月雨さんにそっくりな顔で笑っている。
考え過ぎ…だったかな?
私にも八丸くんのような、所謂第六感みたいなものがあればよかった。
どうにもはっきりしない気持ちのまま、私には張り付けた笑みを浮かべるしか出来やしないもの。
「ところで、祈はいつもどんな本を?」
「課題の為の参考文献が多いですね。とても真面目な子ですよ」
「まぁまぁ、そうなんですの!うふふ、夫に似たのかしら」
ふむふむ、社長さんは真面目な人なのか。
ころころと上品に笑う奥さんは紅茶を一口含み、コトリと首をかしげる。
「では、回収したいと仰っている本もやはりそういった本ですの?」
「あ、はは…いえ、趣味の雑誌です」
「趣味の雑誌?」
「はい。その雑誌に…えっと男子生徒が悪戯をしてしまったらしく…中身が変わっているらしいと分かりまして…」
何度思い返しても幼稚な悪戯すぎて呆れてくる。
まったく、一ノ世の精神年齢はどうなっているのだろうか。いや、別に知りたくもないけど。
「司書さん」
「はい?」
カチャリとティーカップを置いて、奥さんが静かに問いかけた。
ひたっと私に向けられた日本人らしい焦げ茶色の目は凪いでいるように見えて…どこか嵐の前のような不気味さを感じる。
「わたくし、学校の印がある本全てを持って帰っていただくつもりでしたからお聞きしませんでしたけど…その、本の題名は何でしょうか?」
「えっと、『心と音楽』という雑誌ですが…」
「音楽…」
「はい。五月雨さん、ピアノお上手ですよね」
ピシリ、と空気が凍る音が聞こえた気がした。
しんと静まり返った室内に、ざぁざぁとノイズのような雨音が反響する。
「…ピアノ?あの子が、弾いたのですか?」
「え、ええと…?」
やってしまった…!
私はどうやら奥さんの地雷を踏み抜いてしまったらしい。
でもまさか、ピアノが禁句だなんて思わないでしょ。
だって五月雨さんはあんなに幸せそうに弾いていたのに。
困惑する私を余所に、奥さんはブツブツと言葉を紡ぎ始めた。
「あの子はそんなもの弾かないわ。そう、弾かないの。だからコンクールにだって出ていないの。あれは悪い夢だったのよ。そうでしょう?」
こちらを向いている筈の瞳はしかし、私ではないどこかを見ているように虚ろで、ゾッとするほど気味が悪い。
こういう目はよく知っている。
あの地獄の中で現実を認められず、狂ってしまった一般人達と同じ目だ。
「でもあの子は。あの子の目は。いえ、違うわ。あの子は普通の…ああ!駄目だわ!やっぱり駄目よ!!どうして。私達の愛するあの子は可愛くて普通の子。あんな、あんな…!違うわ!!無理よ!もう無理なのよ!」
美しいロココ調のテーブルに震えた拳が叩きつけられ、ガチャンと耳障りな音を立てながらカップとソーサーが喧嘩する。
衝撃で揺れた紅茶が跳ねて、お互いの前に溢れていた。
綺麗に結われていた奥さんの髪がはらはらとほどけ、カーテンのように項垂れた顔を覆い隠す。
「司書さんが来てくださって良かったわ。…本当に」
「…え?…っうぐ!?カハッ…ッ…!!」
冷たい雨音の中にポツリと落とされた言葉を理解するより先に、首が後ろから誰かに思いっきり絞められ思考が散った。
相変わらず人の気配に疎い私は、背後にいた誰かにまったく気付けなかったらしい。
大失態である。八丸くんに気を付けるよう言われたのにこれだ。
…いや、反省会をしている場合じゃないな。
「…っ!!……っ」
もがいてみても食い込んだ指が緩まることはなく、やがて空気が吸えなくなり、瞼の裏が真っ赤に染まり、意識がふつりと暗転…
なんてね。
私は限界が来る前にくたりと力を抜いた。
途端緩まる圧迫と呼吸を確認するように口へ当てられた手に、やはりと思う。
ただ気を失わせたかっただけらしい。
まぁ人を殺すには力が弱いし…気迫というか、心が足りていなかったから。
馬鹿にしないで欲しい。一体私がどれ程殺されてきたと思ってるんだ。
あぁそうだ、そういえば私にもあるじゃないか第六感みたいなもの。
人の気配には疎くても、死の気配には人一倍敏感なんだから。
私は裏切り者だ何だと恨まれていたから…一般人に首を絞められて殺された事なんて何回もあるんだよ。
…何回も、ね。
「大丈夫、死んでない。すぐに目を覚ますだろう」
「なら、早く行きましょう」
「ああ」
奥さんの他にピリッとした男性の声が聞こえた。首を絞めた犯人だろう。
後で覚悟しておけよ。私はイイコチャンじゃないからな。
何のために、意識を残して"記録"してると思ってるんだ。
「ごめんなさいね。手荒にして」
するりと頬を撫でられる。
少しカサカサとしたそれに少し驚いた。
手荒れ…この人、家事をやるのだろうか。
そういえば昔話の際も料理の話があったし、そもそも豪邸のわりには使用人の類いを一切見ていないことに気付く。
雇うお金が無いようには見えないけれど…何か理由があるのだろう。
「でも貴女が紅茶に手をつけてくださらないから」
どうやら睡眠薬でも入っていたらしい。
ということは、招き入れた時点…つまり最初から私をどうにかするつもりだったということだ。
いや、違うか。招き入れるより前の電話の時点で決めていたのだろう。
よくもまぁそれで悪びれなく会話出来るものだ。人とは末恐ろしい…なんて、よく知っていた筈だったのに。
少しは平和ボケ出来るくらい私の心は休まっていたんだね。
こんな場面で確認したくはなかったけど。
「タイミングの悪い自分を恨んでちょうだい。家を訪ねたい、と言った自分をね」
「すまないが君には、これから行う私達の罪を被って貰う」
以外にも丁寧に体を持ち上げられ、どこかに運ばれていく。
物凄く不穏な台詞をいただいたけど果たしてどういう意味だろうか。
何にせよタイミングを見計らって逃げよう。
そういえば八丸くんは…五月雨さんを見付けられただろうか。




