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5-3


今日の雨は一段と酷い。

昨日までのさぁさぁというどこか心地よい音ではなく、バケツをひっくり返したようにザーっと降るそれは狂ったのかと思う程だ。

擬似的な滝行でも出来るかもしれない。なんて。


全くこんなに荒れるなんて…一ノ世が善行でも行ったんだろうか。

いや、それだと隕石が落ちてきそうだね。

撤回。今のナシ。


じっとりした湿度せいか、図書室の空気も重たいし頭も重くなってくる。

読んでいた本もろくに頭に入らず、いや、バッチリ"記録"はされてるけど…とにかく物語に集中出来なかったからパタンと閉じた。


「あ!シオリー、本を読まないならオレサマと遊ぶのヨ!」

「…そのしわくちゃな書類は終わったの?」

「終わってないけど、そもそもオレサマのじゃないのヨ」


ぷんぷこ、と頬を膨らませる八丸くんに苦笑をこぼす。

自分のじゃない仕事をやるなんて大変そう…というかそもそも何故?クズみたいな上司でもいるの?

まぁ私が口を出すことでもないのだけど。


「遊ぶって言っても何もないよ?」

「ええ!?よく飽きないのヨ」

「本はあるし、そもそも何年も何もないところにいたから慣れたと言うか…あ」

「なんかごめんなのヨ」


いけない。つい口を滑らせてしまった。

前に二菜ちゃんや至くん、ついでに七尾さんにも言ってしまったことがあり、全員もれなく石像にしてしまったから気を付けようと思ってたのに。

しゅんと垂れ下がった耳としっぽに罪悪感を感じる。


「こ、こうなったらオレサマが一肌脱いで遊び道具に『変化』してやるのよ!」


気を取り直したようにむんっ!と拳を握る彼の瞳には気合いが満ちていた。悔しい事に可愛い。


「えっと、それじゃ八丸くんが遊べなくない?」

「問題ないのヨ!オレサマは見てるだけで楽しいのヨ」


見てるだけで楽しいって何?と首をかしげるより先に、ぽふんと軽い音が鳴り…


「…っ!!この、ド変態!!!」


私はすぐさま"ソレ"をひっつかみ、廊下の窓から外にぶん投げた。

酷い雨?知ったことか。綺麗な雨に洗われてこい。

所謂大人の1人遊び用玩具に『変化』した変態が悪い。絶対に。

もう八丸くんのルビを"歩く十八禁"にすべきだろうか。八丸くん(歩く十八禁)って。いやこれ言う私にもダメージくるな。


一仕事終えて、なんかドッと疲れてしまった私は再びカウンターへと戻る。

はぁ、それにしても…今日は誰も来ないな。

まぁ平日だし、皆授業があるのだから来るとしても夕方だよね。


と、思っていた矢先、コンコンと控え目なノックが聞こえて思わずしゃきりと背を伸ばした。

八丸くんならノックはしないから、今日お初の利用者さんだろう。


「どうぞ。開いてますよ」

「あ…あの、お邪魔し、ます」


現れたのは空色。

五月雨さんだと分かり、咄嗟にカウンターの下で手の甲を思いっきりつねることで視界を走るノイズから無理やり意識をそらす。

危ない。二度目のパニックはさすがにまずいからね。主に私の体裁が。


「…っ、い、いらっしゃい、五月雨さん。今日は、どんな本を探しに来たの?」

「き…今日は本を借りに来たんじゃな、くて。その…」


もじもじと指をいじり始めた五月雨さんに首をかしげる。

本を借りに来たんじゃないとなると、返却だろうか。

しかし手ぶらなところを見るにそういう目的でも無さそうなのだけど。


しばらく意味の無い短い言葉を溢しながらうろうろ視線を彷徨わせていた五月雨さんは、やがて意を決したように瞳に力を入れて私を見据える。


「き…昨日寂しいって言っていた、ので。わ…私で良かったら一緒に過ごそう、かと!」

「…え?」


予想外の台詞に目を丸くする。

聞き間違いや自惚れじゃないのなら、五月雨さんは寂しいと溢した私の為に…話し相手として来てくれたという事だろうか。


「い…嫌ですよ、ね。す…すみま、せん」

「ううん。嫌じゃないよ!全然!ただ、びっくりしちゃって…」


まさかあんな失礼な態度をとってしまった私の一言を拾って、気に掛けてくれるなんて思ってもみなかった。

普通初対面でパニック起こされたら引くだろうに…


でもそういえば、昨日も彼女は自分を知って欲しいと歩み寄ってくれたんだっけ。

たどたどしい喋りに引っ込み思案な人かと思っていたけれど、どうやら少し違うみたいだ。


彼女の優しさに応えたくて、私は未だに腹底で渦巻く不快感を無理矢理抑え込む。

そして、伝えたい言葉を何度か音に出来ないまま口の中で転がした後、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「あの、五月雨さん…ありがとう。凄く、嬉しい」


あぁよかった、言えた。

本心からそう伝えれば、五月雨さんは長めの前髪に隠れた瞳を驚いたように瞬かせ、すぐにトロリと緩める。


互いにホッとしたのが分かってしまい、思わず二人でクスクスと笑ってしまった。

緊張していたのは同じだったみたいだね。


一度山を抜けてしまえば、私の口は先程の空回りが嘘のように素直に動き始める。

我ながら現金なものだ。


「実はね、変態と二人きりでどうしようかと思ってたところなんだ」

「へ…変態???」


ガチャリと開いた扉に肩をすくめ、私は電気ケトルのスイッチを入れる。


「シオリー!外に放るなんて酷いのヨ」

「どう考えても八丸くんが悪いでしょ!!」


昨日もだけれど一応図書室がびしゃびしゃにならないよう気を遣っているのか、タオルでわしわしと体を拭きながら膨れっ面の八丸くんが戻ってきた。


五月雨さんはじいっと彼を見つめた後、私を哀れむように見て一つ頷いた。

あぁ、そっかぁ…察しちゃうんだね。

まぁ仲間なんだろうし彼の変態具合は当然知ってるか。


カチリとケトルのお湯が沸いた音がした。


八丸くんにはココア。五月雨さんには紅茶を入れて談話スペースに腰を落ち着ける。

昨日の事が気になるのか、どこか心配そうに私と彼女を交互に眺める彼に大丈夫だと笑って見せた。


「つ…綴戯さんも大学生だったんです、よね」

「うん。文学部の四年生」


互いに大学生という共通点があるためか、ごく自然に大学についてが話題にのぼる。


「ぶ…文学部です、か。な…なんか納得で、す」

「そうかな?」

「うんうん。いっつも本読んでるし、シオリは文学少女って感じするのヨ」


少女って年ではないんだけどな…さすがに恥ずかしい。

文学少女と聞くと大人しそうな印象だけど…私ってそんな風に見えるのだろうか。

まぁ本好きって意味では間違ってないけれど。


「実はね…私、図書館司書を目指していたの」

「…え?」


パチリと淡い青緑が瞬いて、その中に浮かぶチェリーがじっと私を映した。

その色彩から緩やかに目を反らし、代わりにぐるりと図書室を見渡して笑みをこぼす。


前後左右、壁にいたるまで本棚の立ち並ぶ閑静な空間。数多の蔵書が醸し出す古色蒼然とした空気に満たされているここは、市や街の図書館には及ばないながら、それでもそこらの学校よりは断然広い。


「だから、今ここで仕事させてもらってると…夢が叶ったような錯覚をしそうになるんだ」


叶う筈のなかった、その夢が。

偶然とはいえ皮肉なことに、その夢を奪った奴と同じ人物に叶えられたのだ。

ブラックジョークが過ぎるよね。


ちゃんとした施設の司書よりは当然内容は緩いのだろうけれど、色々ブランクがある私には丁度良いくらいである。


「むむー、シオリは『叡智の鳥籠(ノークトゥアム)』とか好きそうなのヨ」

「『叡智の鳥籠(ノークトゥアム)』?」

「お上は格好つけてそう呼んでるけど、つまりは馬鹿デカイ図書館なのヨ」


ぷふーと馬鹿にしたように笑う八丸くんはそのお上とやらが嫌いなのだろうか。

まぁ上なんてどこも体裁気にする面倒な生き物だし、ただ図書館と呼ぶよりはなんとなく厳かな感じはする…かな。


「に…日本で一番書物や知識が集まると言われているこの島の所有施設、です。と…特別な許可が無いと入れません、けど」

「殆どの『記録』の能力者はそこに住み込んでいるのヨ。シオリも頼めば一員に入れそうなのヨ」


いや、さすがに得体の知れない私を情報の集まる場所には入れないと思うよ。

それに七尾さんから聞いた話を考えると…仮に入れたとしても囲われそう。

そうなったら私の、今の私の夢は叶わない。

だから私はキッパリと首を横に振った。


「私は、ここで十分かな」

「むむー、あっちの方が安全なのに」

「そ…それは間違いない、です」

「それでも私には、私の"記録"したいものがあるから」


安全なんてそもそも求めていない。

それを求める心なんて…とうの昔に死んでいた。

私はただ私の知らない能力者達の姿を、その様子を、心を知りたい。"記録"したい。


「…まぁオレサマが守るからどこだって安全には違いないのヨ」

「わ…私はここにいてくれた方が嬉しい、です」

「ありがとう。二人とも」


私の勝手な仮定でしかないけれど、それでも…

『ソノヒ』の可能性を、潰すために。

じりじりと心の奥を焼く痛みを紅茶で飲み込み、私は何でもない顔をして五月雨さんに向き直る。


「五月雨さんは大学で何を勉強しているの?」

「わ…私は医学、を」


昨日貸し出した本を見てもしやと思ってはいたけれど、どうやら本当に医学関係の大学らしい。

凄いな。普通に尊敬する。


「何だ?イノリは医者になるのヨ?」

「ち…違いま、す。り…リハビリ関係のことを学びたくて、です」

「リハビリ?」


リハビリと言うと、あまり詳しくはないけれど理学療法士とかだろうか。


「お…お父様が選んだ大学しか受けさせてもらえな、くて。で…でも医学部はさすがに無理だった、ので」


気まずそうに視線を外した五月雨さんに訳アリらしいと悟り、私はそれ以上の追及を止めた。

八丸くんもさすがというか、そういった機微には聡いらしく口をつぐんでいる。

話題を変えようと己の大学生活を思い返し、活発だった友人の姿を思い出す。


「そうだ、サークルとかはもう入ったの?」

「へ…減らしてもらっているとはいえ任務が入ったりする、ので。つ…綴戯さんはどうだったんで、すか?」

「あー…私もバイト三昧だったんだ」

「むむー、二人とも枯れてない?オレサマ理解できないのヨ。大学は出会いに溢れてると聞くのヨ。合コン、コンパ、ナンパで可愛い女の子をお持ち帰りして…」

「八丸くん、黙ろうか?」


生活費だとか遊ぶためのお金とか、一応無理をしなければ仕送りで足りてはいたけれど…

それでもやっぱり友達と遊んだりするには心許ないし、あっても損はないだろうと思っていた。

だからいつも私は、バイトを理由にやりたいと思った事や興味の引かれた事を後回しにしていたんだ。

でも、今になって思うのは…


やりたいって思えたその時に、それらしい理由で自分を誤魔化したりなんかしないでやってみればよかったなって。心からそう思う。


今じゃなくてもできるだろう、なんて。

明日の確約なんて存在しないのだから、それは平和に胡座をかいた傲慢だったのだとすべて失ってから気付いてしまった。


いつだったか、あの地獄の中で形の残った綺麗なトランペットを瓦礫から見つけた事がある。

吹奏楽団に所属していた友人が得意で、ずっとカッコいいと憧れていた楽器。

試しに吹いてみたところで…私は音すら鳴らせなくて。鳴らし方を知らないのだから当たり前だけれど。

だからこそ…いつかの日に、教えてくれると笑った彼女へ己が言った言葉をただ憎んだ。


"またいつか"、なんて。

そんな日は来なかったんだもの。


だから私は私のエゴで、五月雨さんにあんな思いはさせたくないと思うんだ。


「ね、五月雨さん。やってみたい事はないの?」

「え…?や…やってみたい事です、か?」


だって能力者の仕事って、怪異と戦うのだから当然危険と隣り合わせな訳で…

二菜ちゃんや至くんも言っていたじゃないか。同級生が皆いなくなってしまったって。

彼ら彼女らは昔の私よりずっと、"明日"が貴重な筈なんだ。


「…ピアノ」

「「ピアノ?」」


聞き逃してしまいそうな小さな呟きを、私と八丸くんは同時に拾う。

だってぽつりと一滴落とされたそれには、酷く飢えたような…色濃い渇望の響きがあったから。


どうやら無意識に溢してしまった言葉だったらしく、五月雨さんは狼狽の色を隠せないまま指を忙しなく擦り合わせ始めた。


「あ…あの私、ピアノが好き、で。お、オーケストラに誘われてはいるんです、けど」


ピアノ。ピアノか…


「聞きたいな」


つるりと滑り落ちた言葉に、今度は私が慌てて口を指先で隠す。

まるでそういう魔法にでもかかっていたのかと思うくらいに、考えたことがそのまま出てしまった。


八丸くんと五月雨さんのぽかんとした表情に気まずくなる。

いきなり距離を詰め過ぎたやつだよねこれ。


「き…聞いてくれるんで、すか」

「…え?」


思ってもみなかった台詞に、取り消しの言葉を紡ごうとした口から出たのは意味を成さない単音が1つ。


「いいの?」

「も…勿論で、す。つ…綴戯さんに聞いてもらえるならいくら、でも」


そう言って、五月雨さんはまるで甘い甘い蜂蜜のような…こちらが照れてしまいそうな程トロリとした笑みを浮かべた。


「オレサマも聞きたいのヨ!イノリ!」

「あ…はい」


まって温度差でグッピーが死にそう。



八丸くんが借りてきてくれた音楽室の鍵でその扉を開けば、いつかどこかで見たような酷くノスタルジックな風景が佇んでいた。


スクールパーケットの敷き詰められた床に、白い有孔ボードの壁。

久々に見掛けた絶滅危惧種な黒板には五線譜が描かれており、更に黒板の上にずらりと並ぶ音楽家達の肖像画まで完璧に揃っているではないか。


まさか、資料集でしか見たことがない何世代も前のベタな音楽室をお目にかかれるとは、感動ものである。

あの肖像画って夜になると喋るとか喋らないとか…え?違う?資料にそう書いてあったよ?


と、入り口近くで固まっている私などお構いなしに、五月雨さんと八丸くんは慣れたような足取りで教室の中を進んでいく。

そっか、二人ともここの卒業生なのだから別に物珍しくないものね。


教室の窓にへばりつき、川のように流れ落ちていく雨は相変わらず酷いのだろうが、室内は不思議なくらい静かだ。

見た目によらず中身はきっと最新の防音機能が備わっているのだろう。


そんな静謐な室内の真ん中あたり。

それは濡れた黒い羽根のようなてらてらとした光沢を携えて、その翼を広げる瞬間を待っている。

ほう、と感嘆の息を吐く。

久しぶりに見たそれは、酷く美しかった。


「シオリー!こっちに座るのヨ。あ、それともオレサマが椅子に『変化』してシオリの可愛いお尻を支えてあげ…」

「八丸くん、黙ろうか」


グランドピアノの相貌に感動したのも束の間、私はいつの間にか用意されていた椅子に素早く座る。彼ならやりかねない。


私達のやり取りに構うことなく五月雨さんは準備を進めていて、とうとう椅子の調整まで終えた。


誰に言われるでもなく口を閉じ、張詰めたような静止した空気の中でひっそり佇む彼女を見つめる。

そして…


ポーン、と。


まるで水の雫が一滴、水面に跳ねるように。

決して派手ではなく、しかし確かに全体へと波紋が広がるような…そんな透明な音だった。


クラシックなのだろうか。

無学な私に題名は分からない。


感情的な強いフレーズも速いパッセージもないけれど、ポロンポロンと絶え間無く奏でられる流麗なそれはどこまでも清く、どこまでも優しく、泣きそうなくらいの暖かさに溢れていた。

しかし、何だろう。その中に…これは、飢え?


「…あ」


浮かんだ疑問は考えがまとまる前にすぐに掻き消え、呼吸すら忘れそうな程の音楽の洪水の中、五月雨さんの顔を見て目を見開く。


だって彼女が、見たことないくらい幸せそうに笑っていたから。


長いような短いような時間が過ぎて、最後の一音が空気の中に溶け消える。

いつから詰めていたかも分からない息を吐き、私はごく自然に立ち上がって喝采を送っていた。

一拍遅れて八丸くんも、興奮した様子でピョコピョコと跳ねだす。


「すっごくよかったよ!五月雨さん!!感動した!!」

「すっごいのヨ!!イノリ!オレサマ鳥肌がたったのヨ!」

「あ…あ、ありがと、う」


月並みの賛辞しか出てこないのが非常にもどかしいけれど、紛れもない本心だから許して欲しい。

それにしても五月雨さん、演奏が終わってから真っ赤だけど大丈夫だろうか。


「むむー、これが心が洗われる…ってやつなのヨ」


そっかそっか。是非ともそのまま洗われて綺麗になってほしいものだね。

でも八丸くんの言いたいことはなんとなく分かる。


「そうだね。雨みたいだった」

「あ…雨?」


思ったままにそう言えば五月雨さんは不思議そうに首をかしげ、チラリと窓の外を見る。


「私ね、"こっち"に来てはじめての雨を見た時…ありふれた、昔は当たり前だった筈のその透明な雫が美しいって思ったし、木々や水面で跳ねる音に生を感じたの」


今はそりゃ降りすぎだと思うし、そうでなくともじめじめした空気はさほど好きじゃない。

けれど、その尊さに気付いてしまったから。


「五月雨さんの音は私にとっての雨みたいに、凄く綺麗で優しくて…うん。恵みのような音って言いたかったんだ」


ちゃんと言葉にするのは恥ずかしいな、と思いながらはにかめば、パチパチと瞬いていた五月雨さんはさっと頬を薄赤く染めて無邪気な子供のように笑った。


「つ…綴戯さんにとっての恵みであれたなら、凄く嬉しい、です」


五月雨さんのコンサートを終え音楽の余韻を楽しむようにゆっくりしていた私達に、八丸くんが突然口を開く。


「そうだ!オレサマ、シオリのピアノも聞きたいのヨ!」

「え"!?」


何を言い出すかと思えば、予想外のお願いにカエルみたいなダミ声が出てしまったじゃないか。

五月雨さんのアレの後に頼むとか正気か?


「わ…私も是非聞きたい、です」


おっと彼女からも援護射撃が来てしまった。

こんなことなら早急に図書室に帰るんだったと思っても後の祭りというやつである。

ここは弾けないと言って誤魔化すしかない。


「シオリ、"記録者"として答えるのヨ。綴戯栞里はピアノが弾ける?」

「ぐっ…!八丸くんずるい!!」


にまにまと意地悪そうに笑う彼に、成る程さすがは一ノ世の同期だと改めて納得した。


「ね、ネコチャン踏んじゃった…なら、一応」

「「聞きたい」」


誰か今すぐ私を埋めてはくれないだろうか。

一流ホテルの従業員みたいに素晴らしい笑顔でピアノ椅子へ案内しようとする二人の圧が凄い。


「わかった、わかったよ!!けど、酷い演奏でも文句言わないでよ!!」


逃げられそうにないと悟り、半ば自棄になりながらピアノの前に座る。

さっきまで私がいた観客席では五月雨さん達がにこにこしながら待っていた。


ピアノなんていつ以来だろうか。友人に何度か教えてもらってそれっきりな気がする。

楽譜はおかげさまで完璧に覚えいるけれど、弾き方は…うーん、あの友人はどんな風に弾いていたっけ。


音を確かめようと、最初の一音だけ人差し指で鍵盤を押した。


瞬間、音と共に弾けたのは…


〈ピアノはね!心で弾くんだよ!〉

〈え?こ、心??〉

〈楽しい嬉しい悲しい怒り愛しさ…思いを込めて触れれば、この子らは答えてくれるんだから!!こんな風に!!〉

〈っう、わぁ!!〉

〈こらー!!お前はまーた滅茶苦茶な演奏を!!〉


そうだった。彼女は楽譜なんてお構いなしに…凄く感情豊かに、自由に、心のまま弾く人だったったけ。


両手を鍵盤に置いて深呼吸。

私にとってのピアノは、あの破天荒な友人との思い出だ。

つまり…大切で、愛おしくて、楽しいものって事…!


指を沈ませた瞬間、五月雨さんとは違う情緒もへったくれもない音がくす玉の如く弾けた。


意外と指は覚えているもので、つっかえながらも動いてくれる。

弾いていると本当に楽しくなってしまい、記憶の友人を頼りに勝手にアレンジしてみたりしてしまった。素人が何やってんだろ。恥ずかしい。


それでも願う。これは、もう手の届かない友人への、悲しくない鎮魂歌だ。

ねぇ私、まだ弾けるよ。あなたにもらったピアノの音を。


短い楽譜を何回も変えながら繰り返し、満足したのとネタ切れで手を止める。

ふぅと息をついて顔をあげれば、パチパチと二人の拍手が出迎えてくれた。


「シオリ凄い!ルンルンしたり、胸にぎゅうってきたり…とにかく!くるくる変わって面白かったのヨ!」


どうやら八丸くんには好評だったらしい。少しホッとしたよ。

ふんすふんすと鼻息荒くどのアレンジが良かったかを力説する姿は、やはり悔しいけど可愛らしい。

というか語彙力も見た目に合わせて低下してない?可愛いかよ。変態なのに。


五月雨さんはどうだろうかと視線をずらせば、酷く扇情的な色を濡れたチェリーの瞳に宿す彼女と目が合った。


《あ…愛して、る!愛してる愛してる愛してる!!》


ジリッと脳の奥が疼き、視界にノイズが走る。

今の、表情…そっくりだった。

やはり同じ人物なんだと実感しつつ、何故今重なったのかが大変気になるところなのだけど…


「わ…私その、感動しちゃっ、て。つ…綴戯さん…好き、です」


好きの言葉に甘い甘い香りが乗った気がして内心たじろいだ。ピアノの話でいいんだよね?

さっきまでの落ち着いた清流を思わせる雰囲気ではなく、とろりとした蜜のような様子の彼女に脳内は大混乱である。


「あ…あの綴戯、さん。も…もし良かったらピアノ教えましょう、か?」

「え?あ…いいの?」

「も…勿論で、す」


それは願ってもない申し出だ。

折角こうして触れることが出来たのだから、これで終わりなんて勿体無いもの。


「なら、是非お願いしたいな」

「は…はい!う…ふふ!こ…こういうの初めて、です」

「友達とかに教えたりしなかったの?」

「と…友達を作るのは禁止されている、ので。だ…だから綴戯さんに教えるのが初めてなんで、すよ」


彼女は嬉しそうに笑った。

そんな彼女を、八丸くんは無表情でじっと見ていたけれど。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


五月雨side


第一印象は、可哀想な人。


最初に見掛けたのはたまたま任務の報告がてら顔を出した学園。

『記録』の能力で見せられたあの方の数奇な運命に、心の底から同情すると同時に歓喜しました。


あぁ、なんて可哀想な人なのでしょう!!


私は己よりも弱い者が好き。それを愛でるのが好き。

己よりも哀れな人を見れば、私の哀しみは薄れてくれる気がするんです。

だから私は弱者に愛を注ぐのです。


弱く、哀れな能力者。綴戯栞里さん。

あぁ!是非とも御近づきになりたいと、ずっと、ずっと思っていました。


大学が思いの外立て込んでいて中々来られなかった学園。

その図書室に居を構えてると聞いて、私はもっともらしい理由を携えて向かったのです。


〈え、あ、はい。どんな本かな?〉


始めてきちんと対峙した綴戯さんは図書室の空気に似て穏やかで、とてもあの"記録"で見た地獄を歩んできたようには見えませんでした。まるきり普通の人。


ですが…それは、私の顔を見せた瞬間に覆りました。


〈ヒッ!?あ、あ…〉


晴れていた空から突然土砂降りが降るように、綴戯さんの生み出す空気が濁ったのです。


こんな小娘一人に怯えきり、虚ろな視線をさ迷わせ、涙を流すその姿が…堪らなく愛おしかった。

幸いあの方は混乱していたので私の顔は見られていないでしょうけれど、相当歪んでいた自信があります。


でも仕方ないじゃないですか。

こんなに弱いのですもの。私より惨めなんですもの。

私の『結界』で優しく守って囲って愛してあげなくては。


しかし残念ながらこの図書室のどこかに第三者がいるらしい声が聞こえたのと、可愛くても強くて愛せない後輩達が来てしまったので私の願望は叶いませんでした。


仕方がありませんから、私は綴戯さんの警戒心をほどくために苦手な会話を試みました。

ですが、言いたいことをまとめているうちにすぐ横から口を出してくる二菜は相変わらずですね。

良い子ではありますけど、そのハキハキしたところや社交性は妬ましいので好きになれません。


だって私は…お父様から友人を作るのを禁止されているのに。彼女はあの調子でどんどん仲良しを作るのですもの。羨ましい。

綴戯さんともすっかり仲良しみたいですし、尚更羨ましいです。


とはいえ元来の世話焼きというか…頼まれたら可哀想で放っておけない性分の私は、気付いたら綴戯さんとの交流ではなく二菜達の勉強に注力していました。失敗です。


ですが、そんな内心落ち込んでいた私に、天上の調べのような尊い言葉が響いたのです。


〈私ね、二人が居なくて寂しかったみたい、で…いい年して恥ずかしい、んだけど〉


あぁ、寂しいだなんて!相手が後輩たちであるのは悔しいところですが、なんて可哀いのでしょう!

本当に哀れで哀れで哀れで哀れで…愛らしい人!


欲がどろどろと体を溶かしてしまいそうでしたけど、私はそれを表に出すようなヘマはしません。

己を隠すことには慣れていますから。

目は口ほどにものを言うと聞いてからは、瞳を隠すために前髪だって伸ばしたのです。一石二鳥ですからね。


さて、勉強で忙しい後輩たち。あの子達はしばらく綴戯さんに構う余裕はないでしょう。まして明日は授業もありますからね。

ならば、私が可哀想なあの方のために行ってあげませんと。


大学の授業なんて、本当はどうでも良いのです。

そもそも興味も関心もありませんもの。

だって私は能力者ですよ?

確かに一般人なんて皆弱くて可愛らしいですけど、それはただ蟻が角砂糖を一生懸命運んでいるのを見て、可愛い、いじらしいと感じる程度のそれです。


その営みを助けたいとは思いませんし、別に靴で踏み荒らされても雨に打たれて溺れてもどうでも良い。皆さんそうでしょう?

つまるところ、可愛い観賞対象。それ以上でも以下でもないのですよ。


それでも私がわざわざ大学に行き、一般の仕事を目指すのは…家族に望まれるから。それだけなのです。


そんな訳で今日、私は大学を堂々とサボって綴戯さんを訪ねたのです。

昨日はあれほど取り乱した彼女ですけど、さすがは大人。うまく覆い隠して私を迎えてくれました。


しかし我ながら失念していたことが1つ。

「き…昨日寂しいって言っていた、ので。わ…私で良かったら一緒、に!」

「…え?」


やらかした、と思いましたよ。


如何せん友というものを作って来なかったので、どうすれば仲を縮められるかなどまるで分からず…つまり距離感を測るのが絶望的に下手くそだったのです。


私が同じ事を会って二日目の人間に言われたら普通に引きますね。なんだこいつってなります。

自分で想像して、今すぐ帰りたくなりました。


けれど、自己嫌悪で結界に閉じ籠りたいと落ち込んだ私に、なんと綴戯さんは微笑んでくれたのです。


「あの、五月雨さん…ありがとう。凄く、嬉しい」


第二印象は、綺麗な人。


どうしてそんなに美しく笑えるのでしょう。

身を焼かれるような絶望を心に携えて、おそらくは幾度も己を殺しただろう相手と同じ存在の私に…こんな、本当に嬉しそうに笑うだなんて。

眩暈がしそうな衝撃でした。


ただの弱者ではない。

あれほどの地獄を生きて尚、普通を演じられる人が…その心が、ただ弱いだけな筈がなかったのです。


それでガッカリするかと思いきや、私も自分で驚きましたが…更に惹かれてしまいました。

綴戯さんに喜ばれた私は同じくらい、いえそれ以上に嬉しかったのです。


力は当然のように弱くて、寂しさだとかトラウマを抱える心だって弱い筈なのに…彼女はそれでも負けるものかと凛と立つ。


あぁ、こんなに美しく強い弱者、見たことない。


そのちぐはぐさが、所謂ギャップのようなものが私の心を掴んだのです。


…欲しい。


瞳にその色が滲んでしまったのを感じながら、私は笑いました。

これから二人きりで、果たして私は欲に耐えられるでしょうかと心配になりましたが…


「実はね、変態と二人きりでどうしようかと思ってたところなんだ」

「へ…変態???」

「シオリー!外に放るなんて酷いのヨ」

「どう考えても八丸くんが悪いでしょ!!」


子供の姿で少し混乱しましたけど、まさかあの稲荷田さんがいるなんて。

やらかす心配は必要なくなりましたが、別の意味では心配になりましたね。

変態は綺麗な綴戯さんに近付かないで欲しいです。


大学生という共通項のおかげか、思いの外話は弾みました。難しく考える必要もなく、ごく自然な会話はとても心地良い。

友達とはこんな感じでしょうか。

困りました。ますます欲しくなってしまいます。


やがてサークルの話になり、私の現状を聞いた綴戯さんは難しい顔をしてしまいました。

まぁ確かに稲荷田さんの言う通り、いえ、彼の言う意味とは違うと思いますが、枯れているとは思います。


ですが能力者なんてそんなものでしょう?

そう、割りきっているつもりだったのです。


「ね、五月雨さん。やってみたい事はないの?」


口調は軽いのに、その奥には到底底の見えない深さがありました。

けれどそれは恐ろしいものではなくて、こちらを案じた優しさに満ちていたのです。


また、衝撃が襲いました。


優しさまで、私にくれるのですか。

私からの一方通行ではなく私にも返してくれるのですか。

"あの人達"と違って…?


そんな事を考えたせいか、私の口からは何年も封じてきた思いがうっかりこぼれ落ちてしまいました。


「…ピアノ」


音になってからしまったと気付いて、私は慌てて誤魔化そうと有りもしない勧誘話をでっち上げたりしましたけど…


「聞きたいな」


綴戯さんがそう言ってくれるから、たまには私も弱者に寄り掛かってみて良いでしょうか。なんて。


私は…本当は…


昔は一人こっそり弾いていた音楽室のピアノ。

同期の何人かは知っていましたけど、もう彼らは居なくなってしまいましたから…私のピアノを知ってる人は居ないかもしれません。


家族、以外は。


人前でなんて久しぶりすぎて手が震えそうでしたけど、ピアノに触れた瞬間つまらない思考はすべて飛びました。


あぁ、この子が、待っている。


命を持たぬフリをして息を潜めながら、その実羽根を広げて生を謳う瞬間を今か今かと待ちわびる獣のように。

早くしろと、白黒の牙を光らせて私を誘ったのです。


綴戯さんに、とかを考える余裕なんてありませんでした。

ただ私は私の思うままに、私の音を無遠慮に撒き散らしたのです。

ピアノは鏡。知ってはいますけど、止められませんでした。


だってこんなにも楽しいのですから!


私はかつてのようにピアノで私なりの愛を吐き散らし掻き鳴らし歌い上げ……


羞恥で死にたくなりました。


何をしているんでしょう本当に。

これは、雨に降られながらも開かない彼女の家の扉の前で愛を歌い続ける男を描いたマイナーな曲。

諸説ありますけど、一方通行の愛の歌だと私は解釈しています。


それを!何故今!!

もっと有名なクラシックとか、格好いい曲愛くるしい曲美しい曲いくらでもあったでしょうに!!

子犬ちゃんのワルツとか!!!


ほぼ放心状態の私でしたが、綴戯さんと稲荷田さんの拍手で我に返りました。

良かった。曲のことは知らないみたいです。


「心が洗われるってやつなのヨ」


いえ、彼のピンク色な心は浄化出来る気がしませんけど…


「そうだね。雨みたいだった」

「あ…雨?」


綴戯さんの言葉にヒヤリとしながら窓の外に降りしきる雨を見ました。

雨くらい耳障りだったのでしょうか。

これは私への大ダメージが予想されました。


しかし…綴戯さんは、私の予想を軽々と裏切る人だったのです。


私はこの曲にありったけの愛を込めました。

けれどそれは曲の受け取り手、この場なら綴戯さんに捧ぐ()からの一方通行の愛のはずだったのです。


「五月雨さんの音は私にとっての雨みたいに、凄く綺麗で優しくて…恵みのような音って言いたかったんだ」


雨を、そう解釈するのですか。

これを恵みと言うのですか。


私にとっての雨はただただ嫌いなものです。

だからこそ、それに負けじと愛を伝え続ける男に感銘を受けた曲だったのですから。


でも綴戯さんにとって雨は試練ではないと言う。


この曲に降りしきる雨は男の心を映した心情描写だと私は解釈しています。

あぁ、だとしたら彼女から見たこの曲は…なんて優しい曲でしょうか。

男は苦しみの中にいるのではないじゃないですか。

恵みの、愛の中で歌っているのですから。


「つ…綴戯さんにとっての恵みであれたなら、凄く嬉しい、です」


私の込めた愛が、恵みだなんて。

そんなに嬉しいこと、久しぶりに言われました。


ーーーー…


「う…ふふふふ♪」


音楽室から図書室に帰ったところで綴戯さんと別れ、夢見心地のまま再び音楽室のピアノに触れる。


綴戯さんの演奏、素晴らしかったですね。


拙い演奏ながら音符はあの方の心に正直で、時に楽しく、時に尊さを忍ばせて、時に慈しみをもって音楽室を自由に跳ね回りました。


三度目の衝撃です。


これが、私が与えられるだけの弱者と侮ったあの方の心か、と。


あの地獄をもってして、まだこれ程までの光と優しさを抱けるなんて。

私には、いえ、他の能力者にだって出来やしない。


やはり彼女は弱くなんてありませんでしたね。


綴戯さんのこれは手向けでしょう。

きっと、ピアノを教わった誰かへの。


こんなにも思いと愛に溢れた音を捧げられる相手が羨ましくて、私は見えない音符に手を伸ばしそうになりました。


「あぁ、欲しい…!!」


1人きりの部屋で思いを叫ぶ。


「欲しい!私も、私だって、あの方の愛が欲しい!!あんな慈愛を与えられたい!」


私は…本当は…


「愛されたいのです!」


愛されたいから愛するのですから!

一番欲しい人達からはもらえないから、だから他で、補えるだけの沢山の愛が欲しい!


弱い者なら、優しくされたら高確率で恩返ししてくれるでしょう?愛を返してくれるでしょう?

だから私は可哀想な弱者を愛するのです。


でも綴戯さんは違う。

違うけど…でも、あの澄みきった純粋な愛が欲しくなってしまったのです。

量よりも質が欲しいのです。


「おい、イノリ」

「…な…なんで、すか。い…稲荷田さ、ん」


いつの間にいたのでしょうか。

全く気付かなかった事実に背を冷たいものが伝います。


振り向けば見覚えのある、ありのままの姿の稲荷田さん。

その色違いの双眼は綴戯さんには絶対に見せないのだろう冷たさで満ちていました。


「オレサマ、メスには優しいけど…シオリに何かするつもりなら食い千切るのヨ」

「し…しません、よ」

「本当に?イノリ、自分で顔を良く見た方が良いのヨ」


顔と言われて、指先でそっと触れて…あぁ成る程。これはダメですね。

私の顔は、どうしようもなく狂った笑みを浮かべていますから。


「シオリが喜んでいたから止めないけど、ピアノのレッスンにせよ何にせよ二人きりにはさせないのヨ」

「そ…そうしてくだ、さい」

「イノリ…」

「ま…まだ大丈夫です、から」


"世界"に見放され続けた壊れかけの私は、私を誰より信じられません。



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