5-2
ここ数日ずっと空を覆うのっぺりした灰色がとても嫌いだ。
毎日のように視界に入るそれは"あちら"の日々を嫌でも引きずり出し、忘れることなど許さないと言いたげにノイズ混じりの地獄をちらつかせる。
唯一の救いは、"あちら"ではもう滅多に見れない透明な雨がそれを洗い流してくれることだね。
まぁジメジメするのはやっぱり嫌だけれど。
「はぁ…」
気分がよくないせいか湿度を孕む空気がより陰鬱に感じられ、再び心が疲弊しつつある。
というのに…!
「ねぇ、今日…いいでしょう?」
「おや積極的なレディ、何がお望みなのヨ」
「んっ…わかってる、くせに。あっ…」
追い打ちでも食らった気分である。
図書室から外に出る度にこれだ。勘弁してほしい。
雨音が消すには力不足だったらしい男女の甘ったるい声がサァサァという環境音に紛れて聞こえてきたのはかれこれ何回目か。いや、数えたくもないけれど片手以上は経験してるぞ。
地方に派遣され飛び回っているのが常だったという彼が、私のせいでここに腰を据えてからまだニ、三日程度しか経っていないというのに、だ。
「…はぁ」
半径1m程度でいいから局地的に記録的豪雨が降ればいいのにと呪詛を吐きながら、本を抱えて中庭の渡り廊下を歩く。
今日はもうやることないし引きこもろう。
談話スペースに誰もいないのを良いことに、私は行儀悪くテーブルにだらりと上半身を溶けさせる。
二菜ちゃんと至くんはあれから来ていないけど、ちゃんと捗ってるかな。
代わり映えのない私の住みかは相変わらず時間の流れが止まっているみたいに穏やかで、チクタクと聞こえる古めかしい壁掛け時計の秒針だけが忙しなく回っている。
そう、何も変わってなどいない筈なのに…
すきま風でも吹いているかのように、少しだけ寒い。
窓もないのに不思議なものだと視線を動かし、カウンターに乗るぬいぐるみ達が目に止まる。今日も今日とて不釣り合いだ。
「シオリー」
クスっと笑ったところで不意に聞こえた幼い声に、慌てて体を起こした。
声を辿って見れば、約束を違えることなく子供姿をとった八丸くんがわしわしとタオルで頭を拭きながら歩いてくる。
さっきは女性と相合傘していたクセにどうしてか雨を被ったらしい。
「むむー、置いてくなんて酷いのヨ。オレサマ慌てて追いかけたのに」
「いや、お楽しみだったみたいだし」
「あれは後日に回したのヨ。今はシオリが一番なのヨ」
至極当然な顔で言い放つ彼にため息をつきながら、電気ケトルのスイッチを入れに行く。
字面だけ見ればときめき要素のありそうな台詞をよくもまあサラリと言えるものだ。
いや、別にときめかないけど。
むしろ、いつか八丸くんの遊び相手に刺されたりしないだろうかという恐怖が胸をドキドキさせてくるよね。
カチンとスイッチの切れたケトルからお湯を注ぎ、インスタントのココアを淹れる。
子供には少し大きいだろうマグカップを手渡そうとすれば、八丸くんは一瞬手を伸ばし、しかしすぐに引っ込めてテーブルを示した。
そういえば彼って、遊び相手の女性達にはあんなベタベタスキンシップするのに私には一度たりとも触れようとしないんだよね。
手を伸ばさないどころか今みたいにわざわざ避ける徹底ぶりだ。
私が露骨に不思議そうな顔をしたからか、八丸くんは子供らしくない苦笑を湛えてこくりとココアを一口流す。
「オレサマはシオリを怖がらせたくないのヨ」
「…え?」
指をひとつひとつピンと開いた紅葉みたいな手のひらが目の前にぱっと二つ咲く。
いきなりのそれにどうすればいいのかと奥の彼を見れば、痛みを堪えるように私を見ていた。
「シオリは"別"の、けど確かに"オレサマ達の手"で、命も未来も尊厳も…あらゆる物を奪われたのヨ。恐れるのは当たり前。それを知りながら勝手に無神経に触れるなど、"守る"に反する行為なのヨ」
きゅっと握られた手。ブルブルと震えるそれは、相当な力が入れられているのが分かる。
驚きで目が皿のようになるのを感じた。
私の恐怖を当たり前だと認め、その上で気を回してくれていた、なんて。
まさかそこまで誠実に守ろうとしてくれてるなんて思いもしなかったな。
成る程。何となくこの人がモテる理由が分かった気がする。
少しの気恥ずかしさと共に、ちゃんとお礼を言おうと口を開き…
「けど!シオリが許してくれたその時は…上から下まで存分に触ってあげるのヨ。大丈夫。オレサマ小さいのも好きだし、シオリのは揉んだらもう少し大きくなると思うのヨ」
「最低!!!」
罵倒がこぼれ落ちたのは仕方ないと思う。
はい、訂正訂正。この脳内ピンク野郎がモテるのはとても解せない。解したくない。
一ノ世レベルでデリカシーなくない??
どいつもこいつも私の胸を馬鹿にしてさ、前世で胸に親でも殺されたのかよ。けっ。
コンコン
なんで怒るの?って顔をする八丸くんに頭を抱えていると、控えめなノックが聞こえた。
七尾さんだろうかと思いながら私はどうぞと声をかけてカウンターへ向かう。ノックする人なんて彼くらいしか思い当たらないからね。
ちなみに、八丸くんはぽふんと音を立ててぬいぐるみに紛れ込んだよ。お見事。
「し…失礼し、ます」
聞こえてきた声は予想に反してか弱い女の子の声だった。
カチャリと僅かに開かれた扉から恐る恐る姿を見せたその子は俯きがちで顔は見えないけれど、腰くらいまでの綺麗な空色の髪をツーサイドアップにしている。
頭の奥にじりじりと何かが燻るような不快感を感じ、そっと米神に手を添えた。
この、感じは…
「す…すみませ、ん。だ…大学の課題で使いたい本があるんです、けど」
「え、あ、はい。どんな本かな?」
嫌な感覚を振り払うように笑い、彼女に頼まれた本の所在を"記録"から引っ張り出す。
虫干しや本棚の整理の際に全て"記録"してあるおかげで、すっかり自分が本を探す端末代わりになってしまった。
人体の構造、運動学、外国語辞典、心理学書に化学の参考書他色々…一冊だけ系統の違う本があったけれど、大学の基礎科目の他は比較的医学関連が多い気がする。東雲さんがたまに読みに来ているやつだ。
大学と言っていたけれど、医療系なのだろうか。というか、能力者も大学行くの…??
「はい。これで合ってるかな?」
彼女から聞いたタイトルや希望に合った本を積み重ねて尋ねれば、さっと物を確認してからコクリと頷いてくれた。
そして、貸し出しカードにとても丁寧な字で名を記した彼女はずっと己の足先を見ていた顔を上げる。
「あ…ありがとうござい、ます」
「…っ!!」
小さく笑ったその顔に、頭から冷水を被ったように全身から血の気が引いた。
図書室の風景に朽ち果てた家屋がちらつき、聞こえる筈のない悲鳴が耳鳴りのように脳を揺さぶる。
「…?ど…どうかしま、した?」
「ヒッ!?あ、あ…」
心配そうな顔をして片手をそっと持ち上げた彼女に一歩後ずさった。
まずい。世界がぶれる。気持ち悪い。
私に向けて勝手に『開示』され現実を侵食していく"記録"の風景が…止められない。
彼女は、そう…
確認しなければよかったのに、私の目は貸し出しカードに記された名を読み取った。
五月雨 祈。
あぁ、やっぱり。
『結界』の能力を持つ、能力者。
"アイツ"は他の連中のように大量殺戮をするでも、街を破壊し尽くすでもない。
ただ、逃げおおせた人々を朽ちた家屋の隙間や瓦礫の中から見つけ出し、助かったと希望を抱いた彼らの命を踏みにじるのだ。
訳の分からない理由の元に。
《いやぁぁぁぁ!!ここから出して!!!》
《出して!!出してくれ!!頼む!》
《や…やだやだどうして逃げようと、するの?み…皆私とずっと、一緒。あ…愛してる、の。あ…愛してるから殺す、の。だ…だって死ねば永遠に私だけのもの、だから。あ…愛して、る》
瞬間、彼らを閉じ込めていた結界がぎゅんと縮まり、聞くに耐えないごきゅりぐちゃりという音とつんざくような悲鳴を吐き出しながら中身を圧縮していく。
やがてコロンと落ちるのは到底人だったとは思えない正方形。
《う…ふふふふふふふふふふふふ!!ああ、私の、私だけの!愛してる!愛してる!愛してる!愛してる!愛してる!》
血塗れのそれをうっとりしながら胸に抱き、ヘドロの方がまだ可愛らしいだろうどろどろと狂気に淀んだ目がこちらを見る。
《お…お待た、せ。あ…あなたも愛して、る。な…何度だっ、て。わ…私のものにする、の。き…今日こそちゃん、と》
《嫌!!いい加減にしてよ!出せ!!出しなさい!!私は、お前なんて!!だいき…っ"あ"!!い"あ"ぁぁぁぁぁぁぁ!!!》
《だ…ダメだ、よ。に…逃がさな、い》
"アイツ"とは違う、じわじわと潰される痛みとごきゅりばきりぐちゃりとした音が…音、が…
「…う"!!…っ…ぐ、ぅ…!」
あまりの気持ち悪さとぐらぐらと揺らぐ視界に立って居られなくなり、崩れるようにその場にしゃがみこむ。
痛い痛い痛い、違う、痛く、ない筈、なのに!
これは"記録"だ。今じゃない。
今じゃないのは、分かってるんだよ!!!
「シオリ!?しっかりするのヨ!!シオリ!!」
「あ…あの!だ…大丈夫です、か!?い…今東雲先生、を…!」
心配する声が聞こえる。
誰だ。誰の声がしてるのか分からない。
何もかもがぐちゃぐちゃで、震えと涙が止まらないまま溺れてしまいそうだったその時、太刀の一閃のように声が聞こえた。
「失礼します!!お姉さーん!!本を借りにきました!!」
この声は、知ってる…?
そう確か…確か…
「あれ!?お姉さん…?っ、お姉さん!?はわわわわわ!大変です!大丈夫ですか!?分かりますか!?二菜ですよぅ!!」
そうだ。"二菜ちゃん"。
「ちょ馬鹿落ち着きなよ綴戯さんの近くで走り回るなホコリが立つ犬かよ熊のクセにっていうかそんな事より大丈夫ですか綴戯さん」
あぁ、これは…"至くん"。
「ハッ、ハッ…ん…へ、いき。あり、がとう」
わぁわぁと響く"いつも"と変わらないやり取りに、私ははっきり"今"を思い出す。
急速に戻る現実に、気持ち悪さを散らすために深く深く息を吐いた。
そしてダルい体にムチ打ちながらぐっと立ち上がり、カウンター越しに泣きそうな顔をしている少女に目を向ける。
あぁ…大丈夫。彼女は、"アイツ"じゃない。
「ご、めん…なさい。すこし、取り乱しちゃって」
「い…いえ。わ…私が無神経で、した。あ…あなたの事、知っていた、のに。す…すみませ、ん」
「…謝らないで。"あなた"は、決して悪くないから」
これは私の弱さが招いた事だ。
"こちら"の皆に八つ当たりするつもりはないし、してもただ惨めなだけ。
それに、私は"復讐"の為にも乗り越えなくちゃいけないのだから。
「で…でしたら少しだけお話をしませ、んか?よ…よかったら、"私"を知ってくだ、さい」
「うん。勿論。よろしくお願いします」
私はちゃんと、彼女を知りたい。
二菜ちゃんと至くんに保健室に連れていかれそうになったのを何とか阻止して、皆で談話スペースのテーブルを囲う。
八丸くんは何故かしんと喋らなくなってしまったからそのままカウンターだけれど…寝てしまったのかな。
椅子に座って小さく息を吐く。
未だ荒んだ空気が漂っているように感じるけれど、すぐにこの図書室が何事もなかったように飲み込むことだろう。
だって、静謐な本達も規則正しく刻まれる時計も変わること無く穏やかだから。
「あ…改めて、五月雨 祈で、す」
「五月雨先輩は二菜達の一つ上の先輩です!!本土の大学でお勉強してるそうです!!」
何故か五月雨さんの隣に座る二菜ちゃんが、元気に説明をかっさらっていく。
五月雨さんはそれに対して何も言わないけれど、長めの前髪に隠れた瞳は不服そうだ。
「綴戯栞里です。えっと、能力者も大学とか行くんだね…?何か意外かも」
「そ…そうです、ね。し…少数ではあり、ます。わ…私普通の仕事もやりたく、て」
「物好きってやつですね!」
「も…物好きという、か。お…お父様にも言われて、るし。い…一応安定した収入も欲しい、から」
んん??何だろう、この二人睨み合ってないかな?気のせい?
チラリと至くんを見るも目線は合わなかった。
「わ…私の能力じゃ討伐任務には向かな、くて。あ…あまりお金入らない、から」
彼女の能力は『結界』。
透明で強固な壁を作り出せるそれは、サポートに回るならまだしもメインのアタッカーには向いていないのかも知れない。
まぁ私は攻撃的な使い方もよく知ってるけど…言うつもりは毛頭ないよ。
「先輩は護衛任務ならアリなのに、この性格なので指名があまり入らないんです!」
「わ…分かってる、けど。に…苦手なものは仕方ないで、しょ」
もじもじと胸の前で手をたえず動かしながら口を尖らせる彼女を見れば、確かに誰かの護衛が向いているようには思えない。
守られる側が不安になりそうだ。
というか、やっぱり二菜ちゃんの当たりが強めなのは気のせいじゃないな。
私はちょいちょいと彼女を手招きして、小さな耳にそっと尋ねた。
「え、えっと、二菜ちゃん?もしかしてあまり、その、仲良くない?無理に付き合わなくて大丈夫だよ?」
そう伝えるとパチパチと大きな瞳が瞬き、次いで何て事ないようににぱっと笑う。
「いえ!仲は悪くありません!ただ、二菜は先輩のハッキリしないとこは嫌いです!」
「う…ふふ。だ…大丈夫で、す。ほ…本当に仲は悪くないん、です。で…でも私も二菜の遠慮のないところは嫌い、ですね」
ねー?と言い合う二人が謎過ぎる。
互いにもういっそ清々しいくらいに嫌いと言っているのに、言った当人も言われた側も気にした様子がまるでない。
困惑気味に至くんを見れば今度は目が合い、彼は苦笑しながらマスクを顎までずらした。
「嫌なところはあってもその人全部が嫌いなわけじゃないっていうかこそこそ隠したりしないからこそ上手くいってるんですその二人は」
嫌なところはあってもその人全てが嫌いなわけじゃない…か。
成る程とは思うけど、それって実際すごく難しい事だよね。
勉強の教えを乞い始めた二菜ちゃんと丁寧に解説を始める五月雨さんを見て、感心しながら小さく笑う。
そこにちゃっかり至くんも混ざり始めて、さながら勉強会のようだ。
良い先輩と後輩だな。
少しだけだけれど、しかし確かに新しい三人を知れた私はもう一度クスッと笑い、お茶でも淹れようと席を立った。
ふと、あることに気付いて動きを止める。
あの胸ですぅすぅしていた隙間はいつの間にか満たされていて、もう寒さは感じない。
あぁ、と一人納得した。
寂しいかったのか、私は。
結局二時間程勉強会は続き、ぷしゅーと頭から煙を出し始めた二菜ちゃんを切っ掛けにお開きとなった。
大丈夫?パンクしてない?
ぶつぶつと公式を唱えている目が虚ろで怖いのだけど。
「お姉さん!!二菜頑張りますからね!」
「う、うん。無理はしないでね」
立ち去ろうとする背中に手を振ろうとして、中途半端に手が止まる。
それを見た至くんが不思議そうに首をかしげた。
「綴戯さんどうかしましたかまだ気分が悪いなら東雲先生の所までご一緒しますというかさせてください」
「ち、違うんだよ!そうじゃ、なくて…」
どうしよう…心配させたくはないけれど、本当の事を言うのは恥ずかしすぎる。
言葉を探している間にもこちらを気遣う瞳が六つに増えていて、私は観念して口を開いた。
「私ね、二人が居なくて寂しかったみたい、で…いい年して恥ずかしい、んだけど。だから、その…名残惜しいなって…」
あまりにも情けなくてぎゅっと目をつむる。
しんと静まりかえった室内は呼吸の音すらどこかに消えてしまっているみたいだ。
耳が痛いくらいの沈黙に耐えきれず、そろりと目を開けると…
「え、二菜ちゃん?至くん??」
「「…は!?はわわわわわわわ」」
二人は可哀想なくらいに真っ赤になっていて、声をかけてみれば完全に語彙力を失っているではないか。
え、なに、何で??引かれた?いや、それにしちゃ反応違う気がするけど…
大丈夫か尋ねても"はわわ"しか言わなくなってしまった彼女達にどうしたものかとわたわたしていると、二人の頭に容赦なく本が振り下ろされた。
い、医学書…絶対痛いやつだ。
「つ…綴戯さんが困ってる、から」
「はっ!?す、すみませんすみません!!二菜達、嬉しくなっちゃって!だから、その!!!」
「…」(コクコクコクコクコク)
う、嬉しく…?どの辺にその要素があったのかいまいち分からないけれど、取り敢えず引かれた訳じゃないなら良かったかな。
ホッと息を吐くと、二菜ちゃんがぎゅっと握り拳を作りながら、メラメラと決意を宿した瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「お姉さん!!待っていてください!マッハでテスト終わらせてきますから!!」
「え?あ、二菜ちゃん!?」
そのままびゅんと飛び出してしまった彼女を呆然と見送る。
テストの日付がどうこう出来る訳でもないのだから、あんなに張り切っても仕方ないのに。
「「「ぷっ、あははは!」」」
相変わらず真っ直ぐすぎるよ本当に。
もう笑うしかないじゃないか。
「ふふっ、至くんも頑張ってね。五月雨さんも、課題頑張って」
「…」(コクコク)
「ふふ!あ…ありがとうござい、ます」
雨の気配も散らすくらいに明るくなった図書室で、去っていく二人に今度はちゃんと手を振った。
心なしか秒針も物言わぬ本達すらも浮き足立っているように感じられて、やっぱり自分は単純らしいとまた笑う。
「…シオリ」
ぽふんと軽い音と共に、酷く頼りない声が聞こえた。
声の主である八丸くんは、カウンターに腰かけた小さな背中を更に小さくして、しっぽも萎れた花ように力無く垂れ下げている。
「オレサマ、何もしてあげられなかったのヨ」
泣く手前のような湿った声が、小さく紡がれた。
彼なりに私の取り乱した姿は思うところがあったのだろう。
誠実に守ろうとしてくれているからこそ、尚更。
「あれは私の弱さが悪いんだよ。気にしないで」
「でも…!」
「それに、ここは守られたら困るかな。私は…乗り越えたいんだから」
これだけは絶対に譲れない。
私の復讐という名の自己満足のために。
じっと私を見ていた八丸くんは、暫くして仕方ないなと苦笑する。
そしてぽてぽてと少し頼りない足どりで私の側にやってきて、ぱっと両腕を広げた。
「寂しいって言ってたのヨ。よかったら体で慰めてあげるのヨ」
「絶対言うと思った…結構です!!」
相変わらず台無しである。
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稲荷田side
「あれ?イナリじゃん。君さ、こんなとこ居るなんて珍しいね」
「…あぁヒサヤなのヨ。おつかれ」
『楽園』本部の休憩室。
基本は地方にいるし、たまに島にいても夜は遊びに行くことが多いから滅多に訪れないそこで、オレサマは1人落ち込んでいた。
そんなオレサマを気遣うなんて事は勿論ヒサヤに限ってあり得ず、にやにやしながら目の前の椅子を引いて腰かける。
完全に人の様を面白がってるのヨ。
「何々、どうしたのさ。女にでもフラれた?」
「ヒサヤじゃないんだからそれはないのヨ」
「はぁ?俺別にフラれたりしてないし」
「そういう遊びに行く度にほっぺたに紅葉くっつけてくるクセによく言うのヨ」
ヒサヤは顔は良いものの、男としては完全に事故物件である。
まずもって相手の顔を認識していないのは勿論、相手を楽しませるなんて考えもしない。
ついでに言えば本人も楽しいわけじゃなく、ただの作業と言うのだから目も当てられない。
で、それを悪びれもなく…ヒサヤ自身全く悪いと思っていないけど、相手にペロッと言うものだから、毎回平手打ち食らって帰ってくる。
仲間内なら周知の事実ではあるけど、コイツ人間の心が死にすぎなのヨ。
「はー…うっざ。勝手にヒスってくるのが悪いでしょ。つーかさ、毎回打ってきた奴殺さないであげる俺ってば超良い子じゃん」
「まぁヒサヤにしては偉いのヨ」
「でっしょ?」
当たり前の事だと言いたいが、ヒサヤ相手に一般常識なんて無意味ってことくらい短くない付き合いでよくわかってる。
取り敢えず褒めておけば機嫌は損ねないのヨ。
「君もさ、よく相手出来るよね。能力者ならまだしも、一般人の女とかへのへのもへじじゃん」
「オレサマはメスでありさえすれば受け入れるのヨ。"女性には常に敬意をはらい、優しく接するべし"なのヨ」
「はー…面倒くさ。イナリはさ、相変わらず"おじじ"信者だね」
「当然。おじじの言う事は絶対なのヨ」
オレサマだってそりゃ好き嫌いはあるし、面倒だと思う相手も勿論いる。
けど、オレサマを拾ってくれたおじじが大切に接しろと言うのならそうするまでなのヨ。
おじじが間違ってたことはないのだから。
「あー…ハイハイ。んで?本当のとこは何に悩んでんのさ」
ちぇ、忘れてはくれなかったのヨ。
任務内容は平然と忘れたりするクセに、こういう時だけはしっかり覚えてるのムカつく。
オレサマはため息をついて視線を宙に投げた。
「…あの子を、シオリを守れなかったのヨ」
「…は?」
滅多に聞かないレベルのド低音に驚く暇もなく、ミシリとオレサマの体に強烈な重力がかかる。
座っている椅子の足が僅かにリノリウムの床を陥没させた。
殺すつもりは微塵もない、たかが脅しなのはわかるけど…それにしたって容赦ないのヨ。
「何?俺何も聞いてないんだけどさ、アイツに怪我でもさせた?」
「ち、違うのヨ。オレサマの言い方が悪かった。そういう、身体的なところは無傷なのヨ!」
コイツが、よりによってヒサヤが怒るなんて思わなかった。
確かにわざわざオレサマを呼び寄せて護衛を頼んだのはヒサヤだったけど…なんか違和感があるのヨ。
ハルキを助けた恩返しとは言っていたけど…
「…ほーん?じゃあ何?」
「実は…」
オレサマは浮かんだ疑問を振り払いながら、今日の出来事を簡単に説明していく。
長々やると飽きて機嫌悪くなるからホント簡潔に。
イノリを見て取り乱した事、オレサマの声すら届かず何も出来ずに狼狽えた事、ニナとイタルが来て落ち着いた事…
「なんだよ…またか。はー…面倒くさ」
「守ってやるなんて大口叩いといて、オレサマ…情けないオスなのヨ」
あんなに怯えた顔をする子をオレサマは初めて見た。
任務の際に運悪く怪異に遭遇した人間を見たことは度々ある。
でも、そんな奴らでさえあんな顔はしないのヨ。
だって、奴らは助けを求められる。
助けてと叫べるだけの希望を、高々爪の先程度でも持っているのだ。
でもシオリは…あの虚空を見つめていた瞳にはただ一欠片の希望もなかったのヨ。ぽっかり開いた深淵だった。
そりゃそうだ。シオリが見ているのは、恐らく己の死。願ったところで覆らない"記録"なのだから。
「でもさ、ソレを無くしたいならマジで監禁するしかなくない?誰にも会わないように」
「うぐぐ…でもシオリ、寂しいって言ってたのヨ」
「はー…面倒くさ」
「ううぅ…オレサマ…どうすれば良いのヨ」
我ながら珍しく自身喪失気味なのヨ。
そもそも初日に"アレ"を見てしまっているから接するだけでも気を遣うし戸惑いだらけなのに…
こんなに難しいメスは初めてなのヨ。
と、そんな悶々としているオレサマを鼻で笑い、ヒサヤはあっけらかんと口を開く。
「別に放っといていいんじゃないの」
「放っといたらシオリは壊れちゃうのヨ!」
「取り敢えずさ、イナリにお願いしたのは身辺警護なわけ。心は…アイツ自身の問題なんだよ」
ひたり、と静かな目が向けられる。
ヒサヤがこんな真面目な色を乗せるなんて、明日も雨に違いないのヨ。
天気予報は当たりそうだ。
「栞里はさ、確かに弱っちいけど…それでも、七尾センパイに向き合ってみせた。あー…だから、大丈夫だと思うわけ」
ヒサヤの言葉に、凛として言い放ったシオリの姿を思い出してハッとする。
〈ここは守られたら困るかな。私は…乗り越えたいんだから〉
弱い、と思っていた。
成る程確かに力は弱いだろう。
けど、本当に弱い子が…あんな顔出来るのだろうか。
オレサマは色んなメスを見てきたけど、あんな…己ごと焼き付くさんばかりの業火を静かに湛えた瞳は見たことないのヨ。
「ま、どうしてもヤバくなったらさ、くま子達みたいに呼び掛けてやれば?現実は"こっち"だって。それで十分っしょ」
「…そうだね。そうさせてもらうのヨ」
今日はオレサマの声は届かなかった。
けれど、いつかはニナとイタルのように現実として根付いてみせるのヨ。
うん。よし。やる気出た。
「あ、そうだイナリ。昨日の報告書さ、代わりにやってくんない?」
どうやらヒサヤの中では話が終わったらしく、ころっとまた別の話題に変わる。
「って、昨日のヒサヤの仕事の報告書なんてオレサマにわかるわけないのヨ!!」
「内容は、あー…なんだっけ。短い赤髪で胸のデカイ『転移』の…」
「ユリちゃんなのヨ」
「なんですぐ出てくんのさ、こっわ。取り敢えずソイツに聞いて。俺眠いから寝る。じゃあねー」
こっちの了解も得ずに、自己完結してホントに大あくびしながら去っていく同期に呆れて肩を落とす。
いつもの事ながら滅茶苦茶な奴なのヨ。
取り敢えずユリちゃんにアポを取れば、すぐに来たオーケーの返事とついでに来た御誘いに席を立った。
それにしても…
「シオリの話題があんなに続くなんて、思わなかったのヨ」
絶対に飽きた、興味ない、で途中終了すると思っていたのに。
もしやヒサヤの奴、オレサマ達が思う以上にシオリの事を気にしてるんじゃないだろうか。
あのヒサヤが怒った瞬間…てっきり自分が依頼した仕事をフイにされたと勘違いされて機嫌を損ねたのだと思っていた。
でも、もしかしたら…いや、そんなの天変地異過ぎるし、仮にそうならシオリが可哀想すぎるのヨ。
玩具か、観察対象か、ペットか…どんな方向であれ、アレに目をつけられるとか同期から見ても最低最悪だもの。
「アイツから守るのは…オレサマでも無理なのヨ」




