指はやるべきことの全てを知っていた
私は見間違いかと思いながらも、再び目を凝らす。するとまたもや震えた。それだけではない。その震えの度に徐々に体が大きくなっている。
「どうだ……佐々野、奴はまだ生きてるのか」
坂下くんが尋ねてくる。私は首を振りながら、曖昧に答えるしかなかった。
「よくわかんない。ぐったりはしてるけど、でもなんだか少しずつ大きくなっているような」
「大きく……? 何がだ?」
「黒蛇の体が」
私はまた視線を戻す。その間にもさらに大きくなっていた。まるで風船に空気が吹き込まれていくかのように、全体的にもあもあと膨らんでいくのだ。
しかもそれは際限を知らない。もはや体の一部が一階の屋根の高さを越えていた。道路と家の庭とを隔てる壁を、その膨張の圧力でぺしゃんこにしていく。
よく見ると、周囲には人だかりができていた。佐々野宅の塀が壊れていく様を、屋根がすでにぶっ飛んでしまっている有様を、遠巻きに眺めている。
しかし、やはり普通の人たちにはあの黒蛇が見えていないらしい。彼らには不思議そうな表情はあれど、恐怖するような表情はなかった。なにが起こっているんだと茫然と見ているしかないらしい。
今ここでもっとも確かな恐怖を感じているのは、私だけだろう。坂下くんにもそれが伝わるのは時間の問題だろうが。
私はとりあえず、『遊楽』を手にする。しかしこれは一体どうしたものか。
このまま奴を放置しておけば、まず間違いなく私の家族が襲われ、最悪近所の人たちにも被害が出るだろう。それを防ぐ最善の方法は、奴を倒してしまうことだ。
しかしどうしろと。私がこの『遊楽』でできるのは、せいぜい羽を生やして飛ぶことくらい。攻撃手段は一つとしてない。
なにか、なにかないのか。やつを倒す方法が。『諸行無常』はもう木端微塵だ。頼れるのはこの『遊楽』だけ。
きっとサタケさんなら、この笛でどうとでもしてしまうのだろう。
「サタケさん……」
私は無力だ。ずっとわかっていた。
これまで幾度となく助けられて生きてきた。星の数ほど失敗を繰り返し、人に迷惑をかけ、同じ数だけ謝ってこれまで生きてきた。
だから、せめてそれに報いるだけの努力を続けようと思った。
でもその気持ちだけではダメらしい。結局、私に人を助ける力なんてないんだ。
私には……
「佐々野! 諦めるな、何でもいいから童謡を奏でて見ろ、なにか起こるかもしれん!」
坂下くんが叫んでいる。確かにそうかもしれない。
「でも、何が起こるかわからないなんて、そんな危険な……」
「もうそんなこと言っている場合じゃないだろう! 何か、お前の願いを叶えてくれるような、そんな歌を吹くんだ!」
めちゃくちゃだ。言うのは簡単だが、そんなものがすぐに思いつくわけがない。
「真のヒーローなら、ここで思いつくはずなんだ! 俺にそれを見せて見ろ! 佐々野沙良!」
――――あ。
あった。
ついに見つけた。
私は、それにぴったりの曲を知っていたはずだった。
ずっとずっと小さい頃から、その歌を知っていたはずだった。
私の誕生日の日に(七月七日)巷に流れるこの曲を。
お母さんは、これは沙良の曲だよと昔から言ってくれていた。
苦手なリコーダーも、この曲だけは必死にマスターしたのだ。
私は歌口に口を添える。指はやるべきことの全てを知っていた。私は目を閉じ、息を吹き込むだけでいい。心を落ち着け、それを奏でる。
ささの葉さらさら
のきばにゆれる
お星さまきらきら
きんぎん砂子
五しきのたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる
これでいいのかなんてわからない。でも、もうこれしか思いつかない。この曲に私の願いを乗せるしかない。ありったけの思いを込めて。
「サタケさん……もう一度だけ、助けてください」
瞬間、『遊楽』に目も眩むような光が灯り、そこから稲妻のような一閃の光が空へ向かって飛び立った。
そして静寂。私は祈るようにそのときを待っていた。
――もうこれでだめなら……私は。
真っ先に反応したのは『遊楽』だった。主人の帰還を喜ぶように、再び煌々(こうこう)と光り出したのだ。
次の瞬間、私の頭の少し上の辺りに、次元を裂いて光の卵みたいなものが現れた。幾重もの光のベールを帯び、それがやがてはじけ飛んで中身が露わになる。
一匹の黒猫が、その空間に取り残されていた。きょとんとしたサタケさんと目と目があった数瞬後、その真っ黒な体は重力に従って私の足元にすとんと落ちてきた。




