私は私のことだけで精いっぱい
私は震えそうな声で言った。
「家族の命って……どうしてそういう話になるんですか。未帆たちは関係ないでしょう」
「ああそうだ。関係なかったんだ。だが貴様自らこうして巻き込んでしまった。そう、例えば」
坂下――中身黒蛇の少年が、『諸行無常』に指をあてる。
「『遊楽』を渡せ。さもないと、」
そしてかき鳴らす。傍にあった瓦の欠片がふわりと浮き上がり、それが飛んでくる。
――な……⁉
しかし、それは私を狙ってはいなかった。
一直線に飛ぶそれは明らかに私を目指してはおらず、そのやや後方。
未帆のいるところへ。
「こうなるぞ?」
「ちょ……」
私の頭上を恐ろしいスピードで瓦が飛んで行った。風圧で髪がなびく。そのあまりの速度に血の気が引いた。
慌てて振り返ると、未帆――――ではなく。
お父さんが背中から血を流していた。とっさに未帆を庇って飛び出したらしい。幸いかすり傷だが、その傷も痛々しい。
「お父さん!」
私は目に涙を浮かべながら駆け寄った。普段バカなことばかり言ってるけれど、家の中ではだらしないカッコばかりしてるけれど、それでも大事なお父さんだ。今みたいに未帆のためになりふり構わず飛び出して助けてくれるような、自慢のかっこいいお父さんだ。
そのお父さんが傷つくのは、自分が怪我するよりも痛い。
「あげるから……」
私は掻き消えてしまいそうな声で呟くのが精いっぱいだった。
もう限界だ。
こんなもののために家族を巻き込んでしまうのはバカげている。
もうここが精一杯。
もう十分に頑張ったはずだ。
サタケさんのことは助けたいけれど、家族には代えられない。
「笛はあげるから、もう私の家族になにもしないで」
私は立ち上がり、坂下の方へと歩いて行く。右手には、きつく握りしめられた『遊楽』がある。
これを渡せば、全て解決だ。もう誰も傷つかないで済む。三春と佳香にはちゃんと謝って、それからすぐに日誌の修正を再開しなければならない。でもそんなもの、取るに足らないことだ。その先にはきっと楽しいことが待っているはずだから。これで嫌なことは、全ておしまい。
――でも沙良ちゃんは、そんなみんなのことが好きなんだろう? だからこそそんな風に不満が溜まってしまうのだろう?
そもそも私は被害者だ。サタケさんの方が女湯のぞきなんてくだらないことをして、天上界から追放されて、あんな子猫にされて、あまつさえ私みたいな無関係な人間を巻き込んで、地獄めぐりなんてさせて、果てには『遊楽』(こんなもの)を私に押し付けて。やりたい放題だ。
――ではさっきの口上、みなの前でぶちまけてやれ。沙良ちゃんはいい子だ。きっとみんな受け入れてくれるさ。
私が気にする道理なんてない。見捨てていいんだ。そもそも神様なら、自分の身くらいどうとでもするだろう。私の知ったことじゃない。もううんざりだ。私は私のことだけで精いっぱいなんだ。
――本当に悪かった。結局僕は君に迷惑をかけただけだったな。こんなものじゃ罪滅ぼしにもならんかもしれんが、これで君は元の世界に戻れる。
サタケさんのことなんかすぐに忘れてやる。私だって忙しいのだ。『よろず部』部長の役目もあるし、来年は受験生だから勉強もしなきゃだし、恋だってしたい。いつまでもあんな変態猫のことを気に病んでいる場合ではないのだ。あんなののために青春を台無しにされてたまるか。私はもっと自分のために……
――君はもっとわがままに生きてよいと思うぞ。
わかってる。だから私は……
――しっかりな。幸運を祈ってる。
…………。
「どうした。早くよこせ」
坂下が苛立たしげな口調で言った。返すと言いながら、いつまで経ってもそれを差し出さない私に腹を立てている様子だ。
早くしないと、またしても先ほどのような攻撃を仕掛けてくることだろう。わかってる。わかってるんだ。でもこの手は頑として動こうとしない。
「坂下くん」
私はようやく、その一言を紡ぎだした。