緊張の一瞬だ。佳香の目から光が失われた
出たのはタイミングよくお母さんである。
『沙良? あんたまだ帰らないの?』
「あ、そのことなんだけど」
かくかく、しかじか。
『三春ちゃんと佳香ちゃんが? 別にいいわよ。今日多めに作ったし。布団も多分足りるでしょ』
「ほんとに⁉ ありがと! じゃあ今から帰るから」
『ほいほーい。気をつけてね』
そして電話を切り、私は三春と佳香を振り返った。
「大丈夫だって」
「よっしゃ!」
「ほんとにいいの? そりゃ助かるんだけどさ」
無邪気に喜ぶ佳香とは対照的に、三春は少し申し訳なさそうだ。
私は手をぷらぷら振りつつ、笑って答える。
「いいよ。もとはと言えば私が悪いんだし。お母さんもお父さんも人が来るのは好きだから」
「まあ、沙良がそこまで言ってくれるなら、お言葉に甘えさせてもらうか……」
三春は観念したように苦笑いを浮かべた。
「そうと決まれば早く行こうぜ! 腹減って死にそうだってばよ!」
「うん、じゃあ鍵を返しに……あ、それと一応確認しとくけど」
「え、何?」
鞄を肩にかけ、部室の扉に向かおうとした佳香が振り返る。私は頬をぽりぽり掻きながら、引きつった笑いで恐る恐る尋ねた。
「今日のうちの晩御飯、豆腐ハンバーグらしいんだけど、だいじょぶ?」
時が止まる。
緊張の一瞬だ。佳香の目から光が失われた。
かつて人は数えきれぬほどの論争を繰り広げてきた。幾度もの進化、工業的経済的発展を遂げる過程の中に、星の数ほどの対話と対立が混在したことだろう。
果たして死後の世界は存在するのか、宇宙人は我々以外にも存在するのか、人はなんのために生まれて来るのか、そしてどこへ消えていくのか。
そんないくつもの論争の中に、きっとこんなものもあったことだろう。
――果たして豆腐ハンバーグは、ハンバーグと言えるのか。
ある人はこんなことをいった。
ハンバーグとは一つの調理形態を指すわけだから、たとえ具材が肉でなくとも、それはハンバーグと言えるのではないかと。
しかし片や、こんなのことをいう人がいた。
夫に、『今日の晩御飯はハンバーグよ』と言った日の夕餉のこと、自分が豆腐ハンバーグを出すと、夫に異常なほどにブチ切れられてしまったと。
ハンバーグと豆腐ハンバーグでは、まるで味が違う。風味も、食感も違う。もしレストランでハンバーグを注文して、それが豆腐ハンバーグだったら、客は絶対に納得しない。お前がやったのはそういうことだ。
どちらにも一理ある。恐らくは視点の違いなのだろう。調理する側からしたら、豆腐ハンバーグは確かにハンバーグなのかもしれない。
しかし食べる側からしたら、何を置いても大事なのは味だ。うんこ味のカレーより、カレー味のうんこなのだ。もちろんそれは極論である。豆腐は豆腐で素晴らしい食材であるのだから。個人的に湯豆腐なんか最高だ。
――でもー、そのー、なんていうかなぁ~、なんでハンバーグにしちゃうかなぁ~。ヘルシーだってのはわかるけど、結局はどのみちタンパク質なわけじゃない? ハンバーグは肉で行こうよ。なんか乗り切れないじゃない。動物園に行く予定だったのに植物園に連れて行かれちゃった気分だよ。
まあ、何事にも事情はあるのだ。うちのハンバーグが豆腐なのは、最近仕事場の定期検診でメタボ診断されてしまった父を慮ってのことである。そろそろ本気で生活を見直さないとヤバイ段階に入っているらしい。
しかしそんな事情、佳香には関係あるまい。
根はいい子だが、それでもどちらかと言えばわがまま属性の高い彼女のことだ。そんな彼女が、先ほどから食べたい食べたいと声高に叫んでいるハンバーグが、豆腐ハンバーグにランクダウンしてしまうことを甘んじて受け入れてくれるだろうか。
「豆腐ハンバーグはハンバーグじゃないっ! ……と、言いたいとこだけど」
くわっ、と一瞬目を剥いた佳香だったが、すぐに何かを押し殺すように拳を握った。
「こっちはあくまでごちそうになる身……ぜいたくは言えないな。たとえ豆腐ハンバーグでも、ありがたく食べさせてもらう」
震える声で、佳香は言い切った。
「なん……だと……」
「まさか佳香の口からそんな言葉を聞けるとは……」
思わぬ反応に絶句する私と、静かに感心している三春である。しかしその反応に対しては佳香もイラっと来てしまったらしい。
「お前ら普通に失礼だな! 私のことバカにしてんのか⁉」
「そんなんじゃないって。素晴らしいことだよこれは。今夜はお赤飯だね!」
「それがバカにしてるっつってんだよ!」
抱き迎えるように両手を広げる私に、佳香は鋭いチョップを繰り出してきた。




