逃亡の先に展望は見えない
最初に感じたのは床の熱さだった。
いや、床ではない。もっとごつごつしていて――これは岩だ。
私は目を開け、周りを見渡す。
その様はまさに私の空想上にあった地獄そのものであった。
硫黄のような異臭漂うマグマの川があり、険峻豊かな切り立った岩山があり、幾千万の針が並ぶ見るも痛々しい大地があり、そこを歩かされる罪人たちがいた。
――やばい、どうしよ……地獄来ちゃった……
確かに私は虫を殺したこともあるし、友達にひどいことを言っちゃったこともあるし、お母さんの言いつけを破ったこともあるし、テストで赤点をとったこともいっぱいある。
でも、これはあんまりではないか。
あくまで自己評価だが、佐々野沙良はそれほど悪い人間ではないはずだ。学校をサボったりはしないし、『よろず部』なんてものに入って、自分なりに人の役に立とうと頑張ってもいる。その成果はともかく、姿勢としてはそう悪いものではないはずだ。
なのにどうして、そんな私がこんな目に遭わなきゃいけないというのか。
論じるまでもない。なんもかんもあの変態黒猫が悪いのだ。
「おい急げ! 逃げちまうぞ!」
どこかからドスの効いた声が飛んでくる。私は反射的に、その方向とは逆の方へとやおら駆け出した。
そして岩陰に隠れる。
果たして現れたのは、黄色いパンツを穿いた小鬼たちだ。私はここぞとばかりに「小鬼だ。小鬼がおる」と呟いてみる。
これでもう死んでも悔いは無い。いや、それはさすがにうそだけど。私ここから生きて帰れたら、きっと『ジブリ部』に遊びに行くんだ。そんでこの冒険譚を聞かせるんだ。猫の恩返しならぬ、仇返し。地獄はほんとにあったんだ。
「さっきの放送って三門様からだよな⁉」「ああ、御前からここに直接罪人を送り込んだって!」「その罪人はどこに行ったんだ! もしかして逃げたんじゃないのか⁉」「当直員は何してたんだよ⁉ 二人は常駐しているはずだろ⁉」「ちぃーッス」「あれぇ、先輩方どうしたんスか~?」「おいバイト! 当直の任務ほったらかしてどこ行ってたんだ⁉」「ぶっとばすぞ! まったくこれだからゆとりは!」
地獄でもバイトとかゆとりとかがあるらしい。ていうか地獄でのゆとりってなんだよ。ゆとっとる場合か。
――ともかくここは離れた方が良さそうね。
幸い小さくて黒い体だから、この薄暗い空間では見つかりにくそうだ。ここは慌てずゆっくりと、見つからないことを最優先に逃げることにする。忍び足で岩肌を歩き、しかしその片足が運悪く熱気の噴出孔に――
「にゃあっつああっ⁉」
我に返った頃には遅かった。「おい、今声がしたぞ!」「ぜったい逃がすな!」私はもう半泣きになりながら全力疾走を開始する。
後ろからは複数の小鬼たちが必死の形相で追いかけてくる。文字通り鬼の形相。上手いこと言っている場合ではない。実際怖くてたまらないのだ。
「やだぁ! こっちこないでぇ!」
「そうはいくかこの犯罪者!」「逃がしたら俺たちが罰受けるハメになんだよ!」
「誰か助けてよぉ! お母さん! 牧野せんぱい! みはるん! よっしーっ!」
「逃げればその分罪は重くなるぞ!」「今のうちに素直に捕まれば逃走のことは不問にする! 大人しくお縄につけ!」
「やだやだぜったいやだ! 私悪くないもん! 悪いのはサタケさんだもん!」
「そんな事情は知らん! 三門様の命は絶対だ!」
小鬼たちに泣き落としが効くことはなさそうだ。
こういうことには慣れてるのかもしれない。
絶望が支配する。
どのみちこのまま逃げたとて、いったいどうやってもとに世界に戻れようか。言ってみれば、私は檻の中で逃げ回っているようなものなのだ。この逃亡の先に展望は見えない。
「責任――とってよ……」
私の呟きは泣き声交じりだった。
このままなんて絶対嫌だ。罰を受けるのが嫌というのもあるが、それ以上にもとの世界に何としても戻りたい。