私の独白1
『一番になんてなるもんじゃない』
これ、親父の口癖です。小さい頃から、そう教え込まれてきました。
親父曰く「何事もトップになるとロクなことがない。プレッシャーが重荷になって崩れていく人間をたくさん見てきた。二番手ぐらいが丁度いいんだ。ちょっと上を見れば目の前には一番があるし、下の見晴らしは最高だ」だそうです。
今考えてみると、万年課長止まりで、部長へ昇格する事なくこの世を去った親父は、息子である私にせめてもの強がりを言いたかっただけだと思うんです。だって、この話をする時はいつも、低い声で自分にも言い聞かせるように話していたんですから。
でも、幼い頃の私は親父の言葉を鵜呑みにしていました。一家の大黒柱である親父の言う事は絶対でしたから、何の疑いもなく教訓として『二番手理論』を信じていたワケです。
小学生になると、足の一番早い男子が人気者でした。しかし、そういったものに疎い私は、なんのためらいもなく二番目に足の速い男子を演じていました。
元来、運動神経の良かった私は、取ろうと思えば一番なんて簡単に取れたのです。友達にも、私が本気を出していないだけだと急かされた事もありました。ですが、私はそんな事など気にも止めず、只々、親父の教訓を守り続けていたのです。
それが『おかしい』と気づいたのは、中学校に入ってからの事でした。
中学生になっても、やはり運動のできる男子は女子から人気がありました。かくいう私も、運動部で一番人気のあったテニス部に入り、個人戦の大会で決勝に進める程には上手くなっていたんです。でもそこで、事件が起こりました。
晴れの舞台である、決勝戦。点数は同点で、あと一点先にとった方の勝ちと言う場面です。私はいつも通り、親父の『二番手理論』に沿ってワザと相手のボールを空振りして負けるつもりでした。
相手がボールを打ち返し、さあ、大きく空振りをしてやるぞ、と意気込んでいた次の瞬間、よそ見をしてしまったんです。
なぜならば、当時気になっていたテニス部のマネージャーの女の子が、私の名前を叫んでいたからです。思わず、彼女の方を振り向いてしまった。
その反動で空振りするはずだったボールにラケットがあたり、相手のコートの方へと飛んでいきました。相手はそのボールを打ち返すことができず、ゲームセット。初めて、一番になった瞬間でした。
一瞬何が起こったのか分からずに、ぼーっと口を開けて夢でも見ているような感覚でしたが、勝者を称える歓声が私を現実に戻してくれました。
現実に戻ると、なぜか私の目からは大粒の涙が流れている事に気づいたんです。あれ、おかしいな、と涙を拭っても、全く止まる気配はありませんでした。
多分、私は心の奥底の方では、一番になりたいと思っていたのだと思います。テニスも初めから上手かったわけではないですし、それなりに仲間たちと練習を重ねてきました。そう言った思いが爆発して、泣いてしまったのだと思うんです。
初めての表彰台の景色は、とても見晴らしのいいものでした。親父の言っていた、『下の見晴らし』とはこの事なのかと、妙に納得してしまったのを覚えています。
しかし、親父と違うのは、上を見上げても綺麗な青空が広がっているだけ、と言う所です。親父はこの景色を見る事ができずに死んでいったのだと思うと、不憫でたまりませんでした。
表彰式が終わり、試合会場から学校へと戻ると、気になっていたマネージャーの子から人のいない所へ呼び出されました。こんな事は初めてだったので、とても緊張していたのを覚えています。
いざ、呼び出された場所に行ってみると、皆さんのご想像通り、告白でした。もちろん、その場で承諾して、晴れてお付き合いするようになりました。
一度、一番を取っただけで、私の周りの環境はぐるっと百八十度変わりました。校内ではヒーロー扱いです。彼女とも上手くいっていましたし、彼女がいるにもかかわらず、告白してくる女子もいました。
一番とはこんなにも素晴らしいものだと、気づいてしまったのです。
それからの私は、二番ではなく一番を目指す事が教訓になりました。あんなにも親父の教訓を信じていたのに、一度こんな事があったからと言って、生き方を変える事が出来るのかと思われるかもしれませんが、心配は無用です。
私には才能があったようなのです。
高校、大学と第一志望の所に首席で合格しました。部活動も手は抜かず、ずっとやり続けていたテニスでは、県大会だけでなく全国大会にまで出場し、プロへの誘いがくるまでになりました。しかし、変な所で真面目な私は、プロへの道を断り、大手と呼ばれる会社へ進む事に決め、内定をもらいました。
これも一番を目指した結果です。なんでも出来るような気がしていました。現になんでもできていたので。
何もかもが上手くいっていた、そんな時なんです、彼女と出会ってしまったのは......