1-2.思ってたのと違う
ゲートに飛び込んだ途端、真っ白な世界に飲み込まれ、そして、目の前に不思議な模様の描かれた布の壁が現れた。ゲートを抜けた先は室内につながっていたようだ。太陽の日差しが感じられない。左右上下を見渡すとモンゴルの遊牧民族の移動式住居のようになっていた。
いや、教科書でしか見たこと無いけど。でも、それ以上の説明ができない。しかし、移動式住居にしては、床は木の板でできているようで移動する気が無いように思える。高原に比べると室内は暗く、目が慣れるのに少し時間がかかるが人がいる気配はなく、一つとして物が置かれていないようだ。そして何よりうさぎがいなくなっている。前にいないということは、はぐれてしまったのか。
訳の分からない世界の中で取り残されたことを認識すると、急に不安感に襲われて鼓動が早まり、全身から血の気が引いていくことを感じる。そもそも、得体のしれないうさぎに安易についてきたのは判断ミスだっただろうか。
とりあえず戻るかと通過したゲートを見ようと振り返ると、目の前に大男がいた。両手を腰に当てて立っている。そして、背中には柄の長い斧を背負っているのが見える。あ、これはやばい、危険すぎるやつだ。
全体的に日焼けして真っ黒な肌。広い肩幅に筋肉の付いた太い腕、そして顔にひげを蓄えたその男はなぜか白い歯を見せて笑っている。獲物を追い詰めた狩人のような表情だろうか。目が覚めてから初めて感じる体の底からの恐怖心だった。全身が警告の鐘を鳴らし、もともと早かった鼓動が限界まで早まる。
咄嗟に逃げ場を探して周りを見渡すと、大男の向こうに入り口が見える。入り口と言っても布の切れ目だが。距離は10メートルというところか。
大男が一歩近づいてくる。逃げなければ……! そのタイミングで右に大きく足を踏み出す。円形の室内を、男と距離をとるために大きく壁に沿うように駆けていく。
「おい! 逃げるな!」
大男が大きな声をあげるが、それを無視して走る。あと5メートル。その時、布の切れ目から人が入ってくるのが見える。
「ジャック。出迎えのガイダンスは無事にすんだかしら……」
そう言いながら誰かが入ってくる。その目が猛スピードで近づいてくる俺を捉えた。
ぶつかる、と思ったのとその人が手の平をこちらに向けるタイミングが同時だった。俺は不思議な力に引かれて後ろに飛ばされる。空を舞いながらも俺の目は手をかざした女性の全身を捉えていた。黒く長いローブに木の杖、そしてブロンドの長い髪といういかにも魔女という出で立ちだった。顔を見るととても若く、気の強そうな顔立ちだった。
と、思うと同時に尻が床に打ち付けられた。全身に衝撃が走り、視界が飛ぶ。
そして、その女性が大男に向けて怒鳴りつける声が耳に入る。目を向けると端麗な顔立ちの女性の表情が怒りに歪んでいる。
「ジャック、この状況はどういうこと? 穏便に出迎えるようにマニュアルに書いてあるわよね」
「いや、ちゃんとやったぞ。こいつがチキンなだけだ!」
「そんなわけ無いでしょ。こんな状況になったのは久しぶりよ。そもそもケーカイカジョマホーが切れているじゃない」
マニュアル、ケーカイカジョマホー? 知っている言葉と意味の分からない言葉が飛び交っている。そんなやり取りを混乱しながら眺めていると大男が声を掛けてきた。
「よお、サトル! 俺がジャックだ」
思い出したように大男が大きな声で話しかけてくる。ジャックって、うさぎと同じ名前か。さっきから呼ばれているから、多少はその可能性も考えたけど、偶然同じ名前なだけだよな。こんなに姿が変わるなんてあり得ないだろ。
「可愛いうさぎのジャックさ。さっきのは仮の姿だ」
いや、本当にそうなんかい! 真っ白なうさぎから、真っ黒な大男への変身は反則じゃないだろうか。この男、髪の毛も黒いしな。
「とりあえず、ケーカイカジョマホーをかけなおすわ」
そう言って女性は杖を振る。何も起こった様子は無い。しかし、全身の警戒が解けていくのを感じる。頭に上った血が徐々に下がっていく感じだろうか。鼓動も平常速度に戻ってきている。さっきの高原での妙な安心感と同じ感覚だ。
「お、ナオ。サンキュー。俺、魔法はからっきしだからよ! まあ、大丈夫だと思ってたんだが、こいつがチキン過ぎたな。はっはっは」
さっきからチキン、チキンと俺のことだよな。一方的なチキン呼ばわりは癪に障るが、怒りの声をあげるのは我慢する。こういう時は黙っておくのが処世術だ。
「まあ、うさぎの姿はガイダンス用の姿だったわけだ。本当は虎や獅子の姿が良かったんだが、まあ、マニュアルに従ったまでさ」
そりゃ、虎が出たらパニックになるだろうけど、うさぎが大男になるよりはギャップが少ないと思う。そして、さっきのはガイダンスだったのか。
「ごめんなさいね。こいつ、根はいい奴なんだけど雑過ぎるのが玉に傷で。いや、玉というのもおこがましいぐらい雑な男だけどね。石に汚れってとこかしら?」
それじゃ、汚れた石ってことじゃ? ただ馬鹿にしたようなそんな言葉にジャックが反論しようとするとさっと女性が杖をかざす。ジャックの口は動いているがなぜか音が出てきていない。そのまま、パクパクと口だけ動かしている。
「こいつだと説明を短くしすぎるから、私が説明をするわ。まずは――」
さっと杖を振るとテーブルと椅子が二脚、床から生えるように現れた。テーブルには丁寧にクロスが敷かれている。何もないテントに急に生活感がでてきた。
「これでよしっと。さあ、席に掛けて、サトル。私はナオ。この地方でギルド長をやっている。私に分かることはしっかりと教えるから安心してちょうだい」
俺は言われる通りに椅子にかける。ギルド長という言葉は聞き慣れないが、恐らくこの町のリーダーのような存在だろう。彼女が向かいに座るとジャックが俺の椅子も出せと大振りのジェスチャーを始める。こいつはジェスチャーだけでもうるさい。
しかし、彼女が杖を少し動かして睨みつけると、諦めたようにテントの柱にもたれ掛かって腕を組む。最初ジャックを見たときは怖かったが、だんだん恐怖心が薄れてきたな。少なくともこの女性には敵わないようだ。
「まず、高原である程度は話を聞いたと思うから、その説明は飛ばすわ。君は前世で亡くなった後、第二階層と呼ばれるこの世界に移転してきた。そして、ここからは新しい説明になるけれど、この世界は、前世と同じ物理法則がある。基本的な社会のルールも同じ。盗みなどは違法ってことね。まあ、常識に沿って行動すれば大きな問題にはならないはずよ。ただし、一つだけ大きな違いがある。まあ、気づいたと思うけど魔法というものの存在ね」
やはりそうか。どうも自分はファンタジーの世界に転生してしまったらしい。魔法。さっきからテーブルを出したり、ジャックの口を閉じたりしている力のことだよね。薄々思っていたけど、現実にあると言われてもにわかには信じられない。ふと、ジャックの方を見ると何か話したそうな目でこちらをみている。が、少しすると諦めたように首を振る。
「そうよ。彼の口を閉じているのも私の魔法よ。ただし、恐らくあなたがイメージしている魔法とは少し毛色が違うと思う。あなたのイメージする魔法ってどんなものかしら?」
魔法のイメージ。魔法とは何かなんて考えたことがない。不思議な力程度に思っていたし、魔法を使えば何でもできるというイメージがある。ただ、ファンタジーで登場する魔法とゲームで出てくる魔法と、どちらも魔力のようなものを使って、火や氷を出したり、物を動かしたり、体力を回復させたり。色々なことができる。しかし、自分の知識の中で、一言で言うならこんなところか。
「魔力などを用いて、物理法則を無視した力を使うことでしょうか。」
色々な魔法があるが、いずれも常識ではありえないことを魔法で起こしている。それは物理法則を無視していると言い換えられると思い、そう説明する。
「とても的を射ていると思う。ただ、やはりというべきか、そのイメージはこの世界の魔法とは少し違うわ。まず、物理法則を無視しているという点が正解のようで若干違う。」
その後、彼女はこの世界における魔法というものを説明してくれた。彼女の説明は次のようなものだった。
まず、この世界全体は、前世の物理法則の範囲に収まっている。ただし、その物理法則をある程度は人の意のままにコントロールすることができる。例えば、何もないところから水を生み出すことはできないが、水に働く重力の向きをコントロールすることはできる。だから、膨大な水を用意した上で、その水に働く重力の向きをコントロールして操作すれば、大きな水の塊が敵を襲う魔法となる。この世界では、その力の作用する範囲を特定してコントロールすることができるから、水だけを動かすことができる、ということのようだ。
正直に言うとまだ理解が追い付いていないが、何もないところから物を出すことができない、という点が自分の持っているイメージと違うことは間違いない。
だとすると、先ほど机を出した魔法な何だろう?
その疑問をぶつけると彼女は 「このテントの床の材質を変形させたのよ」 と説明してくれた。なるほど、この建物の床は確かに木でできている。だけど水を操るという話とは少し違うような気がした。もう少し複雑なように思えたからだ。この辺りは、徐々に理解していくしかないだろう。
続けて、彼女は魔法の使用方法について説明する。基本的には起こしたいことを想像することで魔法を行使することができるようだが、その習得方法は大きく分けて2つある、と指を二つ立てながら言う。
ひとつは、化学、物理などの知識を身に着けて、その知識をもとに魔法を使用すること。
もうひとつは、感覚的に身に着けていくこと。イメージとしては自転車に乗るような感じ。
自転車を漕いでも倒れない法則を理解すれば、自転車を漕ぐロボットを作ることはできる。ただ、そんな理屈を理解していなくても、自転車を漕ぐことはできる。このようなイメージのようだ。
また、彼女曰く——
「ひとつめの方法が得意なのは理系の人が多いわね」
とのこと。確かに化学や物理の知識があれば、この世界ではスムーズに魔法を使うことができるのだろう。
「例えば、ジャックは魔法が苦手なのは、魔法の使用にある程度知性が必要というところにあるわね。この世界にも魔法書は存在するけれど、読めば魔法が自然と身につくものではないの。この世界の魔法書は、特定の魔法を使用するのに必要な知識をまとめたものだから、そもそも物理や数学、化学などのリテラシーがないと理解することすら難しいのよ」
なるほど。ある程度は知識が必要ということか。視界の端でジャックが不満そうな顔をしているのが分かる。この二人は性格が合わなそうだな。さしずめ、生徒会長と不良といったところだろうか。
「まあ、大きな違いといえばその点くらいね。他は、追々学んでいけば十分だと思う」
ジャックの説明とは違い、彼女は俺の理解を適宜確認しながら説明してくれた。そのお陰で、とても分かりやすいものだった。ただ、初めから気になっていたことを聞いてみる。
「あの、一つだけいいでしょうか?」
「もちろん。あ、そういえばこの世界では敬語は不要よ。丁寧に話す人も多いけれど、そもそも年齢という概念も曖昧だしね。あと、私のことはナオと呼んで」
「分かり……分かった、ナオ。その敬語も含めてだけど、俺がいた前世では国によってルールや言語や慣習が異なっていたはずなんだ。ベースは同じだとしてもそうした違いについてはどのように考えれば良いかな? まあ、言葉は通じているようだけれど」
「良い質問ね。私も理由や仕組みは知らないのだけれど、どうも転生者の常識は同じ国のもののようなの。例えば敬語なんかもそうね。だから、今あなたが持っている常識で行動すれば問題ないわ」
「なるほど。じゃあ、基本的には気にしないようにする」
「ええ。まあ、そもそも前の常識が通用しない世界だから、敬語とか細かい違いは些末なものと言ってしまうことも出来るわね。さて、他に質問がなければ、外の世界に出てみましょう。あと、今はわたしがかけている警戒解除魔法のおかげで不思議な安心感に包まれていると思うけど、外に出ると切れるから心構えはしておいてね。まあ、この世界でも警戒することは大事だから」
「了解。心して外に出ることにするよ」
どうも目覚めてからの不思議な安心感は警戒解除魔法というものによるらしい。仕組みは分からないが、さっきの話を踏まえると何らかの理屈があるに違いない。
「それでは、改めて、ようこそ第二階層へ」
テントの布の切れ間に片手を差し込み、分厚い布を上に持ち上げる。その下をすっと外に出ていく。再び暗所に慣れてしまった目に日差しが眩しいが、徐々に目がその光に慣れてくる。目の前には西洋風の町並みが広がる。建物は石のブロックを積み上げてつくられたもののようで、背の高い建物は無いようだ。道は舗装されているが、コンクリートではなく石畳が敷かれている。人々が町を行きかい、穏やかな中にも、活気ある雰囲気が伝わってくる。うん。前世でもこんな風景があったな。いわゆる中世ヨーロッパのようなイメージの町並みは、前世でも馴染みあるロールプレイングゲームのそれだった。