六
窓越しに鵜飼が座っているのが見える。笛吹は喫茶店を扉を開けた。
「早いな」笛吹は鵜飼の向かいに座りながら言った。鵜飼はすでにアイスコーヒーを飲んでいた。笛吹もアイスコーヒーを注文した。ついでに鵜飼はチーズケーキを追加した。
「やけに嬉しそうだな」鵜飼が腕組みをして言う。
「そりゃね。だってついに小説が完成したんだからね!」
「本当か!」鵜飼は前に乗り出した。「てっきりもう書いてないかと思ってたよ」
「なんで? 随分信用されてないみたいだな」
「いやそうじゃなくて。だって俺が勝手に作り上げた条件だって言っただろ? それを打ち明けたって言うのにまだ律儀に書いてるとは思わなかったね。俺だったらやめてる」
「でも結果的には良かったと思うな。これでサークルに戻ってまた執筆を続ける自信がついたしね。ところで来週の部会にその小説を携えて行ってもいいかな?」
「ああ、もちろん。みんな歓迎すると思うよ。それにしてもあれだけ書けなくて悩んでたのに急に書けるようになったのはなんでだ?」
「この一、二か月の間、小説を読みまくったんだ。それも古典的な名作に絞った上でね」笛吹はここ最近読んだ、誰もがタイトルくらいは知っているような作品を次から次へと挙げた。「今までこんな有名なのすら読んだことがなかったんだ」
「じゃあ以前サークルにいた頃はそんな状態で書いていたのか……。そう考えるとむしろよくあれだけ書けていたものだな……」
アイスコーヒーとチーズケーキが運ばれてきた。まだ二人ともあの話題に触れていなかった。お互いどちらが切り出すのかうかがっているようだった。
「なあ、七夜のことだけど。最近見かけないけど何してるの?」笛吹はあの雨の日に鵜飼が去った後、七夜が訪れたことは念のため言わないでおいた。
「そう、今日はそのことを話そうと思って誘ったんだ」鵜飼はそう言うと下を向いた。それからまた笛吹のほうを見た。
「なあ、信じてもらえないかもしれないけど。聞いてくれるか?」
「うむ」
「あの日以来何となく七夜に会いたくなかったから自分からあいつに関わろうとはしなかった。それで先週サークルの集まりがあって、七夜には会いたくないけど、それだけのために出ないってわけにも行かないから嫌々ながら行ったんだ。そしたらあいつのほうこそ来てなかったんだ。でもあいつはそんなことで休んだりするような気の弱い奴じゃない。で、部長に『七夜は休みですか?』って聞いたらね、なんて答えたと思う? 『七夜って誰?』こう言ったんだよ。びっくりした。『え、七夜ですよ。ほらあの一年生の』って言っても首を傾げてるんだ。それで俺はサークルの名簿を見せてもらって隈なく探したんだ。でもね、いないんだよ。で、部長に『七夜、やめたんですか?』って聞いたら、『だから七夜って誰だい? そんな人は元からいないよ』って言うんだ。他の部員も誰も七夜のことを覚えていないんだ。もう参ったね。信じられる? 俺とお前しか覚えていないんだよ。お前だけでも七夜を覚えていて本当に良かった」鵜飼はほとんど怒っているようにさえ見えた。彼はチーズケーキをフォークで荒っぽく切りながら言い放った。
「まったく粗末なシナリオだな!」
彼女は一体何だったのだろうと笛吹は思った。でも彼女が何であろうと少なくとも笛吹には大きなものを残していってくれた。七夜がいなかったら小説をまた書くようにはならなかったかもしれない。笛吹は言った。
「彼女は今もいるよ。きっと」