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 笛吹は執筆に夢中になっていた。鵜飼と七夜のこともさっぱり忘れてしまっていたのだ。夏季休暇は終わりに近づいていた。それはつまり締め切りが近づいていることも意味していた。

 この日昼間は晴れていたのだが、夕方になって大雨が降りだした。夕飯のために弁当を買ってあるから、もう外出する予定はない。笛吹は安心して執筆に励んだ。

 笛吹は雨の日が好きだった。もちろん雨に打たれるのは嫌いだ。彼の好きなのは雨の日に家の中にいることである。外で雨に降られている人々がいる一方で自分は家の壁に守られているという状況が何とも言えず心地よいのだ。雨の降る音によって他の音が遮られ、世界に自分ひとりになったように彼は感じた。

 彼の静かな世界を外界から打ち破る者があった。弁当を電子レンジで温めて夕飯を食べ始めようとしたその時、誰かがドアをノックしたのだ。開けてみるとそこには鵜飼がずぶ濡れで立っていた。雨で髪の毛が額にぴたりとくっ付き、目を隠していた。それでも暗い表情をしているのは伝わってきた。鵜飼はいつまでも黙って突っ立っているので、笛吹は仕方なく部屋に入れた。

 鵜飼は壁際で胡坐をかいて下を向いていた。笛吹の目には彼の視界の端のほうで縮こまっているように映った。なんだか一回り小さくなってしまったようだ。

「一体どうしたんだ? こんなに雨が降ってるというのに」

 彼は何も聞こえていないかのようにじっとしていた。笛吹のほうを見ようともしない。笛吹は鵜飼のことよりも弁当が冷めてしまわないかを気にしていた。笛吹はじれったくなって鵜飼には構わず食べ始めることにした。

 弁当を食べ終える頃になって鵜飼がぼそぼそと何かを行った。

「――すまない」

「え? 何が?」笛吹は顔をしかめた。

「俺はお前に打ち明けなけりゃならないことがあるんだ。どんなふうに俺を罵ったって構わない。でも最後まで一通り聞いてからにしてほしい」

「よくわからないけど、まあ聞こうか」

 漸く鵜飼は顔を上げた。しかし依然として部屋の隅っこに座ったままだった。

「どこから話せばいいだろう。俺は今混乱している。いや混乱じゃないな、緊張と言ったほうがいいかもしれない。まあいいや。順を追って話そう。俺はお前と七夜と三人で集まるようになってすぐに後悔し始めたんだ。何をってそれはお前に七夜を引き合わせたことだよ。俺はここに集まるようになってすぐに七夜を好きになってしまったんだ。もし七夜をここに連れてこなければ俺もお前も嫌な思いをせずに済んだかもしれない。でもそうなってしまったのだから仕方がない。お前がいるからと言って七夜と仲良くできないわけでもない。俺のほうが七夜といる時間が長いわけだしな。そんなわけでもう少し距離が縮まったら機を見計らって思いを告げようと悠長に構えていたんだ。そんな中、お前がサークルに戻りたいって言ってきたんだ。俺は一応部長に伝えはしたよ。きっと渋い顔をすると思ってたからね。でも実際には部長はお前が戻るのを歓迎していた。それで俺は咄嗟に『ただ、戻ってくるのは夏休み明けだそうです』って言ったんだ。もし今戻ってこられたら俺の計画が台無しになるからね。計画っていうのは、まあ後で説明するけど。それで俺はお前に結果を報告するにあたって、サークルに戻る条件をでっち上げた。そんなもの本当はなかったんだ。これで少なくとも夏の間はお前がサークルに戻るのを妨げられた。で、次に月曜会を試験やら長期休暇やらを口実に休止にした。これでお前と七夜の接点は一つもなくなったというわけだ。そしてお前がサークルに戻ってくるまでに、つまり夏休みの間に七夜と付き合い始めてお前を出し抜こうっていう計画だったんだ。計画はほとんどうまくいったよ。でも一番重要な点を考慮し忘れてたよ。計画を進めることばかり考えてたもんでね。それはね、そもそも俺なんかが七夜と付き合えるわけがないってことだよ。当たり前なんだがな、何故かその点が頭から抜け落ちてたんだ。夢中になっててね。はあ、まったく。今日、告白したんだ。あいつが小説の構想を練るために公園に行くって言うから付いていったんだ。その時にね。でもやっぱり駄目だった。そのまま俺は一人で東京の街を歩いたんだ。途中で雨が降ってきた。それでも歩き続けた。暗渠の上の遊歩道、線路脇の路地、ひっそりとした商店街。橋も何度渡っただろうか。もう自分がどこにいるのかわからなくなった。流石に疲れが出始めて、雨で身体も冷えてきた。とにかく駅に辿りつかなければ。そうすれば何とでもなる。それで店があるほうへ歩いて行くことにしたんだ。普通、駅の周りには店が集まっているからね。そうして歩いているとやはり駅にぶつかったんだ。漸く電車に乗ってここまで来たんだよ。何でここに来たんだろう。考えるまでもなく向かっていたんだ。いやここに来る外なかったよ。歩いてる間中、ずっと反省していた。お前に謝りたかった。すまない……。何とでも罵ればいいさ」

 笛吹はたった今鵜飼が来るまで彼と七夜のことなんて少しも考えなかった。鵜飼の話はどこか別の世界の物語に聞こえた。彼はただ壁を見つめていた。鵜飼は笛吹が何も言わないのが逆に不安に感じたのか、沈黙を作らないようにと、また話し始めた。

「なあ、笛吹。これは教訓だよ。俺は七夜にいい奴だと思われたくって親切にお前のところに連れて行ったんだ。でもあいつはここに来るや否や俺のことなんか忘れてお前ばかり見てやがる。きっと俺があいつを笛吹に引き合わせてやったことなんてすっかり忘れてるだろうね。格好つけて親切にしたって数秒後には忘れられてるのさ。だからな、笛吹。いい奴なんて思われようとするなよ。誰も覚えてくれちゃいないんだからな」

「さっきからまるで僕のことを言っているみたいだ」笛吹が壁に向かって言った。

「どういうことだ?」鵜飼は笛吹のほうを見た。

「何から何まで全部一緒だ。僕は七夜のことが好きどうか自分でもわからないけど、でも君と七夜が帰り際並んで歩いているのを見て羨ましく思った。君と彼女の関係が気がかりだった。それで僕はサークルに戻ることにした。君には『これから書こうかと思ってる』なんて言ったけど、あの時点ではまったく書くつもりなんてなかったんだ。創作活動がしたいから戻りたかったんじゃない。僕はサークルを利用しようとしたんだよ。それに僕だって後悔している、いや後悔していたことがあった。七夜がここに来て僕が小説を書くまで見張っていると言い出したとき、君にも来てくれるように頼んだだろ? あんなことを言わなければよかった、ってね。全部君と同じだと思わないか? でも今となってはどうでもいい。僕はそんなことよりも大事なことを得られたからね」

 鵜飼が帰って一人になると再び彼の小さな世界が雨の中に展開された。さっきまで鵜飼がいたことなんてもうすっかり雨音にかき消されてしまった。彼はまた執筆に取り掛かった。雨はさらに強まっていた。雨が強まれば強まるほど彼は筆が乗っていった。

 鵜飼の訪問から二時間程後にまた彼の世界を掻き乱そうとする者があった。ドアがノックされる。今度は誰だ? また鵜飼だろうか。鵜飼でないとしたら彼女しかいない。笛吹は恐る恐るドアを開けた。そこには七夜がいた。彼女もずぶ濡れだった。彼は取り敢えず部屋に上げた。

 彼女は部屋の端のほうで脚を抱えるように座った。笛吹は何か声をかけるべきか迷ったが、考えるのが面倒になってやめた。暫く彼女の様子をうかがっていたが、口を開かないどころか、動きすら見受けられないので、彼はまた執筆に戻った。

 このとき笛吹はすぐそばに七夜がいるにもかかわらず小説を書くのに没頭していた。ふと背中に気配を感じた。するとまもなく七夜が後ろから腕を回して笛吹に抱き付いた。背中に雨の冷たさが伝わってくる。でも笛吹は冷静だった。驚くことに彼はこんな状況下で今書いている小説のことを考えていた。パソコンの画面を見つめながら次の文章はどんなふうにしようかなどと考えていたのだ。七夜もそのことを感じ取った。彼女はやがて身体をゆっくりと離した。

 去り際に七夜が言った。

「先輩、また小説書けるようになったんですね」

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