三
最初に七夜と鵜飼が笛吹の家を訪ねてからというもの、彼らは幾度となく集まった。とはいえ毎回不定期で集まっていたわけではない。笛吹は暇人だが、一応大学生なので講義に出席する。もちろんあんな怠惰な人間なので出ていないことも多いが、全てサボっているわけではない。七夜と鵜飼が好き勝手な時間にやって来るわけにはいかないのだ。言うまでもなく、七夜と鵜飼にもそれぞれの予定がある。そんなわけで三人で集まる日を毎週月曜日に固定した。鵜飼はこの集まりを勝手に「月曜会」と名付けていた。きっと漱石の木曜会にちなんだ命名だろう。
今日はその月曜会の日だ。これまでの数回の集まりで彼らが何をしていたかはいちいち説明するつもりはない。なぜなら一回目の集まりとほとんど一緒だからだ。大学の講義が終わって笛吹の家に集まる。笛吹はぼうっとしたり本を読んだり横になったりする。七夜は小説を書き、鵜飼は菓子を食べながら誰を相手にするというわけでもなくべらべらと話した。そして夜になると外で夕飯を食べてそのまま解散する。だいたいそんな感じだ。
帰り際に笛吹はいつも改札の中に二人が吸い込まれていくのを眺めていた。並んで歩く二人を何度も見ているうちに彼は寂しさと焦りに心を揺さぶられた。後ろ姿を追いかけながら彼らは今どんな表情をしているのかと考えた。鵜飼が何か軽薄なことを言い、それに対して七夜が冷ややかにあしらう。彼にはそれが微笑ましい光景に思えた。最初七夜の鵜飼に対する対応は純然たる軽蔑だと思っていた。けれどそこには親しみも含まれているのではないかと笛吹は深読みを始めた。考えてみれば笛吹は月曜会以外での七夜のことを全く知らなかった。しかし鵜飼はそれを知っている。同じサークルに所属しているし、笛吹と違って他の街から電車で通学しているから、月曜会の帰りも途中までは一緒なはずだ。いや僕にだって有利な点はある、と彼は自分を励まそうと努めた。七夜は作家としての笛吹を慕っているという点だ。しかし笛吹そのものを慕っているかは定かではない。結局そのことは彼を励ますに至らなかった。僕はどうしてサークルをやめてしまったのだろう。初めて七夜と会った日、なぜ鵜飼に「君も来てくれると助かるんだが」などを頼んでしまったのだろうか。笛吹は自ら不利になるようなことばかりしていることに気づき、悔恨の念を抱いた。それで笛吹は馬鹿らしくなってある日ふと駅まで見送るのをやめてしまった。彼は洋食屋の前で二人と別れた。
翌日目が覚めたときには彼の決心は付いていた。サークルに戻ろう。僕の見ていないところで鵜飼と七夜がどんな会話や行動をしているのか気になって仕方なかったのだ。しかしどうやってサークルに戻るか彼にも見当がつかなかった。彼はサークルをやめてから部員に会いたくなかったので、部室の近くをわざわざ避けて移動していたほどだった。そんな彼が部室につかつかと入っていって、サークルに戻りたいのですが、などと言えるわけがなかった。それに仮に言えたとしても受け入れてくれるだろうか? そもそも創作ができなくなったからやめたのだ。創作もできないのに今更「再入部します」なんて認められるとは思えなかった。文学研究会は決して厳しいサークルではないが、とにかく創作活動をするというのは必須条件だった。小説を書かなくなった笛吹の戻るべき場所ではないのだ。
今笛吹とサークルを繋いでいるのは鵜飼と七夜だけだった。鵜飼に頼んでみるか。鵜飼なら上手くやってくれそうような気がした。その日笛吹は鵜飼と同じ講義を履修していた。その時に話してみよう。そう決心すると支度をしていつもより早めに家を出発した。
鵜飼は講義の始まる直前にやってきた。笛吹は落ち着いて話がしたかったので講義の終わった後に回すことにした。鵜飼は笛吹の隣に座って何やら話しかけてきたが、笛吹は全く聞いていなかった。ただこの計画が本当に上手くいくのか、それだけを考えていた。
講義が終わると早速切り出した。
「なあ、ちょっと頼みがあるんだ」
「ほう? 何だい?」
「いや実はサークルに戻りたいって思ってて」
鵜飼は思ってもみない笛吹の言葉に驚き、その言葉の意味するところを考えた。
「ということはまた小説を書き始めたのか?」
そう、本来なら一度文学研究会をやめた者がまたそこに戻る理由は小説を書くのを再開した以外にはあってはならない。なぜってそこは創作をする場所だからだ。しかし笛吹は今それ以外の理由でサークルに戻ろうとしているのだ。だから笛吹は仕方なくこう答えた。
「まだだけど。これから書こうかと思ってる」
「そうか、それは良かった。そもそも月曜会はお前がまた小説を書き始めるっていうのが目的で始まったんだしな」
「それでそのことを部長に伝えてもらえないかな」
「うん、わかった。明日部会があるからそのときに伝えとくよ」
「ありがとう」
笛吹はそのあとに講義がもう一コマあった。鵜飼はもう帰るというので、教室を出て別れた。
二日後に彼らは喫茶店で会った。ここはおそらく以前鵜飼がよく訪れていると言っていた店だろう。もちろん鵜飼がこの店に連れてきたのだった。店内は少し薄暗いが、決して怪しさはなく、むしろ落ち着くぐらいだった。いかにも純喫茶といった雰囲気である。彼らは窓際のテーブルに座った。二人ともアメリカンを注文した。
「どうだった?」
「うん、昨日部長に話してきたんだがね――」
「やっぱり駄目だった?」笛吹が自信なさげにしかし興奮気味に言った。
「いや駄目ってことはないけどね。条件があるんだ。まあ当然といえば当然か。そんな簡単に出たり入ったりされたら困るしね」
「どんな条件?」
「これもまた当たり前のようなことだが、条件は小説を書くこと。お前も知っての通り、質や量は問わないよ。そういうサークルだからね。でも期限はある。学園祭に向けて部誌を作る予定なんだが、その締め切りが夏休み明け最初の部会なんだ。そこが期限。学祭の部誌で笛吹先生、堂々復活ってわけだ」
「なるほど……」笛吹は窓ガラスに視線を向けてそこにうっすらと映る自分を睨みつけた。それからコーヒーが運ばれてくるのが映った。彼はそれで視線をテーブルに戻した。そしてコーヒーを一口飲んだ。ソーサーに戻してからもなお彼はコーヒーカップに目を落としていた。小説を書かずに戻れるほど甘くはなかったか。彼はそう思って唇をかんだが、すぐにやめた。彼は二日前に「これから書こうかと思ってる」なんて言ってしまったのだからここで苦い表情をするわけにはいかない。彼がここで与えられている選択肢は戻るのを諦めるか、肯くかのいずれかだった。
「そうか……。わかった。やってみるよ」彼はまたコーヒーに口を付けた。
笛吹は家に帰っていつもの場所に座り、腕組みをした。もう後戻りはできない。書くしかない。もう少しで試験が始まる。それが終われば夏季休暇だ。その期間を利用して書くことになるのだろう。しかし何を書く? まったく思いつかなかった。
とはいえ何としても書かなければならない。書かなければサークルに戻れない。今この瞬間だって鵜飼と七夜の関係が気が気ではなかった。彼は勢いよく立ち上がった。
その翌週の月曜会で鵜飼が唐突に言い出した。
「知っての通りもうすぐ試験が始まる。それが終わると長期休暇に入る。それに伴って月曜会を一旦休止しようと思うのだが、異論はないか?」
「まあ確かにそうですね。先生も迷惑だろうし……」
「笛吹はどうだ?」
「あ、ああ、うん。それでいいんじゃないかな」彼は咄嗟にそう答えてしまったが、本当は試験や休暇なんてどうでもよかった。そんなものには構わず、ずっとこの集まりを続けていたかった。しかし七夜も賛成しているし、まあいいかと彼は思った。それに笛吹は小説を休暇明けまでに完成させなければならなかった。再開するまでは執筆に専念して何もかも忘れてしまえばいいと自身に言い聞かせた。しかし結局この日が最後の月曜会となってしまった。