二
もはや命令と変わりない七夜の提案に驚きはしたものの、頭のどこかしらには、冗談に違いないという思いがちらついていた。だから彼は安心しきっていたのだ。しかし彼の安息は長くは続かなかった。七夜はあの発言通り笛吹の家にやってきた。それは翌日の午後三時ごろのことだった。例の提案が冗談ではなかったことと、それがあまりにも早く実行されたことに笛吹は驚き、そして動揺した。まともに心の準備もしていないわけだから、七夜が部屋に入ってきてまた前日のように彼の向かい側に座り込んでしまうと、彼はいよいよ落ち着きをなくして立ったり座ったり、窓の外の曇り空を意味もなく眺めたりした。その間七夜は笛吹のことをじっと観察していて、それが余計に彼をそわそわさせた。
幸い十分ほど経ってから鵜飼が来て、ようやく会話が始まった。
「やあ、笛吹。お、やっぱり来ていたか、君」と言いつつも彼も少々びっくりしたようで、七夜を見下ろしながらやや後ろに身を引いた。彼は講義が終わってから部室に七夜がいないことを確認してからここに来たようだ。七夜もきっと講義が終わるや否や笛吹のもとに向かったのであろう。
「君のことだからもう次の日には事を起こしているにちがいないと思ったよ」
「『君のことだから』って私のことをよく知っているかのような口ぶりですね。先輩とは碌に話したことがないんですけど」
「随分と当たりが強いな……。うん、確かに君のことはそんなに知らないけどね、まさにそういう話し方とかから推測したんだよ。まあでもこれから仲良くしようじゃないか」
「先輩なんかどうでもいいです。笛吹先生、私もここで小説を書きます。他人が書いているのを見て創作意欲が湧いてくるかもしれませんよ」七夜は自分のパソコンを机の上に置いて起動させた。鵜飼はコンビニの袋からポテトチップスを取り出して袋を開け、笛吹と七夜に勧めた。
「いらない」笛吹はぼそっと呟いて片手を振った。
「結構です」七夜は端から無関心という感じで鵜飼のほうを見向きもしない。
鵜飼は「そうかい」と言って、一人でぼりぼり食べ始めた。笛吹はといえばその間ずっと机の上に両腕をのせて下ばかり見ていた。七夜の顔をじっくりと眺めてみたい気もするが、七夜ばかり見ていたら彼女自身はもちろん、鵜飼にも変に思われるかもしれない。何もしないでいるのも退屈だったので彼は読書を始めた。
「何読んでるんだい?」鵜飼が訊ねる。笛吹は表紙を鵜飼のほうに向けた。それは商店街活性化についての本だった。
「商店街? なんでそんなの読んでるんだ?」
「変かな?」
「いや、変って訳じゃないけど、どうしてそれを読む必要があるのかなって? だって君、文学部だろ?」
突然だが、笛吹は完璧主義者である。完璧主義者というのは「完璧にできる人」ではない。飽くまでも「完璧にしようとしている人」に過ぎない。その実体は「完璧にしようとするが、思い描いたようにはできず、その結果自己嫌悪に陥っている人」なのだ。一般的な解釈とは少し違うかもしれないが、笛吹は完璧主義者をそう定義していた。彼は独自のシステムの下に行動を決定している。例えば図書館で本を借りるとする。まず彼は作者名順に並んでいるところの「あ」から順に本を借りていくのだ! そんなばかげた話があるか、なんて叫ばないでくれたまえ。もちろんこれはたとえ話だが、彼なら十分やりかねないのだ。だがまともな人の指摘通り、ばかげた話なのもまた事実だ。なぜって無理があるからだ。言うまでもなく完璧主義者の彼もそれには気づいてはいるのだが、つい端から順に、とかいったシステムに従って物事を進めたくなってしまうのだ。そんなとき彼は体中が痒くなったような感覚にとらわれるのである。しかしいつか限界は来る。何冊か借りたところで、彼もそのシステムの欠陥に気づいてしまう。これではいつまで経っても自分の本当に読みたい本に辿りつけないではないか! 彼の方法は破綻し、立ち行かなくなってしまう。彼は周りの人が思わずびくっとするほど大きな溜め息をつきながらも、懲りずに次のシステムを考え出す。例えばこんな方法だ。本を読んでいると、その中に別の本のタイトルが出てきたりする。あるいは巻末にその本と同じ出版社の他の本のタイトルがずらりと並べられていたりする。それらを逐一書いていき、それを片っ端から読もうとするのだ! 今度もまた片っ端から! 彼は「片っ端から順に」が大好きなのだ。しかしこの方法もまた暫くすると行き詰る。書き連ねたタイトルの中には誰も読まない、役に立たない本も混ざっているだろうし、これではいつまで経っても一度は読むべき不朽の名作などにはたどり着けない。ああ、実に哀れな笛吹……。それでも、それでもなお彼らは次の方法を必死に編み出し、自らを縛ってしまうのだ。彼だって自分の読みたいものをシステムに従うことなく、直感で選びたいと思っているのだ。読書に限ったことではない。すべての行動をまともな人間と同じように「直感」に従って決めることができたならどんなに楽になれるだろうと思っているのだ。そう思いながらできないという板挟みがさらに彼を不幸にしている。
彼がもしこの性格によって生きにくいと感じているのであれば、直す努力はするべきだろう。もちろん簡単に直るものではないし、もしそうなら誰も苦しまないのだ。彼はこう考える。完璧主義が直るのはいいとして、もしそうなったらそれから先どうやって自分の行動を決定すればいいのだろうか、と。彼の視点に立てばもっともな心配事だろう。しかし理屈で考えないようになるのが目標ならば、そこに到達するのも理屈なしでなければならない。システムを捻り出そうとする願望を抑えて、自分の今一番したいことを見つけ出すのだ。頭の中にある溜池に手を突っ込み、その中を必死に探るのだ。腕にぶつかったものの中で「これだ!」と思えたものをすかさず引き上げればいいのである。しかし口で言うのは簡単だが、実際には難しいと見える。笛吹を観察していればそれがわかる。
笛吹が今読んでいる本もまさに今述べたように彼が頭の中で作り上げたシステムによって(その方法がどんなものなのかは彼しか知らないが)読むことが決定された本なのだ。彼は少なくとも高校生の頃にはこういう性格になっていたという。
「自分でも何で読んでるかわからない」
「え? 読みたくて読んでるわけじゃないのか?」
「わからない」
鵜飼は頭を抱えた。自分と笛吹の台詞を小さな声でぼそぼそと反駁して自分がおかしなことを言っていないことを確かめた。笛吹がこんなふうに答えたのも先に示した完璧主義者の思考を説明するのが面倒だったからなのだ。それに言っても理解してくれないだろうと決めつけてもいた。彼はこの会話の後で自分でも馬鹿々々しくなったらしく、本を閉じて机に突っ伏してしまった。おそらくそのときこそ一つのシステムが頭の中で瓦解した瞬間だったにちがいない。七夜は笛吹の言動を注意深く見ていたが、笛吹が机に伏せてしまうとパソコンの画面のほうに視線を戻して漸く執筆に取り掛かった。
「商店街、いいじゃないか。俺は好きだよ。大学のすぐ近くにも商店街があるだろ? あそこに俺がよく行く喫茶店があるんだ。すごくいい雰囲気でね。今度一緒に行こう!」鵜飼は一人で得意げに話している。笛吹は聞こえてはいたものの、特に返事はしなかった。それでも彼は続けた。
「あの商店街といえば、小さい書店があっただろ? ほら、あのいかにも街の本屋さんって感じの店だよ。あそこも好きだったけど、ついこないだ閉店しちゃったそうだ。残念だ。これも時代の流れか……。ああ、もはや小説なんて必要とされていないのだろうか。ましてや純文学なんてさ! いやしかしそんなことはどうでもいい。それでも俺は、俺は小説を書き続けるさ。なんでかって書きたいからだよ。それでいいじゃないか。理屈なんて嫌いだ!」
「先輩、静かにしてください。そんなこと弁じるくらいなら今すぐにここで文章を書き始めていなければ説得力がありませんね。第一、先輩のは純文学じゃなくて、だいぶエンタメ寄りだと思うんですけど。出鱈目も程々にしてください」
「ということは」鵜飼はニヤリと笑みを浮かべた。「俺の小説を読んでくれたってことだな! 嬉しいじゃないか! 君は律儀なんだな。きっとそうだ。笛吹のだけじゃなく、俺のまでちゃんと読んでくれるんだからな」
七夜はいよいよ耐えきれなくなって、軽蔑の目で彼を睨みつけた。それで漸く鵜飼は黙り、笛吹のこの殺風景な部屋は静まり返った。鵜飼がポテトチップスを食べる音と、七夜のキーボードを叩く音だけが響いていた。
空が暗い青に染まり、笛吹がカーテンを閉めようと立ち上がった時、彼の腹がぐうと鳴った。まず鵜飼が笛吹のほうに顔を向けた。集中していた七夜さえも彼に注目した。二人は軽く笑った。
「うむ、確かに腹減ったな」と鵜飼が言った。
「先輩、さっき散々お菓子食べてたじゃないですか」
「いいだろう、別に。育ち盛りなんだ」
「先輩がただ太ってるだけだと思いますけど」
「何を言う、後輩! ここにはな(彼は自分の腹を何度か叩いた)、文学が詰まっているんだよ、君。文学の素養がね」
「じゃあ僕は文学の素養がないってことだね」鵜飼と対照的に痩せている笛吹は自虐的な笑みを口元に見せた。
「いくら食べても文章は上手くならないので安心してください。ここにいる鵜飼先輩は生きながらそれを証明しています」
「飯は人生の活力源さ。侮っちゃいかんよ」
彼らは夕飯を食べるために笛吹の家を出た。鵜飼がよく行く洋食屋があるというのでそこで食べることにした。その店は鵜飼が先刻話していた商店街の中にあった。学生街に必ず一軒はあるといった感じの店構えだ。レトロな店内に足を踏み入れると途端に洋食のいい匂いが漂ってくる。フライパンで焼いたり炒めたりする音が軽快さと激しさを織り交ぜながら響いている。三人は一番奥のテーブルに座った。
「メニューが多くて悩みますね」七夜は真剣な表情で選んでいる。
「ここはね、どれ食べても旨いよ」鵜飼が自分のことのように得意げに言う。
「余計に悩むじゃないか」笛吹はメニュー名を必死に指でなぞっている。
結局、笛吹はハンバーグ、鵜飼は日替わり、七夜はオムライスを注文した。
笛吹は七夜の向かい側に、鵜飼は七夜の隣に座っていた。笛吹は七夜と目が合うのが何となく落ち着かない。鵜飼の向かいに座ればよかっただけの話だが、今更隣に移るのもおかしい。座る席を決めるというのは一瞬のうちに起こる出来事だ。深く考えるようなことでもないし、考える暇もない。笛吹はこういう咄嗟の判断が得意ではなかった。料理を待っている間、彼は仕方なく壁を見た。壁には手書きのメニューが貼られている。おすすめ、新メニュー、日替わりなどの張り紙が店内の雰囲気をより趣あるものにしていた。メニュー名だけでは想像できないものもあって、彼は一体どんな料理なんだろうと思いを巡らせた。それから、もし今後も七夜(と鵜飼)が家に来るとしたら、この店に何度となく通うことになるのだろうと思った。そんな日々が続くならそれは幸せと表現しても差し支えないかもしれない。そして小説を書くようになるまで彼を見張っているという七夜の発言が本当なら、笛吹が自発的に小説を書くようになったそのときがその幸せな日々の最後ということになる。それならばいつまでも小説を書かなければいいのではないか。笛吹と鵜飼は文学研究会にいた頃からの仲だ。しかし笛吹と七夜はどうだろうか。七夜は異常な好奇の目で笛吹を観察し、笛吹はその視線を感じていつも目を逸らしている。では、鵜飼と七夜は? 鵜飼は七夜にわざとらしくすり寄ろうとするが、七夜は彼のそういう面も含めて軽蔑していた。こんないびつな三人だが、笛吹はこの日久しぶりに生きる喜びを少しながら感じていた。いびつでもなんでもこの距離感が彼には愛おしく思えた。
食べ終えて店の外に出ると空は真っ暗だった。彼らはそのまま駅に向かった。
「おいしかったですね。ちょっと量が多かったけど」と七夜が言った。
「無理に食べないで俺にくれればよかったのに」鵜飼がすかさず応じる。
「それは嫌です」
笛吹は二人のやり取りを楽し気に聞いていた。食べている間もこんな感じだったのだ。
駅の改札の前で笛吹は二人と別れた。別れ際に七夜が笛吹に聞いた。
「あの、今日は迷惑じゃなかったですか?」
「いや別に。むしろ楽しかった」
七夜と鵜飼は改札の向こうに消えた。笛吹は彼らが見えなくなるまで見届けてから家に戻った。電気をつけて夕飯の前と同じ場所に座った。つい一、二時間前まで向かい側に彼らが座っていたのだ。笛吹は途端に寂しくなった。彼は孤独に慣れていたが、この時はいつにも増して孤独が堪えた。それは言うまでもなく先刻までの賑やかさと比較するがために生じた感情だった。彼が普段人とかかわったり、そもそも外に出たりしたがらない所以はここにある。「出会いがあれば別れがある」なんていうのは垢にまみれた文句だが、言っていることは別段おかしくない。そしてその言葉を「出会わなければ別れもない」と言い換えても問題ないだろう。ひょっとすると七夜に出会ってしまったことで僕は不幸になるのではないか、と笛吹は考えるに至った。彼の顔からは夕飯の時までの笑みは影を潜め、怯えだけに支配されていた。