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 笛吹(ふえふき)は壁を見つめていた。そこに何かあるわけではない。ただ見つめる。彼は小説を書くのをやめてからというもの、いつもこんな調子だった。しかしだからといってまた筆を取ろうとは思わない。彼の頭の中はがらんどうだった。視界が壁と同化するような感覚になりかけたとき、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。

「やあ、笛吹君」

 鵜飼(うかい)がつかつかと上がり込んで来て廊下を通り、笛吹のいるところまで来た。後ろにもう一人いる。笛吹はその顔には見覚えがなかった。

「なんだね、勝手に上がってきて」

「文学研究会の新入生を連れてきた。君に会わせたいんだ」と、その人を前に出した。彼女は七夜(ななよ)と名乗った。七夜というのが名字なのか、名前なのか、筆名なのか、笛吹にはわかりかねた。

 くどくど説明したくないので簡単に済ませるが、笛吹と鵜飼は今大学二年で、彼らは一年の頃、文学研究会というサークルで知り合った。笛吹は二年生に上がる直前に文学研究会をやめた。鵜飼は今でもそのサークルに所属している。

「鵜飼君、僕はもうサークルは疎か、執筆自体辞めたんだよ。もう関係ない」

「いや彼女のほうから君に会いたいと言ってきたんだ」

「へえ、どうして?」

「過去の部誌を読んでいたら、君の作品を大変気に入ったようでこの作者はどこにいるか聞かれたんだ。あいにくもう辞めてしまったが、大学の近くに住んでるから会いに行こうってなってここに来たんだ」

「そうかい。しかし来たところで話すことはないよ。だってもう小説は書いてないんだからね」

 笛吹は取り敢えず二人に座るように促した。部屋の真ん中には横幅のある低い机が置かれている。彼はその机の前に玄関のほうを向いて座っていた。二人はその向かい側に腰を下ろした。鵜飼はそれからすぐに立ち上がり、電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを三人分用意した。まるで自分の家にいるかのような勝手な振る舞いだが、笛吹は指摘する気力さえなかったので、放っておいた。彼がコーヒーを入れている間、七夜は笛吹のことを食い入るように見ていた。鵜飼がそれぞれの前にコーヒーカップを置いて七夜の隣に戻るや否や、彼は七夜に向かって尋ねた。

「笛吹の作品でどれが気に入ったんだ?」

「一つには絞れませんが……。風刺のきいた『月並みの美学』とか――」一通り語りつくすと最後にこう言った。

「あの、また小説書きませんか? ぜひ笛吹先生の小説を読みたいんです!」

 笛吹は黙っていた。笛吹自身もこの半年の間、筆をとりかけたことはあった。しかしそこには苦痛以外の何もなかった。

「なあ笛吹、お前は創作をやめてからあまり元気そうじゃない。家にばかりいるし、俺と話してるときも意識はどこかに置いてきたみたいに空っぽだ。お前自身のためにもまた筆をとったらどうだ」

「君、やめることだって立派な選択の一つだよ。何でもかんでも続けたり、新しいことに挑戦すればいいってもんじゃない」

「ふむ、辞めるところまではまあ理解できる。でもそのあとそれに代わる何かを始めたかい? お前は何もしていない。だからいつもそんな死にそうな顔をしているんだ」

「僕は何をやっても駄目さ。これはわかりきったことなんだ」

「そんなことないです! 先生はこんなに素敵な作品を作れるんですから」

 笛吹は頬杖を付きながらううむと唸っている。暫くして口を開いた。

「君が僕の書いた小説を気に入っているということはわかったし、その気持ちは嬉しい。でもそれらを書いたのは過去の僕だ。今の僕には書けない。もし書けてたら辞める必要はなかったんだから」

「わかりました。では私がここに来て見張っていますから小説を書いてください」

 笛吹はコーヒーをこぼしそうになった。自分勝手な性格の鵜飼でさえ驚いていた。

「ここっていうのは僕の家のことかい?」と笛吹はわかりきったことを聞く。彼女はそれには応えずに「もちろんずっとって訳じゃないですが。先生がまた小説を書けるようになるまで見張っているということです」と言った。笛吹はもう返事もできなくなっていた。鵜飼もさっきから口を開けたままだった。

「ではまた来ますね、先生」と彼女は鵜飼を置いてすたすた出ていってしまった。慌てて彼女の後を追いかけようとする鵜飼を呼び止めて笛吹は頼んだ。

「なあ君も来てくれると助かるんだが」

「行くのは構わないが、俺は家が遠いからなあ。まあ行けるときは行くさ」

 鵜飼が去ってから笛吹はまた一つの場所を見つめていた。しかしいつもと違ってそのときはその先には見つめるべきものがあった。彼は先ほどまで七夜がいた辺りをじっと見つめていたのだった。

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