昼下がり
僕は、働きながら、どうこの場から逃げ出そうか、そればかりを考えていた。しかし、根がまじめな僕は、結局言われるがまま、働き続ける。
正直匂いがきつく、患者の老人たちに触るのも嫌だった。つい、勢いよく息を吸い込もうものなら、思わずむせ、吐き気がした。瞬きをおろそかにすると、目に来た。この匂いは目に染みるレベルの激臭だった。
しかし、診察のある小田さんを除いて、入院患者の世話にあたる竜二さんやもう一人の老齢の看護婦さんは、そんなことまったく気にもしていない。服を脱がせて、体を拭いたり、下の世話までする。
「・・・」
僕は水を飲ませるとか、ご飯を食べさせることぐらいしかできない。だが、そんなことぐらいでもまごついていた。
病床は六床と小さなものだったが、それでも、寝たきりの重症な患者たちのいる中では、結構やらなければならないことはたくさんあり、しかも、ベテランの老齢の看護婦さんは診察の方の手伝いもあり、ちょくちょく抜けるので、実質は竜二さんと僕だけ。かなり、忙しかった。
「もう一人若い看護婦がいたんだがな。そいつが急に辞めちまってな」
竜二さんが、ベッドの布団を直しながら言った。
「そうだったんですか」
それで僕が呼ばれたのか・・。
「君が来てくれて助かったよ」
「なんでその看護婦さん辞めちゃったんですか」
「さあ、よく分からんが、突然仕事中に、「もう嫌っ」って叫んで、そのまま帰ってこなかったよ」
「そうなんですか・・汗」
なんか分かる気がした・・。
「はあ~」
てんやわんやでようやく昼休みになった。
「飯食いに行こうぜ」
竜二さんが僕に声をかける。
「いや、僕は」
だが、僕は食欲どころではなかった。
「どうだ?」
診察の終わった小田さんも、そんなげんなりとしている僕に語りかけてきた。
「は、はあ」
午前中のほんの数時間で、僕はフルマラソンを走ったみたいに心身ともに疲れ果てていた。
「いきなりはハードだったかな」
小田さんと竜二さんが顔を見合わせて笑った。
その後、僕を残して二人は昼食に行ってしまった。僕は診察室のソファにへたり込むように座り込む。
「ふぅ~っ」
久々の肉体労働で疲れ、腹は減っていたが、鼻の先にこびりつく、すっぱい体臭と糞尿の匂いで食欲はなかった。
「・・・」
老齢の看護婦さんも近くの自宅にお昼を食べに行ってしまったので、室内は僕一人と寝たきりの患者たちだけになった。
「・・・」
そこは妙に静かだった。僕は隣りの部屋のベッドに横たわる老人たちを見つめた。
「・・・」
生きているのか、そうでないのか、老人たちはピクリとも動かない。生命というものの何か重要な部分の息吹きをまったく感じなかった。
「・・・」
そのまま老人たちを見つめていると、なんだか、その惨めな姿と自分の未来の姿が重なって来た。それとともに、何とも言えない不安とも恐怖とも言えない感情が湧き上がって来た。
僕もちゃんと働かなければ、こうなってしまう。ベッドに横たわり惨めに死を待つばかりの、この老人たちのようになってしまう。誰からも看取られず、孤独に、そして、ろくな医療も受けられずに、この場末の病院のベッドの上で、ただただ惨めに死を待つばかりの老人に・・。
「・・・」
僕の中に、さらなる不安と恐怖が湧き上がり、居ても立ってもいられないような焦りともつかない苦しみに苛まれる。僕は頭をかきむしるように抱えた。やっぱり、大学に戻って、ちゃんと卒業して、就職して、結婚しなけきゃ・・。
「ちゃんとしなきゃ」
ちゃんとしなきゃ・・、ちゃんと・・。そんな焦りと不安が交じり合ったような、負の暗黒感情でできた堪らないねばついた感情が僕の頭の中を覆うように支配する。
「病気になったら・・」
僕も・・、僕も年を取り、病気になったら彼らのようになってしまう。僕はそんな恐怖に、おんぶお化けのように憑りつかれた。
「まあ、午後の診察は三時からだから、のんびりしていていいよ」
昼食から帰って来た小田さんが、ソファでぐったりしている僕にそう声をかける。
「はあ・・」
昼休み、誰もいない間に逃げられたのに、僕は午後もマジメに小田医院にいた。やはり、僕は根が変にマジメにできているらしい。
「コーヒー飲むか」
小田さんが僕を見る。
「あ、はい・・」
昼下がり、なんだか、現状の厳しさとは裏腹に、なんとものほほんとした時間が流れていた。
「はいよ。インスタントだけど」
「ありがとうございます」
僕はコーヒーを受け取り、すきっ腹の腹にダイレクトに流し込んだ。
「どうした」
小田さんがソファの隣りに座り、元気のない僕を見る。
「はあ・・」
僕はうつむき加減に、カップの中の真っ黒いコーヒーを見つめた。
「なんか・・、不安です」
「不安?」
「はい・・」
僕はそこでさらにうつむく。
「未来の自分を見ているようで・・」
僕は患者たちの横たわるベッドの方を見た。
「なるほど、そうか・・」
「ちゃんと働かなきゃって・・」
「・・・」
「ちゃんとしなきゃって」
「ちゃんとか・・」
そこで小田さんも持っていたコーヒーをすすった。
「不安で・・」
「そうか・・」
沈黙が流れる。その沈黙の中に、でもやはり、昼下がりのゆったりとのんびりとした時間が流れていた。
「まあ、でも人生何とかなるもんだぜ」
小田さんが言った。
「・・・」
「俺だって、ちゃんと大学出て医学部出て医師免許とって、その結果がこんなだぜ」
小田さんは何がおかしいのか、そこで一人で豪快に笑った。
「・・・」
僕は言葉もない。
「人生なんてそんなもんだぜ」
「はあ・・」
なんの励ましにもなっていなかった。
「あのぉ・・、医者って、儲かるんじゃないんですか」
僕は、ボロボロの診療所を見回しながらおずおずと訊いた。
「まあ、やり方はあるけどな」
「はあ・・」
僕は小田さんを見る。
「まあ、適当に患者をさばいて、適当に薬出しとけばその方が儲かるんだけどな」
小田さんも、自分の診療所を見回した。
「マジメにやると儲からねえんだ」
そして、小田さんはまた豪快に笑った。
「まあ、あんま深く真面目に考え過ぎないことだな。がんばったって人生なんてなるようにしかならんぞ」
「はあ・・」
「おっと、点滴するの忘れてた」
そう言って、小田さんは患者たちのベッドの方に行ってしまった。
「・・・」
小田さんはなぜこんなとこでこんなことをしているのだろうか・・。僕は気になった。




