捨てられた人たち
「・・・」
朝九時、僕は、祝い町内にある、小田さんの医院の入っている古いビルの前に立っていた。ただの口約束。あのまま無視してバックレることもできた。しかし、こういうとこだけは妙にまじめで義理堅い僕は、結局、ちゃんと来ていた。
前に一度、ももちゃんとインテリさんに無理やり連れて来られたことはあったが、それっきりだったし、あの時も、働きに来たわけではない。僕は少し緊張しながら、薄暗いビルに入っていった。外も古びて汚いが中も相当古びていて汚い。こんなことがなければ絶対に入らない建物だ。どこかカビ臭いすえた匂いもする。僕はそんなビルの狭い階段を上り、二階にある小田医院のきしむ扉を押した。
「・・・」
中には誰もいなかった。僕は当たりをきょろきょろと見回す。
「ああ、こっちだこっち」
すると奥の方から声がした。見ると、小田さんの丸い顔だけが、室内を仕切るように置かれている大きな棚の端から飛び出て、手招きして僕を呼んでいた。
僕は病院の奥へと入っていく。
「おおっ」
「あっ」
竜二さんだった。
「何やってんですか」
「働いてるんだよ」
「えっ、働いてる?ここで?」
「おおよ。俺はここでボランティアしてんだよ。ボランティア」
竜二さんがおどけたように胸を張る。
「えっ、竜二さんが」
僕は驚く。
「そうだよ」
まだ、ヤクザな感じの雰囲気が残る竜二さんの風貌に、ボランティアという単語はまったく似合わなかった。
「お前もボランティアに来たんだろ」
「えっ、は、はあ・・」
確かに昨日、小田さんにボランティアに来てみないかとは言われた。しかし、何をするかはまだ聞いていなかった。
「誠君、こっち、こっち」
そこへさらに奥へと小田さんが手招きする。
「中をのぞいてびっくりするなよ」
竜二さんが意味ありげなことを言う。
「えっ?」
僕は竜二さんを見るがそれ以上は何も言わない。僕はおずおずと小田さんについて、病院の奥へと入って行った。
「こ、ここは・・」
そこには狭い六床ほどのベッドが並んでいた。手前の部屋同様、棚などで仕切っただけの簡易的な病室だった。そのすべてのベッドには患者たちが横たわっていた。だが、みんな、痩せ細り、死を待つばかりのほぼ寝たきりといった状態だった。元気で退院できそうな患者は誰一人としていない。
「・・・」
僕は何とも言えず、ただその場に呆然と突っ立って、その光景を眺めていた。
病室は建物自体が古いのも相まって、薄汚く、そして、臭かった。糞尿の匂いと、どこかすっぱい匂いが立ち込めていた。僕はその匂いだけで、無理だと思った。体が自然と後ろに傾く。
「この人は、認知症と腎臓病で寝たきりだ。身寄りもない」
小田さんが一番手前のベッドに横たわる老人を見ながら言った。老人は、すでに生きているのかいないのか、動きもなくただ力なく横たわっていた。
「・・・」
僕はその一番手前のベッドに横たわる痩せたその老人を見つめた。ここまでの状態の病人を見るのは生まれて初めてだった。やはり、それはどこか不気味で、正直怖かった。
「この人は、ガンで余命いくばくもない。もう目も見えない」
小田さんがその隣りのベッドに横たわる老人に視線を移した。
「ううっ、うううっ」
その人は見えない目で、天井当たりの虚空を見つめ、何かを軽く呻いていた。
「家族はいるが誰も見舞いにも来ない」
「・・・」
僕はその骨と皮ばかりに痩せた、丸顔の老人を見つめた。最後、目が見えなくなり、ベッドで死を待つばかりの心境とはどんなものなのだろうと、分かるはずもないことを僕は漠然と考えていた。
「このおじいさんは、昨日、路上で倒れていたんだ」
さらに真ん中の通路を挟んで、そのベッドの向かいのベッドを小田さんは見る。僕はそのベッドに横たわる老人を見た。それは明らかなホームレスの老人だった。すっぱい匂いはこの老人の体臭だった。少し離れたここまで強烈に匂ってくる。小田さんと共にその老人のベッドに近づくと、匂いはさらに強烈になった。目に染みるような匂いだった。僕の顔は自然と歪む。それは失礼なことだと、そういった基本的な社会常識や礼儀は身についているつもりだった。しかし、僕の顔は、傍目もはばからず、大きく歪んでいた。
「じいさん、水飲むか?」
竜二さんが水差しをもってその老人に近づく。竜二さんは、なんでもないみたいにその老人の介護をしている。
「・・・」
正直、僕は吐きそうだった。強烈な匂いと、病気にうごめく醜い人間の姿に、僕は目の前がくらくらしていた。一刻も早くここから出たかった。外に出て新鮮な空気を吸いたかった。そして、そのまま、またママの店にでも行って、このことをすべて洗いざらい忘れて、また、何の気ない日常に戻りたかった。
「ここにいる患者たちは、身寄りもお金もなく、他の病院や福祉施設で入院を断られた人たちばかりさ。今の時代入院するにも保証人や補償金のいる時代だからな。そういう患者はどこも嫌がる」
小田さんが呆れるようにして言った。
「・・・」
他のベッドも似たような患者ばかりだった。薄汚く、弱り切り、やせ衰え、もう死を待つばかりといった状態だった。
「彼らはどこも引き受け手がない。みんな嫌がってたらい回しさ。酷い病院なんか、こういう厄介な患者を夜中に来て、この町の公園に捨てていくんだ」
「ほんとですか」
「ああ、本当さ。この町を姥捨て山かなんかと思っているのさ。酷いもんさ」
「・・・」
「病院や福祉施設だけじゃない、行政も役所も、誰も面倒を見ようとしない。彼らすらがこっちに持ってくるなと言わんばかりに、あちこちたらい回しにしてほったらかしさ」
「・・・」
信じられないような話だった。しかし、多分それは真実なのだろう・・。
「それをうちらが全部引き受けてるんだ」
そこで竜二さんが言った。その言い方にはどこか誇らしさを滲ませていた。
「・・・」
僕は何も言えなかった。
「まあ、実際ここは、姥捨て山さ」
小田さんが言った。
「・・・」
僕はベッドに横たわる患者たちを見た。この患者たちは家族から、世間から、社会から捨てられた人たち・・。
「この国はさ。一見するととてもきれいで治安のいい社会制度のしっかりとした国に見える。だけど、それは表向きの話さ。実際は、この社会の汚い部分、醜い部分、弱い人間、病気の人間、弱った年寄り、厄介な存在、それらを全部切り捨てて、どっかにほっぽり出して、閉じ込めて、きれいに見せているだけなんだよ」
小田さんが言った。
「・・・」
僕は言葉もなく、その場に突っ立っていることしかできなかった。
「たいていこういう患者の末路は、路上で死んで行くか、劣悪な病院や施設に押し込められて、そこで劣悪な環境で酷い虐待を受けて、ろくろく治療や介護も看病もしてもらえず、捨て置かれて惨めに死んで行くんだ」
「・・・」
「それが日本だ」
小田さんは突きつけるように僕を見た。
「・・・」
僕はやはり何も言えずにいた・・。




