4 寄宿舎のなか
学院は、今日も昨日も一昨日も同じ様に動いていたし、明日も明後日も、一週間後も一年後も同様に違いない。
一人の生徒の死は深い悲しみをもって弔われたが、それはほんの束の間の出来事に過ぎなかった。
少年の死は、諦めにも似た気持ちでごく自然に浸透してゆく。
「死は恐れるに値しない。消滅は肉体のみが体験することだからだ。魂は、神に抹殺されない限り、永遠に存在し続ける。だから死は悲しみさえも必要としない」
ドニは隣室を気遣って声をひそめた。
消灯時間の近づいた寄宿舎は、次第に静まり始めていた。
窓から見える初等科宿舎にすでに明かりは無く、月光と春の夜風に伴われて無邪気な寝息が聞こえてくる様だ。
「なくなってしまうこともあるわけ?」
ベッドの上で、アンリが心配そうにまばたきを繰り返した。
「ハハハ、大丈夫。神様だってそう易々と抹殺しやしないさ」
ドニはおどけて、大袈裟にかぶりを振った。
「それじゃあ、どんな魂が抹殺されるの?」
小柄なマルが、変声前の一際高く細い声で尋ねた。目映いばかりの美しい銀髪が、興味深そうに揺れている。
「いい質問だ」
「アハハ、先生みたい」
「ほおんとだ」
ドニの歯切れ良い受け答えに、同室の五人の少年たちは大声で笑った。
「うるさいよ。静かに」
隣室から、窓を越えて苦情が飛んできた。
「ごめん」
ドニは謝罪を投げ返し、皆の笑いを指揮者のごとく両手で制した。
そして軽く、だが深く息を吸い込み、マルの質問にどう答えたものかと考えた。
「悪くて、ずるくて、欲望に捕われた魂は、肉体と別れたあとも悪くてずるいことしか考えられないんだ。だから学ぶことは大切だ。自分の自由な優しい精神を見い出して、そして判断力を養うんだ」
ドニの瞳は大きく輝き、巻き毛のかかった額は鋭い力を放っていた。
「むずかしいなあ」
「分かんないよ」
真剣に、固唾をのんで耳を傾けていた少年たちは、小さく吐息を漏らした。ドニの話は、彼らの理解できる域を多少、ときに大幅にはみ出す。
「簡単だよ。ほんの少し見方を変えるだけだ。・・・そうだなあ、これを見て」
ドニは、扉の近くの飾り棚に無造作に置いてあった花瓶を取って来て示した。それは誰かが花を生けることもなく、忘れられた様にいつもそこにあった。
「僕は、この花瓶が花瓶として使われるのを一度も見たことがないけど、」
「僕もない」
アンリが口を挟み、みんなの笑いを誘った。
「そうだね」
ドニは微笑みながら頷き、さらに話を続けた。
「だけど、これがそこにあるのをいかなる時も知っていた。見ていなくても分かった。意識がそこにあるからだ」
「うん。それで?」
「花瓶を良く見て」
少年たちは眼を凝らした。
「これは、こう横から見ると長方形、真上からだと楕円形。それから、こっちから見ると何も無いけど、こちら側からだと把手が付いてる」
「物事は、あらゆる側面から観察すべし」
「然り」
「うん。分かる」
「僕にも分かる」
少年たちは、自分の中で理解が深まってゆくことに、喜びと満足を感じていた。
「待って。まだ続きがある。言いたいことはこうだ、ある一つの側面を見て、全体象を描くこと」
「そおんなあ」
「無理だよ」
「できる。必ずできるよ。始めは自分の体を動かして見ればいいんだ。訓練を積めば、動かずとも見える様になる」
「そうかなあ」
ドニの話が一段落つくと、アンリたちは半信半疑の戸惑いの表情を隠せないまま、雑談に興じた。
ドニは少し疲れていた。昨日のことや昼間のこともあったが、何よりも今の講師然とした会話がドニの神経を高ぶらせていた。
喋り過ぎはいけない、とドニは思った。喋ることには興奮がつきまとう。受け手に分からせよう、分かってもらおうと努力すると、余計に興奮度を高める。そしてそれはたいてい徒労に終わる。だからといって見て見ぬ振りは、余計に始末が悪い。
穏やかに、静かな心を乱すことなく、人と相対することはできないだろうか。たとえそれが、いわゆる敵と見える人であっても。
ドニは静かに呼吸を整え、心臓の鼓動に耳を傾け、体内の血液の流れを辿った。
「ドニ」
「……えっ?」
ドニの朦朧としていた意識が、誰かの呼びかけに緊迫した。
「ルーカが今日言ってたろ」
「何て」
「あしたの例会で、クレメンスの、」
「シイッ、」
部屋の扉がギィと音を立てて開いた。
「何の相談?」
ピウスが部屋に戻ってきた。
「見回り完了?」
「ああ。今夜は冷えるな」
「ごくろうさま」
ピウスは手際良くパジャマに着替えると、軽やかに自分のベッドへ飛び込んだ。
「消灯時間過ぎてるんだぞ。早く寝ろよ。あしたの一限はラテン語の試験だ」
ピウスは、ドニたちの夜の密談を何気にたしなめた。内容は容易に想像がつく。
「あーあ。ピウス、キミとルームメイトだってのは、僕にとって最大の不運だよ」
ドニが退屈そうに大きなあくびをしながらベッドへ倒れ込むと、羽布団が大きな窪みを作った。
ドニの冗談めかした本音に、アンリとマルは互いに顔を見合わせ、思わず噴き出した。
「僕のせいじゃないぜ、」
そう言うと、ピウスは寝苦しそうに羽布団の中で大きな身体を動かした。
「電気消せよ。今日の会議はこれまでだ」
「僕、クレメンスがここに居るような気がする。ほら、そこだよ。そこの彼のベッド」
ピウスの命令を無視して、マルの声が怖々と震えた。
クレメンスがついこの間まで寝ていたベッドは、ピウスの左隣りに接している。
ピウスは反対方向に身体を倒し、何事も起こらないことを願いながら静かに眼を閉じていた。
不気味な沈黙が流れた。
少年たちは、一様に、ドニの気の利いた反応を待っていたが、ドニは、俯せた姿勢のまま、枕に顔を埋めて何も言わない。
樹木が風にざわめいた。
最上級生の宿舎の開け放たれた窓から、陽気な笑い声が伝って来た。
ピウスの置き時計の秒針が、いつになく、少年たちの耳を衝く。
「先生に、」
ピウスが、がさごそと寝返りを打ち、ようやく沈黙は解除された。
マルは、ホッと胸をなでおろした。マルは、自分の言動がつくり出してしまった局面をもてあましていたのだ。
「先生に気付かれたらまずいよ」
「舎監先生がそろそろ見回る時刻、ですか」
うつ伏せっていたドニが、むっくり起き上がった。
「ピウスは自分の身さえ安全ならそれでいいと思ってるんだ。僕らみんなの心配してるふりして、本当は自分を守りたいだけなんだ」
アンリが、別人の様に強くピウスを責めた。
「ちょっと待ってくれよ、ドニもアンリも」
ピウスは困惑し、誤解を解こうと掛け布団をはねのけた。
「例会だよ。先生たちは単なるお遊びの集まりだと思ってるみたいだけど、うすうす感づいてる奴らもいる。それに、集まってくる連中だってそうそう口は堅くない。キミたちは本物のドニ信奉者かもしれないが、好奇心だけで来る奴だっている。ひょっとすると、そっちが大多数なんじゃないの?」
ピウスが例会のことを率直に口にするのは初めてのことだったので、ドニをはじめ少年たちはひどく面食らってしまった。
「そうかもしれない……」
ドニは気が抜けてしまい、落胆に似た感情を味わっていた。
今までドニは、ピウスに別世界を知ってもらおうと努力し、奮闘してきた。誰も理解してくれなくとも、大好きなピウスにだけは分かってもらおうと有りったけの力を込めてきた。
にもかかわらず、今のドニには、ピウスの方が自分よりも別世界を良く知っている様な気がしてきていた。
ドニのピウスに対する新たな認識は、短い虚脱感のあとに、喜びと親しみをもたらしてくれた。
そして心地良い眠りのなかに、懐かしい光景が揺らいでいた。
読んでいただいてありがとうございます。
全体を5回に分けてお届けします。
第5話(最終話)は11月4日ごろにお届けします。
どうぞよろしくお願いいたします。
お楽しみください。