月夜の般若
「パパ、どこに行ってたの」
祐介が自宅の門扉を開けるや否や、妻の伸子が家の中から出てきてきた。
「仕事だけど」
「いつもより遅いじゃない」
「ちょっとね」
「ちょっとじゃわからない」
夜空に高く輝く月のせいか、伸子の顔は白っぽく見えた。そして険しかった。
祐介は、どこかでこの顔つきを見たことがあると思った。そう、あれは二十年前の月夜のことだった。
二十年前、中学生だった祐介は九州のある小都市に住んでいた。家族で住んだ家は、人家がまばらな丘の上にあった。
夜になると、勉強の合間の休憩と称して外に出た。そして、小遣いを貯めて買った望遠鏡で夜空を眺めた。と言っても、天体観測に詳しい訳ではなかった。星や月を眺めてぼんやり過ごすのが好きだった。宇宙に比べれば、学校での出来事や勉強などはちっぽけなことに思えた。
受験が間近に迫った一月の夜の十時過ぎ、寒かったがそれだけに空気は澄み、月が青白い光を投げかけていた。星を見ていた祐介は、耳なれない音が聞こえてくるのに気付いた。
猫の鳴き声か、と思い耳をすますと、しゃくり上げるような泣き声だった。子供ではなく、大人の女が泣いていた。
暗い夜道を歩くのは気味悪かったが、女の泣き声は中学生の好奇心をくすぐった。祐介は泣き声がする方に歩いていった。五十メートルほど歩いただろうか、数軒先の家の中で女が泣いていた。祐介は垣根の隙間からその家を覗き込んだ。
カーテンが引かれて家の中は見えないが、一階の居間と思しき所から大きな泣き声が聞こえてきた。途切れ途切れで何と言って泣いているのかわからない。
ただ、「どうして----、許せない----」とは、断片的に聞き取れた。泣いている女の声はまだ若い、二十代だろうか。
女の傍らでぼそぼそと低い声が聞こえた。耳をすますと、「周りに聞こえるから」、「みさちゃん、しょうがないよ」と言っている。母親のようだ。
息を潜めて覗いていると、突然カーテンが捲くられ、ガラス戸がばたんと開いた。
「あんた、そこでなんばしよっと」
女が外に顔を突き出し、祐介を睨みつけて叫んだ。月光に照らされた女の顔は涙で濡れ、大きく開かれた目は充血していた。叫ぶ口は耳近くまで裂けているように見えた。それまで見たことがない恐ろしい顔だった。祐介は転がるように逃げ帰った。
あの女はなぜあれ程泣いていたのか、中学生の祐介にはわからないまま時が過ぎ、いつしかその夜の出来事自体も忘れてしまった。
目の前にいる伸子の顔つきはあの女と似ていた。これで二本の角が生えれば、嫉妬、悲しみ、怒りに狂った般若の能面だ。
「夕方、一緒にいた女の人は誰なの」
伸子の顔も張り詰めている。祐介にはようやく事情がわかった。仕事の帰りに、たまたま出会った部下の女の子と駅のそばの居酒屋で飲んできた。それを見られたらしい。
どう説明するか、祐介は気が重くなった。だが一方で、あの女が泣いていた理由がやっとわかったような気がした。