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それにしても不思議だ。廊下の向こう側は日本式庭園になっており、そこには空と太陽が覗き、人工の小川が流れ、魚が泳いでいるのである。地面には白砂が敷き詰められ、所々奇岩が飛び出している。苔や木などの緑がないところは岩だらけのよその惑星を想像させる。イワナガ姫がいたのはそのような星なのかもしれない。
ぼくたちは庭園の周りに巡らされた廊下を歩き、奥の部屋の前に立った。案内の女はぼくたちを待たせ、
「コノハナサクヤ姫様と雪村様をお連れいたしました」
と中に声をかけた。すると目の前の梅の絵のふすまは自動ドアのように音もなくすっと開き、ぼくたちは長い部屋の奥を見た。侍従らしい石人間たちが部屋の両側に控え、一番奥には顔を垂らした布で隠し、深紫色の袴を身につけた人物が座っていた。彼女の脇には刀が一振り置いてあり、ぼくは喉をごくりと鳴らした。
ぼくとコノハナサクヤ姫は案内の女に促されて靴を脱いだ。さすがにここでは靴は許されないらしい。廊下に靴を残して手前の間の畳の上に進んだ。コノハナサクヤ姫に倣って、正座をして頭を下げた。
「姉上、サクヤが参りました」
コノハナサクヤ姫がそのままの姿勢ではきはきとそう言うと、イワナガ姫はうなずいた。
「よく来た。面を上げよ」
しわがれた、コノハナサクヤ姫とは似ても似つかないしゃがれ声だった。コノハナサクヤ姫は顔を上げる。ぼくは頭を下げたままでいる。
「そこにいる少年は、わたしの仲間たちを斬り殺していた者か?」
イワナガ姫が言った。どきりとしたが、コノハナサクヤ姫が先に答えてくれた。
「左様です。しかしわたしが命じたことです」
「そうか」
声はそれだけ答えると、しばらく無言になった。だからといって呑気に天気の話などするわけにも行かないので、沈黙が続いた。最初に口を開いたのはイワナガ姫だった。
「謝らないのか?」
あ、と思った。そういえば、謝りに来たのにぼくは一言も口を利いていないし、コノハナサクヤ姫も謝罪の言葉を口にしていない。ぼくは頭を下げたまま慌てて口を開いた。それを制するように、コノハナサクヤ姫はぼくをじっとにらんだ。どういうことだ?
「もちろんわたしは姉上にお許しを願いに来たのです」
コノハナサクヤ姫は言う。その口調はちっとも謝っている風ではない。
「では、そうすればいい」
イワナガ姫は素っ気なく答えた。
「ええ、そうしとうございます」
ぼくたちはしん、と静かにお互いを窺っていた。ぼくは、おかしい、と思っていた。どうしてコノハナサクヤ姫は謝らないのだろう?
「お前はその少年に命じてわたしの仲間を斬り殺させたな?」
「はい」
「そして謝りに来た」
「はい」
「なら何故そうしない?」
コノハナサクヤ姫は黙り込む。ぼくはようやく気づいた。彼女は、謝りたくないのだ。
おかしなことだと思う。ぼくら人間が兄弟喧嘩をしたときのように、彼女は姉に謝らなくてはいけなくても絶対にそうしたくはないのだ。神はぼくらと同じだ。いや、神がそうだからぼくらも彼らと同じなのかもしれない。
「サクヤ」
イワナガ姫が淡々と言った。
「まさかわたしの仲間を殺したのはわざとではないだろうな」
「まさか。わたしは姉上以上に世の平穏を望む者です」
「そうか」
ぼくはまだひれ伏している。いつになったらこの背中の痛みから解放されるのだろう。イワナガ姫は意地の悪そうな口調でまた話し出した。会話はまだ続くらしい。
「お前はわたしに謝るのが嫌いだな。わたしがニニギノミコトに追い返されたときも、お前はわたしに謝らなかった」
「わたしが謝る理由など、どこにありましょう。姉上を返したのはわたしではなくニニギノミコトではありませんか」
コノハナサクヤ姫が何か台詞でも読むような口調で答えた。ぼくは何となくわかる。いつもの話が始まった、というときのうんざりとした気持ちの表れだ。
「『姉上、お気を落とさず』と言ったお前の言葉には笑いが含まれていた」
「そのようなことはありません。わたしは本当に心からお気の毒だと思っておりました」
「お前はわたしたちが父上のところにいるころからわたしを見下していた」
「いいえ」
「花そのもののようなお前を人々は愛したのに、わたしは愛されなかった」
「姉上は僻みが過ぎます。姉上はわたしほどではないけれど、長命の神として愛されましたし、姉上はわたしの子に短命となる呪いをかけました。そして新しい夫と子を得たではありませんか。満足でしょう? 何故そこまでわたしを恨むのです?」
ぼくははらはらとして仕方がなかった。今の言葉に、コノハナサクヤ姫の無神経さがちらほらと表れていたからだ。ぼくはイワナガ姫をそっと見た。イワナガ姫は静かに、動かず、黙っていた。
「お前はわたしの仲間を殺した」
長い沈黙ののち、イワナガ姫が小さくつぶやいた。声は震えていた。
「謝りに来たのだろう。謝罪の言葉はないのか?」
途端に、コノハナサクヤ姫は華々しい笑い声を上げた。空気が凍りついた。ぼくもイワナガ姫も周りの侍従も、体を動かさなかった。
「まあ、姉上。謝罪の言葉など求めていないくせに。姉上は人間など愛してはいない。殺されても、全く気にも留めていないのでしょう」
「何だと?」
イワナガ姫の声は相変わらず震えていた。
「昔からおっしゃっていたではありませんか。人間など、ご自分の従僕にしかすぎないと」
「黙れ」
「わたしだって、人間を愛してはおりません。わたしが愛するのは緩やかに移り変わる四季。人間そのものではなく人間の文化や生活。そして平穏。姉上だって同じようなものでしょう? 愛してもいない人間を『仲間』などと、偽りもいいところではありませんか」
「黙れ、サクヤ!」
イワナガ姫は荒々しく刀を掴んで立ち上がった。背が高く、男性と言っても通じそうなくらいしっかりした体格の持ち主だ。彼女は刀をすらりと抜いた。ぬらぬらと白い刀身が光った。ぼくらを手打ちにするつもりだ。ぼくは刀を取ろうとした。刀は畳の上に置いていた。手を伸ばすと、その前に奪われた。コノハナサクヤ姫が「百花繚乱」を構えていた。
「『百花繚乱』をしまえ、サクヤ」
イワナガ姫は、自分も構えたままそう命じた。コノハナサクヤ姫は笑う。
「しまって、渡せと?」
「そうだ」
「何百年経っても、考えていることは相変わらずなのですね。『百花繚乱』を狙っているのでしょう?」
イワナガ姫は一瞬黙り、何を言う、と静かに言った。
「姉上はわたしの本体である『百花繚乱』を手に入れることをいつも考えてらした」
「そんなことはない」
「最後の姉妹喧嘩もそれでしたわね。『百花繚乱』を巡って、わたしたちは争った。結果負けて、姉上は宇宙へと旅立った。まだ狙っているなんて、しつこいにも程があるわ」
「うるさい!」
「雪村くん、あなたを巻き添えにして悪かったわ。姉上はわたしの本体である『百花繚乱』をへし折ってわたしを消すため、わたしたちを宇宙船に呼びつけたの。謝罪を求めたのは強制的に呼ぶためにしか過ぎないわ。本当に、しつこい姉」
コノハナサクヤ姫はぼくを振り返りながら微笑んだ。恐ろしいほど美しかった。最後に小さく口を動かした。唇は「逃げなさい」と言っていた。姫の向こうで、イワナガ姫が刀を振りかぶっているのが見えた。
「姫、危ない!」
ガチン、という固い音がして、見るとコノハナサクヤ姫はイワナガ姫と鍔競り合っていた。一旦離れ、またも互いに刀をぶつける。ぼくはどうすればいいのかわからず、ただ傍観していた。いや、それどころではない、と気づく。真剣を打ち鳴らし合う彼女たちは、ぼくやイワナガ姫の侍従の命を脅かしているのだ。侍従たちは右往左往している。
本能的に、ふすまの外に出ようと走り出した。ところが、ふすまが遠ざかっていく。振り返ると、ふすまだけでなくこの部屋の調度類全てが黒い空間に広がり始めていた。畳は黒い地面に吸い込まれ、柱やふすまや壁や天井も消えていく。ぼくは地面を踏んでいるかどうかがあやふやに感じられ出した。コノハナサクヤ姫とイワナガ姫はまだ戦っている。刀同士がぶつかり合って火花が散り、二人はくるくると位置を交換する。