第1話 闇の中に救いを求めて
――気が付くと、俺は見知らぬ場所に倒れていた。
「……ここは?」
俺はゆっくりと体を起こす。
そして周囲の薄暗さに怯えつつ、自分が何処にいるのかを確認した。
見渡す限りここが森の中だというのは分かる。しかし、ただの森とは到底思えない。
何処までも並立している黒い木々。外部の光を遮断する、大量の枝と茂った緑葉。そして僅かに感じる、生き物の気配。
なんとなく……この森には危険な雰囲気が漂っていた。
「まさか……ね」
俺の脳裏に、聖女が言っていた『魔霊の森』という単語が浮かぶ。
どうやらあの出来事は夢なんかじゃなかったようだ。恐らく、眠っている間にこの森の中に放り出されてしまったのだろう。
そこまで考えた俺は、すぐにこの森から脱出することを決意した。
なにせ、あの女が俺の存在を抹消する為に選んだ場所だ。どう考えても悪い予感しかしない。
俺はその場を立ち上がり、道なき道を歩き出した。
「……でも、何処に向かえばこの森から出られるんだ?」
生憎と森の中は想像以上に暗く、進んだ先が良く見えない。
おまけに何処も似たような場所なので、前に進んだ気が全くしないのだ。
そもそもこの森がどれくらい広いのか、何処まで続いているのか、それすら俺には分からない。
どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないのか、それも分からない。
俺は……自分が誰なのか、何も知らない。
「……はぁ」
駄目だ、一度考え始めると何も手に付かなくなる。自分のことが分からないって……予想以上に辛いんだな。なんというか、心細い。
俺はふと立ち止まって空を見上げた。
枝葉によって作られたドームが絶えず闇を作り続けている。残念ながら空は見えない。
「――ッ!?」
そこで俺の思考は唐突に切り替わった。
近くの茂みから物音が聞こえる。
俺は傍に落ちていた太めの枝を拾い上げ、揺れる茂みを警戒した。
……不味い。今すぐこの場を離れた方が良いのか? それとも、ここは音を立てないようにじっとしていた方が良いのか? くそっ、どっちが正解だ!?
分からない。明らかな情報不足だ。
俺は判断に迷い、その場に立ち止まったまま動けなかった。
そして、それが命取りとなった。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアア!』
「ぐああああああ!?」
茂みの中から弾丸のように飛び出してきた小人のような化け物。
俺はその化け物の急襲に全く反応できなかった。
持っていた棒切れは役に立たず、勢いよく足を噛み付かれる。
激痛と焼けるような熱を感じ、俺はその場で絶叫した。
「……ああああああ!」
『ガウッ!?』
突然の出来事に俺は頭が真っ白になった。
痛みが理性を支配し、無我夢中で暴れまわる。
気が付くと俺は化け物を殴り飛ばし、森の中を全力疾走していた。
足の怪我を気にする余裕も無い。痛むところから何かが流れていく感触が、俺に考えることを許してくれなかった。
『ギャウ!』
『ガアアアア!』
『ガウガウ!』
恐らくさっきの騒ぎを聞きつけてきたのだろう。後ろから化け物が数を増やしながら追ってきている。
それは褐色肌の小人。人間の赤ん坊くらいの大きさで、耳と鼻が尖っているのが特徴的だ。そんな化け物達がボロボロの服を身に纏い、獣のように赤い目を光らせながら牙を剥いていた。
アレは完全に話が通じる相手じゃない。見た目は人に近いが、中身は完全に動物の類だ。
もしくはゾンビとかグールか? ふとそんな単語まで思いつく。……少しは記憶が戻ってるのか?
とにかく分かることは一つだ。
あの化け物達を何とかしない限り、俺はきっと生きてこの森を出ることができないだろう。……それなんて無理ゲー。
『ギャウ!』
「があああああああああ!?」
くそっ! 何なんだよ、こいつ等は! 少しでも油断するとすぐに襲ってきやがる!
俺は引っ掛かれた背中に注意を払いつつも、後ろから奇襲してきた化け物の一体を睨み付けた。
しかし、どういうわけか追い詰められるほど俺の頭は冴えてくる。
敵の数、正体、行動パターン。それらを無意識に把握しようとする自分がいた。まるで記憶を失う前から、似たようなことを何度も繰り返していたかのように。
そして冷静になればなるほど、現状がどれだけ酷いのか良く分かった。
正体不明の化け物。出口の分からない森の中。丸腰で負傷している自分自身。
「……一体、俺が何やったっていうんだよ!」
今まで忘れていた怒りが、再燃する。
目の前の視界が、真っ赤に染まった。
何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。俺を呼び出したのは、テメーだろうが!
幻視するのは聖女の嘲笑。
勝手な都合で呼び出して、勝手な理屈で追い出した、あのクソ女の歪んだ顔だ。
記憶を失ったのもあいつのせい。今のように化け物に襲われているのもあいつのせい。
全部……全部あのクソ女のせいだ!
『ガアア!』
「うるせぇ!」
心が憎しみに染め上げられる。怒りが恐怖を上回った。
俺は手頃な太さの枝をへし折り、後ろを振り向くと同時に突進した。
まさか逃げる相手が急に攻撃してくるなんて思わなかったのだろう。左右の二体はその場を離れたが、正面にいた化け物は俺が放つ渾身の一撃をまともに受けた。
『ブギャアア!?』
剥き出しの牙が宙を飛び散る。
化け物は鼻血を噴き出しながら吹き飛んだ。
「――ッ!」
しかし、残った二体は未だに健在。俺が棒切れを振り切るタイミングを見計らって体に喰らいついてきやがった。
牙が鋭く突き刺さり、次には勢い良く引き抜かれる。
『『ギャウウ!』』
「あああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
その瞬間、俺の肩から赤い飛沫が舞い上がった。
無様な叫びが森の中に響き渡る。
「……ぐぐう……いってぇ……!」
頭に上った血が抜けてしまったせいか、それとも追い詰められたことによる冴え渡りか、俺は失われた冷静さを取り戻す。
このままじゃ死ぬ。戦いは避けるべきだった!
俺は食い千切られた肩を抑えながら、再び逃走を開始した。
先の見えない闇の中を疾走し、ひたすら救いを求めて駆け回る。
――嫌だ。こんなところで死にたくない! 死んでたまるか!
絶望したら負けだ。諦めた瞬間に死が訪れる。
なによりも……あのクソ女の望む結果にさせたくない。だから絶対に死んでやらない!
そんな執念にも似た想いだけが、俺に生きる活力を与え続けていた。
「……はぁ……はぁ……」
一体、どれだけ走り回ったのだろう。
振り切ったのか、それとも何処かに潜んでいるのか、化け物の姿は見えない。
俺は覚束ない足取りでふらふらと森の中を彷徨っていた。
体力の全てを使い果たしたような疲労感。流した血ですっかり黒ずんだ傷口。
もう限界だった。
荒い息を吐き零しながら必死に体を引き摺りつつも、一向に前へ進んだ気がしない。
もう……限界だった。
『――ギギ』
「……おいおい、もう、勘弁してくれ」
一体どれだけ俺を追い詰めれば気が済むんだ。
もう限界だって言ってんだろ。ほっといてくれよ……。
そんな俺の気持ちも知らずに正面から現れたのは、大顎をチキチキと鳴らす巨大な虫だ。
その外見は黒い甲殻に覆われた蟻のようで、三対の歩脚が胴体から直接生えている。
はっきり言って気持ち悪い。見た瞬間に失神できたらどれだけ楽か。
何でこの森はこんなモンスターばっかり住んでるんだよ。この世界、物騒すぎんだろ。
『ギャウ!』
『ギョオオ!』
おまけに後ろからは、さっきの小人みたいな化け物が待ち構えていた。
こいつらが姿を見せなかったのは挟み撃ちできるタイミングを見計らっていたからか。
不味い。退路を塞がれた。
俺は忙しなく前後に視線を送り、必死に打開策を考える。
しかし、そう都合よく名案が浮かぶ筈も無い。俺は焦燥感に襲われ、額の上に冷や汗を浮かべた。
「万事休す……か」
俺が吐き捨てるように呟くと、それを合図に両方向から化け物達が襲ってきた。
――絶体絶命。
俺は、静かに死を覚悟した。