プロローグ『欠陥勇者は必要ない』
――気が付くと、俺は見知らぬ場所に立っていた。
「……漆黒の勇者……ですか。これは正直、如何なものでしょう?」
俺を中心に広がる、ドームのような半球状の部屋。そこは全体的に白く、何処か神聖な雰囲気を漂わせていた。
足下には幾何学的な模様が刻まれていて、周囲の壁には隙間があり、そこから淡い白光が差し込んでいる。
――神殿?
俺の知っている形とは少し違うが、受けた印象はそれに近いものだった。
「もしもし、聞こえていますか?」
「……ああ」
正面に立っているのは、純白の法衣を纏う美少女。
彼女は俺の答えに満足したように頷き、続けて質問を重ねた。
「失礼ですが、元の世界の記憶は何処まで保持していらっしゃいますか?」
彼女は湖のように深みのある碧眼で、俺の顔をじっと見つめてくる。
俺はその眼に魅入られながらも、言われたとおり自分の記憶を探ってみた。
そして、瞠目する。
「……嘘、だろ?」
――何も、思い出せない!?
御守集という名前を除いて、俺の記憶は何も残っていなかった。
家族も、友人も、趣味も、思い出も、何一つ記憶の中には存在しない。
必死に思い出そうとしても、まるで白い霧に包まれたように求めるものは見つからなかった。
今まで何をしていたのか、それすらも思い出せない事態に焦り、俺は浅い呼吸を何度も繰り返す。
冷や汗が頬を伝う。心臓の鼓動がやけに耳朶に響いてきた。
――おかしい。忘れてるわけが無いんだ!
俺はさっきこの部屋を見て、自分の知っている知識と比べた筈だ。
そして神殿みたいだと結論付けた。それはつまり、俺が神殿に関する記憶を持っていることに他ならない。
だというのに、いざそのことに触れてみると、俺の知る神殿とは何なのか、その答えがまるで浮かんでこなかった。
俺は縋るように正面を見据える。
「名前以外……何も思い出せない! これは一体どういうことだ!?」
目の前の少女は俺が記憶を失っていることを見越していた。
だから彼女に聞けば、この状況を何とかしてくれると思ったのだ。
「……すみません。それは召喚による副作用であり、召喚が成功したという証でもあります」
しかし、その期待は裏切られる。
少女は俺から目を逸らし、申し訳無さそうに呟いた。
「貴方には何のことか分からないと思いますが、ここは貴方が元いた世界とは全く異なる世界なのです」
「……は?」
「今この世界には災厄が訪れています。何者かが邪神の封印を解き、そのせいで瘴気が溢れ、数多くの魔物が暴れているのです。そして……残念ながら私達にはそれを止める手段がありません」
……この人、中二病だ。
記憶が全く残っていない筈なのに、不思議とそんな言葉が脳裏に過ぎった。
しかし少女の声音は真剣そのものであり、とても冗談だとは思えない。
何より、美少女の話を安易に聞き流せるほど俺は女に耐性が無かった。
「……そこで私達は過去の歴史に従い、勇者の素質を持つ者を異世界から召喚することにしたのです」
「その言い方から察するに、過去に邪神を封印したのは勇者だったんだな?」
「はい。そして、今回は貴方が勇者として選ばれた」
そこまで言うと、少女は再び俺の顔を見つめ始めた。
そして次には、俺に向かって思いきり頭を下げるのだった。
「身勝手な話だとは思いますが、お願いします! どうかこの世界を救ってください! 失った記憶も元の世界に帰る時、必ず思い出す筈ですから!」
「いや……俺にそんなこと言われても」
少女の気持ちは分からなくも無いが、いきなりそんなことを言われても困る。
記憶喪失だから断言できないが、俺は多分、戦いとは無縁の生活を送っていた一般人の筈だぞ? もし元の世界で戦いを経験していたとしても、その知識を活かせない今の俺には無理な相談だ。
試しに思い出そうとしてみたが、案の定、力になれそうな記憶は浮かんでこなかった。
しかし、どうやら少女には何かの確信があるようだった。
「とりあえずこの神殿の奥に行きましょう。そこで貴方の力が分かる筈です!」
少女は堂々と断言し、彼女の後ろに隠れていた奥の部屋へと進んでいった。
そこまで自信満々に言われては、断るわけにもいかないだろう。
それに正直、俺も自分に何ができるのか知りたかった。
それはきっと、この世界で唯一知ることができる、俺自身の情報に違いないのだから。
「こちらです」
「……水晶玉?」
奥の部屋は先ほどに比べて、随分と小さな空間だった。
俺達二人だけですでに窮屈さを感じる。広さとしては大人三人で満杯と言ったところか。
気のせいか、さっきよりも少女の存在を鮮明に感じるせいでどうにも落ち着かない。
そんな俺の目の前には細長い台座が設けてあり、その上に透明な水晶玉が置かれてあった。
「その水晶は触れた者の潜在力、すなわち魔力を測ることができます。……このように」
そう言って少女が実際に触れてみると、水晶は淡く光り輝き、空中に文字を投影した。
俺はその文字を読めることに驚きつつも、静かにその内容を読み上げる。
「適正魔力は聖属性。潜在魔力がS……これって凄いのか?」
「ふふふ。自分のことなので少し答え難いですね。ですが重要な事なのでお話します。自分で言うのも恥ずかしいのですが、一般の方々に比べれば遥かに凄いと思います。適正魔力で聖属性を宿している者は私を含めて世界に三人しかいませんし、潜在魔力のランクはSが最高値ですから。しかし、私はそれを自慢するつもりはありません。どんなに大きな力を持っていても、邪神相手には全く通用しないのですから」
少女は口でそう言いつつも、何処か誇らしげな表情を浮かべている。
いや、そんなに綺麗な笑顔でもないか。アレは……もっと……何だっけ?
一瞬、何かを思い出したような気がしたのだが、その記憶は掴み取る前に消えてしまった。それが……酷く残念な気がしてならない。
今思い出さなければ後悔する、そんな不安だけが俺の胸中に広がった。
「さ、勇者様もどうぞ」
「あ、ああ……」
少女に促がされ、俺は恐る恐る水晶に触れる。
すると、水晶はさっきと異なる輝きを見せ始めた。少女が触れた時と違って、文字を投影するのが若干遅い。
しかしそれも数秒の誤差であり、今目の前にはしっかりと俺の魔力情報が表示されていた。
『適正魔力:無属性 潜在魔力:D』
それが、水晶玉が投影した内容だ。
適正魔力が無属性ってどういうことだ? あんまり想像できないんだが。
それに潜在魔力がDっていうのも気になる。最高値Sでも邪神相手には通用しないんだろう? これで本当に俺が勇者だって証明できるのか?
俺は後ろを振り向き、少女に答えを求めた。
「……ぷっ」
次には驚愕。
俺は、少女の顔を見て、思わず一歩後ずさりした。
「あっははははははは! 黒髪で潜在魔力がDランク!? なんて救えない欠陥勇者なんでしょう! あはははは……はぁ……はぁ……面白い!」
向けられるのは嘲笑。続けて侮蔑の視線が向けられた。
「……はぁ。とんだ茶番でしたね。黒髪黒目、その漆黒の容姿ですぐに出来損ないと分かっていましたのに」
俺は少女の変わりように冷静ではいられなかった。
同時に、さっき思い出しかけた記憶の正体が明らかになる。
それは周りを見下す笑い。自分が特別だと信じて疑わない自己中心的な女の顔。
俺は元の世界でも、誰かに似たような笑みを向けられたことがあるのだ。
少女はその誰かと同じ顔をして、俺に迫ってくる。
「何も知らないようですから教えてあげますけど、この世界じゃ貴方のような漆黒の容姿は嫌われているんですよ? 女神の加護も与えられない、邪神と同じ容姿だからという理由でね」
「……っ!?」
「さっきまでは貴方を勇者だと思って隠していましたが、もうその必要も無さそうなので言いますね。私も漆黒は嫌いなんです。さっさと消えてください、魔力が最低値の偽勇者さん!」
頭の中が急速に冷えていく。
皮肉な事に、俺は相手に侮辱されて初めて自分がどういう存在なのかを理解した。
――なるほど。とんだ茶番だな。
考えてみれば分かることだ。
全く無関係の世界で暮らしていた人間を召喚し、自分達の世界を救わせようだなんて、あまりにも理不尽すぎる。そんなふざけた話、普通なら誰だって断るだろう。
だけど今の俺は普通じゃない。なにせ記憶を全て失ってしまっているのだ。正常な判断なんてできるわけがなかった。
そこまで考えて、俺は最悪の結論を導き出した。
「勇者……? 奴隷の間違いだろう?」
「……ふふふ。まぁ、なんて人聞き悪いことを言うのでしょうか」
「邪心を倒せば元の世界に返してくれる。おまけに記憶も戻ってくる。……記憶喪失者にとっては魅力的な餌だよな」
「あら、酷い解釈ですね。それはあくまで召喚術の都合上仕方が無いことであって、意図的なものではないのですよ?」
少女は俺の言葉を面白そうに聞いている。
そしてわざとらしい反論をするたび、見下すような視線を向けてきた。
俺は黙って睨み返す。自分でもかなり驚いているが、どうやら俺はこういう空気が性に合っているらしい。
酷い話だが、俺は馬鹿にされることに慣れていたのだ。
「ま、どうでもいいでしょう? 貴方はここにいなかった。これからそういうことになるのですから」
「……」
「ふふふ。安心してください。別に貴方の命を奪うつもりはありません。セイント王国の聖女が殺生などするわけにはいきませんからね。……ただ、欠陥品を召喚してしまっただなんて、周りに知られるわけにもいかないでしょう?」
少女は可愛らしく片目を瞑り、人差し指を口元に添えた。
欠陥品は必要ない。残すわけにもいかない。だから証拠隠滅する必要がある。
彼女は言外にそう伝えているのだ。
「……聖女だと? 悪女の間違いなんじゃないのか?」
「ふふ、その減らず口もすぐに叩けなくなりますよ。【ホーリープリズン】!」
俺が鼻で笑ってやると、少女も嗜虐的な笑みを浮かべた。
次の瞬間には俺の周りに光が現れ、あっという間に俺の体を包み込んだ。
「なっ!?」
「ではしばらくお休みになられては? 貴方はこの後『魔霊の森』で無様に喚き続かなくてはならないのですから」
「――くそっ! 冗談じゃねえ! 俺を元の世界に返しやが……れ……」
俺は白色の光に照らされながら、徐々に意識を手放していく。
記憶が無いということが、ここまで自分を不安定にさせるとは思わなかった。
何も分からないからどうしようもない。そんな気持ちが俺自身を無関心にさせていく。
少女に対する怒りすらも、何処か他人事のように思えた。
――どうか、これがただの悪夢でありますように。
そんな願いを最後に抱き、俺は静かに意識を閉ざした。
後で少し修正することがあるかもしれません。