死考錯誤
男は今日も、同じ時間に同じ場所に立っている。
男にとっての日常や平穏が、浮き彫りに、根こそぎになった日から、今日で一年が経とうとしている。
その日からずっと、プログラムに忠実な機械人形のように、毎日この場所に通っているのだ。
「れ……い……」
花束を抱えた男が、口を開く。
かすれた声が出たが、これもいつもと同じ。
男の中で形成された、様式のようなものだ。
「麗……」
名前を呼ぶ声は、先ほどよりも鮮明に発せられた。
しかし、呼ばれた名の主は、沈黙すら返さない。
男は墓石に、その下に眠る恋人に声を投げていた。
男は空しく響く自分の声にも、すっかり慣れていた。
三百日以上も、同じ事を繰り返しているのだ。
それでも男は、心中の空虚さや喪失感、そして何よりも愛情を風化させないために、来る日も来る日も彼女の墓前に立っている。
「ごめんな……。まだ犯人が見つかってないんだ」
いつもの言葉。いつものトーン。何も変わらない、謝罪の台詞。
男は跪き、墓前に花束を供える。
そして心の傷を塞ぐように、手を合わせた。
幾度と無く繰り返した流れだが、この瞬間だけは、自分の無力さに押しつぶされそうになる。
痛みを噛み締めながら、顔を上げ、辺りを見渡した。
市内でも有数の立派な霊園が、うっすらと雪化粧をしている。
今も雪が降り続け、見ようによっては儚げで美しい光景だ。
周りには男以外の人間は居ない。
こんな季節外れの時期に、墓参りをする者など居るはずもなかった。
「?」
しかし、今日だけはいつも通りとはならなかった。
遠くの景色にばかり目を向けていたせいで気付かなかったが、すぐ側まで一人の男が近づいていたのだ。
どうやらその男も、墓参りに来ているようだ。
今日まで彼岸を除けば、自分以外にこの場所を訪れる者など居なかったため、男は心底不思議に思った。
男の姿を捉えた瞬間に「墓参りに来た」と思ったのは、何も勘というわけではない。
男の衣装は、他に形容しようもなく喪服姿だった。
柄の入っていない黒のスラックスと背広、それらを覆うコート。ネクタイからハットにいたるまで、全身に黒色を纏っている。
喪服の男は、呆けたように周囲を見渡す男の姿を、申し訳なさそうな目で見つめていた。
口元には気まずさからか、微笑を浮かべている。
あまりに突然の登場に、男は少しの間、その喪服姿を見ながら固まってしまった。
「あの、すみません……」
喪服の遠慮がちな声を聞き、男はふと我に返った。
「あぁ、いえ、何か御用で?」
男はこの一年間、ほとんど人と話す機会が無かった。
恋人の死をきっかけに、塞ぎこんでしまったからである。
そのため、意識したわけではないが、口調がぶっきらぼうなものとなってしまった。
男の言葉を受けた喪服は、口元をさらに緩めながら言葉を吐く。
「用というほどでは。ただ、もし失礼でなければ、そちらの墓石に、花を一輪供えてもよろしいでしょうか」
見ると喪服の手元には、真白い百合の花が一輪握られている。
男はこの申し出に、どう対応したものかと迷った。
理由としてはもちろん、全くの他人であるこの喪服に、わけも解らぬまま、今でも大切な彼女との関係に介入される事が、甚だ不快であるという思いからである。
しかし、男の中に他人と死の悲しみを分け合える事ができるかもしれないという、ある種の願望が、この瞬間に生まれた。
それは、長らく人との接触を断ち、孤独と自責に塗れた男にとって、とても魅力的な提案に思えた。
結果、男は曖昧なまま頷き、喪服に墓前を譲った。
そんな男の挙動を見ていた喪服は、しかし、すぐに墓前に向かうことなく、男にまだ遠慮がちな視線を向けている。
今度は男が、気まずさに耐えられず、喪服に声をかける。
「あの、あなたも墓参りですか?」
「えぇまぁ、そんなところです」
喪服は、先ほどと変わらず申し訳なさそうな口調で答える。
「私にとっては、もう日課になっていますが……」
そんな喪服の返答に、男は心から同情した。
「そうでしたか。よほど大切な方を亡くしたのですね」
男は言いながら、先ほど抱いた願望が叶うと確信した。
「そういうことでしたら、自分にもあなたの気持ちが痛いほどわかります」
男の言葉を受け取り、喪服は少し小首をかしげる。
「と、言いますのは?」
辛気臭い喪服衣装に不釣合いな仕草に、男の唇は笑みを湛えた。
「ちょうど一年前に、恋人を交通事故で亡くしまして……」
それから男は、恋人の死について語った。
といっても、多く語ることなど無い。
よくある恋人同士の戯れや、生前どんな女性だったか。
失った当時の絶望や轢き逃げした人物への憎悪などを、つらつらと口に任せただけの話だった。
それを喪服の男は、「そんなことが」や、「それはそれは」など、調子良く合いの手を入れながら、神妙そうな顔で聞いていた。
「そんな経験をしていますから、あなたの痛みはわかるつもりです」
男がこんな言葉で話を締めると、喪服は残念そうな顔をした。
「そうですか。では、花を供えるのは遠慮します。不躾な頼みをしてしまいましたね」
諦めの声と共に立ち去ろうとする喪服を、男は慌てて引き止めた。
「あぁ、いえ、お願いします。ここまで話を聞いてくださったのですから」
男は、今この喪服に離れられたら、二度と他人と口を聞けないようになるのではないかという、説明のつかない恐怖に捕らわれていた。
あまりに必死な男の懇願に、喪服は戸惑いを見せる。
口元には、笑みが戻っていた。
「いえ、しかし……。あまり他人に介入されたくは無いでしょう?」
「構いません。是非」
男の承諾の言葉を受け取ると、喪服は「では」と言い、今まで浮かべていた笑みを消すと、悲痛な表情に切り替える。
そして、しげしげと歩き出し、墓前の前に跪く。
手にしていた百合の花を丁寧に供え、両手を合わせて、目を閉じ、祈る。
一連の動作を見ていた男は、この喪服がこそが、墓の下に眠る彼女に祈りをささげる事のできる存在なのだと思えた。
同時に、そんなことを考える自分に驚愕した。
余計な思考を振り払うように喪服から目を離すと、自然、周囲の墓石が目に入る。
そこで男は、強烈な違和感を感じた。
「あれ……?これって……」
「おや、気付いていませんでしたか」
祈りを終えた喪服が、男の背後に声をかける。
振り向くと、喪服の表情は、今まで浮かべていたどの表情とも違う、意味深な笑みがあった。
「全部、同じ、花?」
搾り出すような男の声に、喪服は満足そうに頷く。
「そうです。この霊園全てに百合の花を供えました。あなたの彼女で最後です」
最初に周囲を見たときは、降り積もる雪の白と同化して気付かなかったが、よく見ると喪服の言うとおり、一つ一つの墓石に、雪よりも一層白い百合の花が、一輪ずつ供えてある。
「どうして、こんな事を……?」
男は呆然としながら疑問を吐く。
「先ほども申しましたとおり、これが私の日課ですので」
男が理解を示さないでいると、喪服が再度言葉を放つ。
「私にはね、解らないんですよ。『死』というものが」
「解らない……?」
口から無意識に零れた独り言を、喪服が受け取り、答える。
男も呆けたまま、返答のような言葉を返す。
「えぇ、さっぱり。ですからこうして、多少なりとも『死』に近づこうとしているんですよ」
「何を言って……」
「あなたもたった今、仰ったじゃありませんか」
ここで初めて、男は喪服の眼を見た。
暗い井戸の底を固めたような瞳の中、純粋に答えを求める光が煌々と灯っているように見える。
「……何をですか?」
おかしくなりそうな瞳を直視できず、男は目を逸らしながら聞き返す。
「私が墓石に花を置く行為。それを『どうして』って」
「言いましたが、それが……?」
男は喪服の問いに、答えるがままになっていた。
「私も疑問なのですよ。墓石の前に花を供えたり、手を合わせたり」
「それのどこが疑問なんですか。当たり前のことでしょう」
「しかし……」
男の言葉を一瞬考えるも、喪服はすぐに先ほどと同様の笑みを浮かべる。
「そこにあるのは、ただの死骸ですよ。それを大切に思うなんて、とても……」
「………………あんた」
男の中で積もっていた不快感が、喪服の言葉で変質した。
それは今まで感じた事も無いほどの、怒りの感情。
男は自分でも気付かないうちに、喪服の胸倉に掴みかかっていた。
「あんたは、そんなふざけた理由で、麗の前に立ったのか!!」
男の激怒の熱に当てられながらも、喪服は表情を崩さない。
「何もふざけてなんていませんよ。怖いですねぇ」
「あぁ?!」
「私は、何も感じないと言っているだけじゃありませんか」
「………………」
男の腕が、一層の力を込めて喪服を締め上げる。
「あんた、一体何言ってんだ!?」
男の頭には当然、喪服と悲しみを分け合うなどという考えは、怒りで燃え尽きていた。
「なるほど、解りませんか……」
言いながら喪服は、硬く締め付ける男の腕に手をかけ、何でもないかのように軽々とそれを振りほどいた。
「では、その辺りから説明しましょうか」
「説……明……?」
男は喪服の不気味さと、怒りからの興奮に息を切らせながら、喪服の言葉と対峙する。
「そうですねぇ……。事の始まりは、私の父親が死んだ時です」
「なっ……、はぁ……?」
喪服の突然の告白に、男は面食らう。
喪服は気にも留めずに『説明』を始める。
「私は信じていたんですよ。人間の成す事は全て、どんな形であれ有意義なものであると」
「………………?」
「事実、それまでは何事にも、それなりの結果が伴ってきました。良くも悪くも」
「それが……」
「しかし、父が死んだとき、私は愕然としました。何も無かったんです。『死』という事柄には、何の結果も出ませんでした」
「どういう……事だ……?」
「父親が死んだというのに、私は何も感じなかったんですよ。『死んだ』という事実にも、泣きじゃくる親戚も、私には全くの無意味に思えました」
「………………」
「恐ろしかったですよ。自分の信じていたものが、こんなにも容易く、しかも自分の心で崩される事が……」
語る喪服の身体は、小刻みに震えていた。それは、雪の舞う寒空の下だからではない。
初めて剥き出しの感情を見せた喪服に、男は続きを促す。
「それから……。それから私は、各地を転々としました。そして、墓地を見つけては、そこに埋まっている全ての人物を調査した上で、百合の花を置いていきました」
「………………」
「そうすることで、少しでも『死』を理解できると。有意義な、意味のある『死』を見つけられると」
「じゃあ、ここにも……」
「はい。その一環です」
喪服は当然のように答え、しかし、と言う。
「しかし、ここも空振りでした」
「空振り……?」
喪服はここで『空振り』という言葉を使った。
『ここも』とも。
「ここにも大した『死』はありませんでした。いつものように空振りです」
「………………はは」
喪服の言葉に、男は乾いた笑い声を上げた。
意味の無い、空っぽの声。
「それじゃあ、何か?麗の死も、あんたにとっては、意味が無かったってか?」
男の問いに、喪服は淡々と答える。
「私にとって、というより、全てにおいて麗さんが死んだ事は意味の無い事です」
男は、自分の心に黒い熱が湧き上がるのを感じた。
それを隠すことなく、直線で喪服にぶつける。
「いい加減にしろよ……。知ったような口叩きやがって」
「おやおや、理解できませんでしたか……」
喪服の声には哀れむような、一種の嘲りの成分が含まれていた。
男には、喪服の一言一句が、黒い炎にくべられる薪となっている。
「麗が死んだ事に意味が無いだと……?そんなこと、あんたごときに決められてたまるか!!」
どんなに怒りを向けられても、喪服は平然と、飄々と語る。
「とは言いましても、思い出してください?この墓石に花を置いた方は、私を除いてあなただけですよ。大多数の人間にとって、どうでも良いんですよ。この程度の『死』なんて」
瞬間、男の炎は爆発した。
それは物理的な痛みを伴って、男の握り拳に響く。
このときの男は、自分が何をしているのか、全くというほど理解できていなかった。
意識が飛ぶような感覚がしたと思ったら、喪服が不恰好に倒れていた。
それから、何度も何度も、喪服の腹を、顔を、頭を、狂ったように蹴りつけた。
いや、実際に狂っていたのかもしれない。
男を蹴りつけている間、人間の言葉を発していたとは思えない。
ただただ、一心不乱に、『殺す』ことしか考えていなかった。
しばらくすると、多少の冷静さが戻ってきた。
墓地に転がる喪服は、不愉快な笑みも言葉も無くしている。
それを確認すると、男は彼女の墓前に供えられている一輪の百合の花を手に取る。
男は、花を地面に落とし、一度だけ思いっきり踏みつけ、立ち去る。
純白の百合の花弁は、血の足跡で汚れていた。
それ以降、男はこの霊園に姿を見せなくなった。
雪の積もった墓地に、影が転がっていた。
いや、影ではない。
全身を黒色で包んだ、喪服姿の男だ。
喪服は自分の血溜りの中でしばらく硬直していたが、突然震えだした。
それは雪の舞っていた、寒空の下にいるからではない。
震えは痙攣に変わり、爆ぜるような笑い声になった。
「……ふふっ…………あっははははははははは!!!」
影の爆笑の中に、言葉が混じる。
「あっははははははっ!!そうか!これだ!!」
影はうずくまり、なおも歓喜の声を上げる。
「そうだ、『殺人』!ふふ、なぜこんな簡単な事に気が付かなかったのでしょう!」
「人を殺せば、当然被害者は『死』ぬ。そして、殺人者は『死』刑。被害者の親しい人物は犯人の『死』を心から望む……。完璧じゃあありませんか!!」
「これなら『死』の結果として『罰』が伴う!無意味な死骸が生まれない『死』!!これなら!これなら!!」
「くっ……。ふふ…………。では……」
影が立ち上がる。
喪服姿の男の顔は、自分の血に塗れ、瞳孔の開きかかった目は、大きく見開き、血走っている。
地獄の悪鬼の形相だ。
「早くあの方を追いかけなければ……。わたしを、殺してもらわなければ……」
喪服が地面を見やると、一冊の手帳が落ちていた。
拾い上げ、とある死亡記事をまとめた、几帳面な文字列を眺める。
「『櫻下 麗。酒気帯び運転の車に轢かれ、死亡。』……あなたのことですよ」
喪服は、すぐ側の墓石に声を投げる。
「『犯人は未だ逃走中』ですか……」
喪服は堪え切れずに、また笑い声を漏らす。
「ふふふ……。あの様子じゃ、この犯人、あなたの彼に殺されますねぇ」
「あっはは……。楽しみですねぇ、楽しみですねぇ……」
喪服は、『櫻下 麗』の墓石を、がっしりと掴む。
「あなたのお陰ですよ、『櫻下 麗』さん!」
「あなたのお陰で、私は長年の苦しみから解放されました。心からお礼を申し上げますよ」
「……あぁ、やはり。『殺された』あなたの死は、無意味なんかではありませんでしたよ!」
「素晴らしい方ですね、あなたは!これから毎日、あなたには花を置いて差し上げます」
「………………」
喪服に、空から一筋の光が差す。
空を見上げる。
雲の切れ間から覗いた空は、美しく輝く、冬の青空だった。
終