闇の底
深く集中することは深く潜ることに似ている。
数学の参考書を片手に、私はそう考えていた。
息をすることも忘れて頭の中で解をつなぎ、その解さえも足がかりにして、次の解へとつなぐ。
深く潜ることは楽しく、時間の経過も分からなくなるが、ふいにそれ以上潜ることのできない辛さを感じて、私はいつも水から顔を上げてしまっていた。まるで水音のように周囲の空気が鼓膜を叩き、無数の音が私を襲った。
冷房の小さな駆動音、
誰かが本をめぐる音、
外から聞こえる蝉の声、
遅れて届くのは自分の息づかいか。
襲ってくるのは音だけではない。
忘れていたように体温が急激に上昇し、額から汗がにじむ。本当に潜水をしていたかのように心音が乱れ、小さく熱のある吐息を漏らすが誰にも届かないうちに冷房の風と駆動音にかき消された。
なにもしていないのに一人勝手に汗だくになっていることに気恥ずかしさを感じながらも、ブラウスの襟を持ち上げてなるべく小さな動きで首元を扇ぐ。ボタンを一つ開けてしまおうかとも考えたが、人目が気になって思いきれなかった。
自宅ならまだしも公共の場で胸元を大胆に開ける勇気は私にはない。
何よりも、隣にいる彼はいい顔をしないだろう。
ふと目をやれば彼はまだ潜っていた。
私と同じ時間に潜り始めて、私よりも長く潜れる彼はきっともっと深いところに行けるのだろう。
私が息を継ぐ瞬間に垣間見る真っ暗な水の底。私はその先を知らない。
知らないし、きっと行けない。
深く潜れば潜るほどに水面は遠くなり、息を継ぐのが難しくなるように感じてしまう。その先にあるものを知りたい気持ちもあるが、それ以上に怖さが強い。
その闇の向こうには何があるの?
思わず口をつきそうになった疑問を必死に飲み込んだ。目の前で集中し続ける彼がどこか遠くにいるかのように錯覚してしまう。
ふいに、彼が小さな音を響かせて顔を上げた。私のような無様な息継ぎではなく、彼はもっと静かに小さく息を吸う。
「おかえり」
私の言葉の意味が解らずに目を白黒させながら、彼が咎めるように口を尖らせた。
「またサボってる。試験の補講で休みがなくなるよ」
ただでさえ短いのだからとぼやきながら彼は再び大きく息を吸う。体温調整のためか、呼吸を整えるためか、気持ちを切り替えるためかはわからない。
わからないが、私にはまた深く潜るための準備のように思えてならなかった。
「ねぇ、試験が終わったらプールに行こうよ。海でもいいよ」
彼が潜る前に声をかけてみる。
私の声が届いたかどうかはわからないが、言い切った時には彼はもう音もなくペンを走らせているところだった。もしかしたらあの闇の向こうには彼がいるかもしれない。ふいにそう思った。
それならばもう少し自分も頑張ってみようか。同じところまで行けなくても、同じものが見れなくても、せめてそこに追いつく努力がしてみたかった。
深く潜ることは深く集中することに似ている。
もしかしたら無駄かもしれないし、遠回りな努力かもしれない。
それでも、水の底に行く練習がしたかった。
「試験が無事に終わったらね」
水にもぐり損ねていた彼がそっけなく彼がそう呟いて、とぷんと音のない水音を響かせた。
慌てて私も参考書に噛り付く。意識の底に深く暗い闇が見えていた。