彼の不幸は笑えません
地べたにひれ伏す様に土下座している男性と、目を見開いてそれを見ているエリク様。
そんな異様な光景が、目の前で繰り広げられていて。
その男性の口から告げられた言葉に、私は驚いて頭が真っ白になりました。
エリク様の婚約者である伯爵令嬢様が来るはずの日の午前中。
まだ朝食を終えた直後という朝早くに、その男性はお屋敷に訪れました。
黒い髪に黒い瞳、そして品の良さそうな眼鏡。
眼鏡越しでも、それなりに整った顔立ちだということがすぐに分かりました。
聞けば、彼は隣町の公爵様だと言います。
そして許可も得ずにずかずかとエリク様の前に現れたかと思いきや、そのままの勢いでその場に土下座をしたのです。
"アリアンヌを私に譲って欲しい"
男性の口から溢された言葉は、そこにいた全員の顔を驚愕の色に染めました。
そんな中、エリク様だけが、笑顔で。
"貴方なのですね、ずっと彼女の心にいたのは"
そう、優しい声で仰いました。
その時のエリク様の表情に、私はぎゅっと胸が痛くなりました。
あまりにも優しく、そしてあまりに切なげなその笑顔に。
笑っているのに、泣いているようなその表情に。
結局その後、あの公爵様とアリアンヌ様はご結婚されたと聞きました。
勿論、エリク様のお耳にも入っている筈です。
つまり、これは。
エリク様の失恋という事になります。
よく考えたら、これは私にとって、チャンスではないですか。
失恋して傷心中の彼を、側に寄り添って慰める。
そしていつしか彼の気持ちが私へと向いて…
なんてことも、今まで幾度となく想像してきました。
ああ、やっと私にもチャンスが巡って来たのですね。
今までめげずに頑張ってきた甲斐がありました。
これで恋敵もいなくなったことですし、後は押して押して押しまくるのみです!
「……で、何でそんな顔してんの?」
頬杖をついて呆れたように言ったのは、やはりアシル様で。
今は午後のお茶のお時間で、給仕中の私はティーポットを手にしたままう、と視線を逸らします。
「な、なんのことですか」
「ライバルもいなくなったんだから普通は喜ぶだろ。なのにお前はここ最近喜ぶどころか笑顔すら見せなくなった」
「何で?」と真剣な眼差しで問いかけるアシル様に、私はティーポットをぎゅっと握りしめます。
そして強張る顔に、無理やり笑顔を浮かべて。
「気のせいですよ」
言いながら少し震える手でカップに紅茶を注ぎ込むと、不意に私の手からティーポットが取り上げられました。
驚いて視線で追うと、少し眉を寄せたアシル様がそれを机に置いて再びこちらに目を向けました。
「誤魔化すな」
あまりにも真剣なその表情に、思わず目がじんと熱くなって。
慌てて下を向こうとしても、いつの間にか立ちあがっていたアシル様に顎を取られて上を向かされます。
それでもぐっと眉を寄せ、溢れ出そうになるものを必死に堪えます。
「……笑えるはず、ありません…」
エリク様が、笑って下さらないから。
チャンスとか、そんなもの、どうだっていいんです。
例えエリク様が他の誰かを想い慕い、そして妻に迎えようと。
あのお方が笑っていて下さるなら、それでよかった。
我儘を言うなら、やっぱり私の想いを伝えたい。
エリク様の一番お傍にいれる存在になりたいし、愛して欲しい。
だから心の片隅では、エリク様の失恋を嬉しく思いました。
私にもエリク様と結ばれる可能性が、僅かでもできたのだから。
だけど、それ以上に、悲しくなったんです。
酷く悲しげなエリク様のお顔が、見ていられなくなったんです。
あれからぼんやりとすることが多くなったエリク様。
私が話しかけると、悲しげな笑みと少しの言葉が返ってくるだけで。
それでも私に心配かけまいと無理に笑顔を作るエリク様に、どうしようもなく胸が苦しくなりました。
自分の想い人のそんな表情を、見たいはずがなかった。
そんな表情を見るくらいなら、他の女の人と幸せそうに笑っているエリク様を見ている方がよっぽどましだった。
「何で我慢すんの。泣きたいなら泣けば良いだろ」
両手で私の頬を包み込んで、アシル様はそう言いました。
思わず私はきゅっと口を引き結んで、首を横に振ります。
くっとせり上がる喉の痛みにも耐えます。
「何で」
「そんなの、できるはず、ありません……エリク様が辛いのを見せないのに、私が泣いて良いはずありませ――――」
不意に視界が真っ暗になって、全身を圧迫感が包み込んで。
自分が抱きしめられているのだと感じて、大きく心臓が波打ちました。
そして、堪えていたはずの涙が塞き止めを無くしたように溢れ出しました。
何か言おうにも全てが嗚咽となり口から漏れて。
胸と喉と鼻が、酷く痛んで。
あまりの苦しさに膝に力が入らなくなった私がその場に崩れ落ちようとすると、それを許さぬように腰に回された腕に力が入りました。
「アシルさ…」
「何で、俺じゃないんだよ」
そう掠れた声で囁くように言ったアシル様は、私の腰を抱いたまま片方の手を私の頬に添えて顔を覗き込みました。
「泣くぐらいなら、俺を見ろ」
そう言った目があまりにも真剣で、不意に唇に触れた感触を私はすぐには理解することが出来ませんでした。