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心は君に

作者: 逢坂桜

 もみくちゃにされながらたどり着いたクラス表、男子の列に自分の苗字を見た瞬間、先生への怒り沸騰。

 「なんであたしの名前があんなトコに―」

 1年2組10番、高坂敬。

 「こうさかけい?」

 声に出すと、2,3人前にいた学ランが一人、振り向いた。

眼鏡をかけた気難しそうな顔は、明らかににらみつけた後、なにも言わずにさっさと人波から離れていった。

 高坂桜。

もう一度クラス表を見ると、高坂敬の名前の隣に、自分の名前を見つけた。


 「すっごい人で、苦労しちゃったよー」

 「ギリギリで学校に来るから、そういう目に合うんでしょ」

 「あたしのも見ておいてくれたっていーじゃない。手間は変わらないんだし」

 「甘い」

 東城高校1年2組の教室は適当に騒がしい。

あちこちで、同じ出身中学同士で集まっているようだけど、さっきの男は一人だ。

机に突っ伏して寝ている。

 「変なヤツ」

 「誰がよ」

 「窓際の一番後ろ、ぐーすか寝てるヤツ」

 佐伯みつせは首から上を動かして、桜の言った方向を見た。

 「あんた。なんであんな男、気にしてんの」

 「クラス表見た時に、にらまれたから」

 「どうせまた、ぶつかったか足を踏んだか、どっちかでしょ」

 「ちが、うと思うんだけど」

 しかし確信はないのか、眉を寄せて思い出そうとする。

あの時。

 「多分、アレが”高坂敬”だと思うんだけど」

 「奇遇ね。出席番号順なら、隣同士かもね」

 「えーっそれだけはやだ。あいつ、あたしのことにらんだもん」 

 「足踏まれたら、誰だってにらむに決まってるじゃない」

 「違うってば」

 チャイムが鳴って、見計らったように40代の男が教室に入ってきたのを潮に、生徒達は適当に着席した。


 東城高校から徒歩15分の距離に、高坂桜の家はある。

築20年近いマンションは、小学校・中学校・高校と、まんべんなく学校が近所にあるため、家族連れが対象のマンションである。

403号室の表札は”高坂霞・桜”となっている。

 「ただいまー」

 日当たりのいい奥の和室に、たいがい母はいる。

 「ただいま、お母さん」

 ふすまを開けると、朝見た和服とは別の着物を着て、母は新聞紙の上に何種類かの花を広げて活けていた。

なんとか流の免状を若い頃にもらって、マンションにある談話室で週に1回、生け花教室を開いている。

 「おかえりなさい。早かったのね」

 自国は正午少し前、普通の高校生なら、半日で学校が終了する日は誘い合って街へ繰り出すところだろう。

 「うん。みつせはクラブに顔出すって言うし。待つのも面倒だから」

 「着替えたら?お昼にするから」

 「うん」


 昼食はちらし寿司だ。

母は祝い事の節目に、必ずちらし寿司を作る。

今日は他に、おすましと煮物だった。

 「桜が出かけた後、お父さんから電話があったわ」

 「なんて?」

 「入学おめでとうって。入学祝を送ってくださるそうよ」

 「ふーん。いつ届くかな?」

 「今晩にでもお返事を書いておいてね。首を長くして待ってらっしゃるだろうから」

 「電話じゃダメ?」

 「手紙のほうが、後で読み返す楽しみがあるでしょう?」

 「はぁい」

 母はにこにこと微笑んでいる。

38歳のはずだが、15になる桜が時折感じるほど、母には少女性が色濃く残っている。

にっこりと微笑むその表情は、まさしくそれだ。

 どのような理由かは知らないが、桜の物心がつくころには、両親はすでに離婚してしまっていた。

気がついたら、母とここに暮らしていた。

だからこそ桜は、いつまでも母と母の笑みを守っていたい、といつからか考えていた。

 「学校はどう?」

 「あ、あのね。同じ苗字の男子がいたの。高坂敬」

 「そう」

 「そいつね、あたしをにらんだの。なんか変なヤツ」

 「桜。初対面の人を損な風に言うのはおよしなさい」

 「はぁい」

 唇をとがらしたまま、桜は返事した。

いつもと変わらぬ春の午後だったが、母の顔に微かな苦味が走っていたのを、桜はすっかり見落としていた。

 「今日は教室の親睦会なの。夕飯は作っておくから温めて食べてね」

 「ん、わかった。今日はどこ?」

 「ホテルの料亭で懐石ですって。次から次へとよく見つけてくるものね」

 「みんな暇そうだもんね」

 「ここだけの話よ」

 その日の晩、父親が事故で死んだ。


 遺影を見ても、なんの感慨も湧いてこなかった。

手紙は何通か書いたけれど、返事をもらったことはない。

写真はなく、母もろくに話してくれなかったし、特に聞こうともしなかった。

 「・・・」

 桜は手を合わせ、数秒、黙祷した。

なにも、浮かんでこなかった。

 「桜」

 長いのか、母が呼んだ。

立ち上がり、隣に座る。

 父親は再婚もせず、桜たちが住んでいるマンションより、もっとみすぼらしい平凡なアパートに住んでいた。

小さな個人医院は形だけで、嘱託医師として総合病院へ勤務していたらしい。

この町の人間なら、一度は行ったことのある、駅から近い病院だった。

 年齢から言って父親の両親らしい、ひっつめ髪のばあさんと白髪のじいさんに、桜は形ばかりに頭を下げた。

霞も、深くお辞儀をした。

 「この度は、本当にご愁傷様でした」

 じいさんは顔を上げて、眼を細めた。

ばあさんはずっと、うなだれたままだ。

 「ほんまにようきてくれた。病院の人は、なんというか、なんでもソツなくしてくれるんじゃが・・・どうにものう・・・話すことものうてなぁ。あんたが来てくれて、ほんまによかったよ。連絡をとりおったことは聞いとったけど、ほんまによう来てくれた。ありがとう」

 「そんな・・・私にできることは、手を合わせることだけで」

 そういって、母は頭を垂れた。

じいさんはうんうんと大きくうなずいた。

話、というが、さっきから同じ言葉の繰り返しである。

気持ちがこもっているのはわかるのだが、老人というのはこういうものなのだろうか。

 ピンポーンとチャイムが鳴った。

 「あら」

 と、母は立ち上がり、玄関へ向かう。

 「どちら様―」

 不意に母の声が途切れ、桜は玄関を覗いた。

 「え?」

 父親と同年代の男と、おそらくは高坂敬という男が、立っていた。


 何故か別室にて、高坂母子と高坂父子は、向かい合っている。

なんとなく近寄りがたいオーラは、ジジババにもきちんと伝わっている。

 「・・・いいヤツほど早く死ぬ」

 喪服のポケットから煙草を出してくわえたおっさんは、憂鬱そうに言った。

視線を巡らせて、灰皿がないのに気づくと、煙草を収めた。

 15年、生きてきて、知らないことって山ほどある。

おっさんは母の兄、桜の叔父で、隣が息子、桜の従兄弟にあたる。

結婚前から兄妹は仲が悪く、互いの結婚を機に、絶縁したという。

しかし、桜の父親は共通の知人であったため、対面してしまったのだ。

 母は桜の隣をまったく離れず、むしろ身を寄せて兄を警戒しているようにも思える。

叔父は意に介す風もなく、それは息子も共通している。

 「さっさと焼香して帰ってちょうだい」

 棘のある母の声など、桜は生まれて初めて聞いた。

こんな乱暴な話し方も。

 「どうして長谷部は死んだんだ?」

 「事故よ。新聞も読んでないの?」

 「帰宅途中に車の運転ミス。あいつらしくない」

 「だから、なによ」

 明らかに母は気分を害した。

 「ところで、コレとは初対面だったな」

 叔父は従兄弟にちらっと視線を移した。

それを受けて従兄弟は小さく、本当に小さく、会釈した。

 「あなたが敬くん?私のこと、覚えてないでしょうね。敬くんのお母さん、暁子ちゃんとは友達だったの。同じ頃、同じ病院で出産したのよ」

 桜にとっては初耳だらけである。

昨日、初めて会ったと思っていた男が従兄弟で、更には生まれた時、すでに会っていたとは。

 「桜も覚えてないでしょうね」

 仏頂面でうなずいた。

 「あたりまえよ。そんな昔のことなんて。それよりお母さん。あたし、いままでなんにも知らなかった。どうして話してくれなかったの?」

 母はなんとも言えない顔を桜に向けた後、明らかに憎悪の表情を叔父に向けた。

 「兄さんが帰らないのなら、私達が帰ります」

 言うが早いか立ち上がった母を、慌てて桜は追う。

 「待て」

 「待ちません」

 「待て。コレは暁子の息子だ」

 仕方なく、という感じで、母は立ち止まって振り向いた。

 「そうよ。私の一番の友達、暁子の忘れ形見よ」

 「・・・その子はおまえの娘、俺には姪に当たる」

 「だから、なによ」

 やれやれと、叔父は肩を落とした。

 「おまえは全然成長しとらんな。初めて顔を合わせた従兄弟同士の前で、そんなことしか言えんのか」

 母は、桜の手を引いて、元通り腰を下ろした。

 「和解だ」

 瞬間、桜の手を強くつかみ、大きく眼を見張って兄を見つめた。

 「・・・いやよ。絶対いや」

 「子供同士だけだ。おまえが俺を許すはずがないからな。だが、こいつは別だろう」

 「そのとおりよ。兄さんは生涯許さないわ。だけど・・・」

 悲しそうに従兄弟を見た母は、視線を落とした。

刹那、痛みが走るほど、母は強く手に力を込めた。

 「わかったわ」

 つかんでいた手から、力が抜けた。

 「桜。あなたの従兄弟よ。私の親友の息子よ。仲良くしてね。敬くん。あなたの従兄弟よ。仲良くしてね。私と暁子ちゃんがそうだったように」 

 それまでは叔父ばかり見ていたが、桜は従兄弟を見た。

気難しそうな顔に陰湿な印象の眼鏡、いまも桜を見てはいるけれど、果たして母の言葉を聞いているのか、いないのか。

 「・・・えっと、よろしく。敬、くん」

 「よろしく」

 初めて聞いた声は、気難しそうな双眸とは裏腹に、耳に馴染んだ、


 外出していたのは半日ほどだったが、妙に疲れていて、桜はさっさと部屋着に着替えた。

 「ねぇお母さん。どうして叔父さんがいること、教えてくれなかったの?」

 「嫌いだからよ」

 今日ばかりは楽なホームウェア姿で、母は卓についていた。

 「あの人のこと、嫌いだから。話もしたくないの」

 「・・・兄妹なのに?」

 さすがに驚きを隠せなかった。

母子家庭ということを気にしてかどうか、母は対人関係にとても気を遣っていた。

生来備わっているのだろうが、およそ人を恨むとか妬むとか、嫌うなどもってのほか、という気持ちで人と接していた。

桜も、ドジで周囲に迷惑をかけることが多く、短気で欠点だらけなワリに、正面切って人に嫌われたことはない。

この母に育てられたからだ、と自負していた。

 その母が、これほどまでに嫌う人間が、この世に居たなんて―

しかも、血のつながった兄を。

 「どうして?昔から嫌いだったの?」

 「・・・そうよ」

 母は視線をそらして、眼を閉じた。

まるで痛みを耐えているように、見えた。

 「ごめん。もう言わない」

 断固として、桜は立ち上がった。

自分が守らなければならない母親に、そんな顔はさせたくない。

してほしく、ない。


 翌朝、登校して、初日に決められた机にカバンを置いた。

佐伯みつせの予言どおり、隣席は高坂敬、である。

その従兄弟が、ぬっと近所のデパートの紙袋を出した。

 「え?」

 「おまえの父親の遺品だ。渡すよう頼まれた」

 「あ、ありがとう」

 まったく想像できない出来事だったので、眼を白黒させて、なんとか両手で抱えるように受け取った。

従兄弟はこれで御役御免とばかりに、もうこっち視線すら寄越さない。

なんてヤツ。

 中を見ると、立派な革張りの雑記帳が数冊と、眼鏡ケースがひとつ。

母はこれをどうするのだろう、とほんの少し思った。

覗き見たい誘惑がフツフツと湧いてくる。

思えば、父親の名前すら知らずに生きてきたのだ。

 そして、死んでしまったいまも、実感すらできないほど遠い存在。

 「これくらい、いーよねー」

 言い訳のように独り言を言って、1冊、手に取った。

くたびれて黄色く変色した紙は、かなりの年数を思わせた。

青い万年筆でびっしりと書き込みがしてある。

人に読ませるつもりはないのか、あるいはこれが達筆と言うものなのか、崩したような字が横に並んでいる。



   高坂智を通じて高坂霞と知り合う。

   話をしているうちに、祖父が二人の父親を取り上げたと、

   父が二人を取り上げたことを知る。

   二人から、私も産婦人科の医者になるのか、と冷やかされる。



 おそらく叔父が高坂智だろう。

後は日常的なことがズラズラ書いてあるだけなので、適当に飛ばした。

 母の名前が日を追って増えていき、結婚の文字が飛び込む。



   高坂に、霞さんんと二人で、結婚を前提に交際していることを告げた。

   祝福してくれた。

   しかし、二人に共通した奇妙な感覚を覚えた。

   おだやかに微笑んでいる霞さんんとおだやかにうなずいた高坂。

   あまり仲の良くない兄妹と聞いていたが、結婚は別のはず。

   私はぎこちなく笑うだけだった。



 父親の性格なのか、奇妙に淡々と綴られている。

母は昔から兄を嫌っていたと言ったが、これを見る限り、それほどには見えない。

 それを収めると、別の1冊を取り出す。



   霞と明子さんは、たまたま4人部屋で二人きりになった。

   偶然だが、二人によってはなによりだ。

   二人の出産予定日は同じなのだから、二人三脚でがんばる、と霞は張り切っていた。

   懸念があるとすれば、高坂のことだ。

   暁子さんの夫でありながら、霞との不和を理由に、まだ一度も顔を見せていない。

   霞も気にしているが、やはり会いたくないのだろう。

   積極的に高坂を呼ぶ気はないようだ。

   初めての出産を前にした暁子さんの気持ちを考えてみろ、と言っても、

   親友だからわかっているの、一点張りで、耳を貸そうともしない。

   また暁子さんも出産前の霞を気遣ってくれて、平気だと言ってくれる。

   本当にいい友人に恵まれたものだ。

 

 

 自分の母親と従兄弟の母親は、本当に仲が良かったのだ。

それなのに、母は桜にその子供―従兄弟の存在をいままで一度たりとも、桜の前では口にしなかった。

いくら叔父のことがあるとはいえ、違和感を覚えた。

 あるいは、それは桜の想像以上に母の心をおびえさせていたのか。

それなら、自分は母を守らなければならない。

ぱらぱらとページを繰ると、かなり乱暴な筆跡が出てきた。



   暁子さんが死んだ。

   産後、顔色が悪いような気がしたが、霞もついているし、食欲も落ちておらず、

   よく眠っていたし、落ち着いたら検査をしようかと考えた矢先だった。

   なのになぜ、彼女は自殺したのか。

   出産を耐え抜いた母親は、想像以上の強さを見につける。

   その彼女がなぜ、自殺したのか。

   私にはわからない!



 手が震えた。

書きなぐられた父親の字は、衝撃の大きさを物語っていた。

何人かの子供を取り上げて、父親は母親の偉大さを感じていたようだ。

それなのに、母の親友は自殺した。



   私は暁子さんの自殺を見た看護婦から話を聞いて、そのままを霞に伝えた。

   深夜、病室を抜け出して屋上に上がった暁子さんを、

   ゴミ捨てのために外に出た看護婦が見つけた。

   暁子さんはしっかりした足取りで柵を超え、4階から落ちた。

   霞はなにも言わず、無表情のままうつむいていた。



 桜が顔を上げた時、敬がこちらを見ていた。

 「!」

 彼の母親が死んだことが書かれているのだ。

震える手で慌てながら紙袋に雑記帳を戻して、机の横に掛けた。

続きが気になるものの、取り出してまで読む気にはなれなかった。

 「親父が会いたがってる。今日にでも家に寄れないか」

 「あたしに?」

 「あぁ」

 問い返すのも妙なものだが、敬は真面目な顔でうなずいた。

気持ちの上で、やはり尻込みしてしまう。

表面上は叔父と命でも、母があれほどまでに嫌っている人間なのだ。

 「今日は・・・ごめん。また今度」

 「わかった」

 拍子ぬけするほどあっさりと敬は引き下がる。

父親に言われた用事を伝えただけ、という様子だ。

 「ねぇ・・・叔父さん、なんて言ってた?」

 「なにをだ」

 「なにって・・・お父さんのこととか、お母さんのこととか」

 「気になるなら、来い」

 眼鏡の奥の視線は、いつもと変わらぬ愛想なし。

けれど、この声音にある気持ちは、悪意なんて感じられない。

 「そう、しようかな」


 「ここっ?」

 「あぁ」

 叔父と従兄弟が暮らす家は、桜のマンションから、呆れるほどに近かった。

学区の編成では他学区になるものの、歩いて10分しかかからない。

 どこにでもある普通の家だった。

表札には見慣れた苗字。

 桜がいることなど忘れたように家の中に入ってしまった敬の後を追いかける。

 「よぉ。来たか」

 平日の午後と言うのに、叔父は少し酒のにおいをさせて、玄関に顔を出した。

 「弔い酒だ。一緒に飲めよ」

 言うなり、ドカドカ足音をさせて、奥に引っ込む。

ついてくることを疑わない足取りに、桜は頭をかすめた嫌悪感を忘れて、笑ってしまった。

玄関からキッチンと続いているリビング。

 敬はもう学ランを脱いで、テーブルの前であぐらをかいている。

その真向かいに座って、カバンと紙袋を横に置く。

 無造作に叔父は白いお猪口を桜に差し出した。

注がれた酒に、ちょっと口をつけてみる。

 「弔い酒だ。あいつは怒るかな。高校生の娘に酒を飲ますな、とか言って」

 顔を綻ばせる叔父から、ビッシリと字が並んだ雑記帳を書いていた父親が見えるようだ。

慣れているのか、敬もそれなりに飲んでいるのに、まったく顔に出てない。

 「叔父さんとお父さんて、仲良かったんですか?」

 「まぁな。あいつは人付き合いがヘタでな。それならいっそ誰も居なくていい、みたいに考えるほうだった。おう、こいつに似てるな」

 的を得ていて、桜は噴出した。

 「それでも、霞とつきあいだしてからは、俺にもいろいろと話しかけてくるようになったな。めずらしいくらい頭のカタい男だった。それはそれでおもしろかったがな」

 なにを思い出したのか、叔父は一人で笑い出した。

 「霞からいろいろと聞いただろう?俺のことも」

 「全然。お父さんのことも、叔父さんのことも」

 「なに?どういう意味だ。まさかなにも、なにも知らないのか?」

 真剣なまなざしで見つめられても、桜は困る。

 「あたしがちっちゃいころに離婚したのは知ってる。それだけ」

 「あいつめ・・・」

 お猪口から手を離すと、叔父はため息をついた。

 「実の娘になにも話さんとは・・・」

 が、ふと敬に眼をやると、口元に笑みを浮かべた。

 「人のことは言えんか。おい。おまえにも、母親や霞のこと、ほとんど話してなかったな?」

 「あぁ。叔母と従兄弟がいることは、初めて聞いた」

 叔父は自嘲気味に笑った。

 「じゃあ・・・昔話といくか。長くなるがな、少しつきあえ。知らんことも知ってしまえばつまらんことだ」

 言葉ほど、距離を置いた表情ではなかった。


 いまから20年前。

高坂智22歳、霞18歳。

そして、二人の幼なじみ、秋久慎一20歳。

 「子供の頃から3人一緒。霞がいじめられて泣いてたら、二人で仕返しやったもんだ」

 はじまりはバイクだった。

一番最初は、霞があこがれたから。

 海へと二人は出かけて、多少の心配あっても信頼した男だからこそ、智は笑って送り出し、帰りを待っていた。

 「霞がな。バイクじゃなかったが、怪我をしてな。俺は秋久を責め立てたよ。おまえがついていながらって」

 足をひねった程度の怪我。

もちろん後遺症などもなく、なにもかも元通りだった。

 だが、秋久は、妹から離れようとしない兄を、次第にうとましく思い始める。

そして―

 「二人はとにかく俺から逃げようとした。俺から離れたところで、二人で生活しようとしていた。それを聞いたのは後からだったが。あの時、俺の目の前で、秋久は霞を連れ出そうとした」

 昼下がり、智が玄関へ出てくると、秋久の切羽詰った怒鳴り声。

そして智を見た途端、霞の手を引くや否やバイクを急発進させた。

ここで逃がしたら、すべてが終わる。

 「俺はバイクの前に立ちはだかった。いや、そんな悠長な距離と速度じゃなかった。秋久が反射的にブレーキを掛けたとき、無理やり霞を引き摺り下ろした」

 そしてバランスを失ったバイクは転倒、電柱に激突。

ノーヘルだった秋久は即死。

 「その2年後だ。長谷部と霞を引き合わせたのは」

 その少し前、暁子を紹介されていたから、お返しのようなものだった。

 「それからトントン拍子に話は進み、結婚」

 

 叔父は物足りないのか、キッチンからコップと一升瓶を持ってきて、なみなみと注いだ。

 「まずはこんなところだ。霞が俺を嫌う理由がわかっただろう」

 「・・・その事故の時、お母さんは?」

 グイと酒を飲み干し、ふと視線を宙にさまよわせる。

 「引き摺り下ろした後、少しはなれたところに突っ立ていた。俺からは顔を見えなかったな。その後はろくに口も聞かなかった。人前では、別だったが」

 向かいの敬は聞いているのかいないのか、ただ酒を飲んでいる。

 「どうしてお父さんは良くて、その幼なじみの人はダメだったの?」

 叔父は虚を衝かれたように目を丸くして、桜を見つめた。

 「さぁな」

 眼をそらして酒を喉に流し込む。

 「ガキの頃から一緒にいた分、悪いほうにばかり眼が行って、いいところが見えなかったんだろ、俺には。血の気が多かったのも事実だがな」

 「・・・」

 桜は納得できない。

 「話の続きだ。おい、誕生日は6月14日か?」

 「なんで知ってるの?」

 「息子の誕生日くらい覚えとる」

 「え?」

 向かいに座る敬は、平然と、いつもと変わらぬ無表情である。

 「お前達は同じ日に生まれた。半分は偶然だがな」

 

 高坂智と清水暁子、長谷部克己と高坂霞は結婚した。

そして、順調に行けば妊娠、出産のはず。

 「高坂の家は、稀に子供のできにくい体質の者がいる。霞がそうだった」

 あまりに費用が高額なため、当時は広く世間に知られていなかったが、体外受精という方法がある。

子供ができにくいことは承知で結婚したのだから、長谷部は特にこだわらなかった。

医者であることも手伝ってか、天からの授かりもの、と受け取っていた節もある。

 だが、霞は違った。

たとえ借金をしてでも体外受精を行って、わが子の誕生を強く望んだ。

結局、長谷部は引きずられた。

 「かなりの借金だったらしい。そのために退職金から何から、全部つぎ込んだそうだ」

 当時としてはかなり珍しく、狭い地元に限ってみれば、まるで生命の誕生を冒涜しているかのような嫌悪感すら感じられることだった。

 「霞も一度はためらったが。だが、暁子もやる、と言い出した」

 不安をともに分かち合って子供を産もう、と励ました。

自然の妊娠も人の手による妊娠も、どちらも同じ自分の子供なのだから、と。

 だが、そこまで暁子が熱心に勧めても、霞は一時の情熱はどこへやら、完全に逃げ腰になっていた。

子供は欲しいが、たとえ可能性が低くとも自然の妊娠を待ったほうがよいのではないか。

我が子のためにも、あらゆる世間体を考慮して、霞は迷った。

 霞の迷いを見て、長谷部が決心をした。

友人が心強く言ってくれいてるとき、なにもしなかったら必ず後悔することになる、と。

 長谷部が病院内を仕切り、計画された。

午前中に長谷部夫妻を、午後に高坂夫妻を。

 「同じ日にやった。朝、霞から卵細胞を取り出して、長谷部から取り出して受精する。そして午後、暁子からより出して、俺から取り出して受精する。奇妙に長い1日だった。仕事の終わった長谷部を無理やり連れ出して、酒を飲んだ」

 あくまで可能性の問題だが、うまくいけば同じ日の出産の運びとなる。

事実、うまくいった。

 「そして、出産した3日後、暁子は投身自殺をした」


 叔父はかなりの酒を飲んでいるのだが、酔いはまわらないようだった。

こんな話をしているせいだろう。

一方、敬も、まったく酔いは顔に出ていないが、これは体質のように思えた。

 「・・・どうして?」

 「わからん。遺書はなかった、霞も心当たりはない。しかしどう見ても自殺でしかない」

 桜は日記の記述を思い出す。

確かに、自殺としか考えられない。

 「夜中、部屋を出て屋上に上がり、自分から死んだ」

 「お母さんも気づかなかったなんて・・・」

 空になっていた桜のお猪口に酒を注いだ。

 「まぁそう言うな。霞もなにも言えんくらいショックを受けた。誰よりもそばにいたんだからな」

 うつむいてお猪口に口付ける。

 「暁子の自殺は、長谷部が報せてくれた。気が気じゃなかった。出産直後で弱っている霞が、なにかやらかすんじゃないかと」

 桜は顔を上げた。

だが、叔父もまたうつむいていたから、気づいていない。

 「親友のそばにいながらなにもできなかった霞には、誰も声を掛けることできなかった。後になってから長谷部も、霞が取り乱さなかったのを助かったと言ったよ。本当に・・・」

 「本当に?」

 「ん?あぁ、暁子ばかりか霞までが―」

 「そうじゃなくて。本当にお母さん、どうもなかったの?」

 「どういう意味だ?」 

 「なんだか・・・お母さんじゃないみたい・・・」

 桜の知っている母親は、いつもは毅然としているが、ドラマを見ては涙を流し、お笑いを見ては笑いが止まらないという、素直に感情が表に出てしまうタチなのだ。

そんなことがあったのに、母親がなにも言うこともなく、ただ静かだったなんて、とても信じられない。

 「それほどの衝撃だったんだ」

 叔父の声が、重く響いた。


 その後、暁子の葬式で顔を合わせることもなく、現在に至る。

長谷部の葬式で顔を合わせた昨日まで。

 「暁子の遺品を整理していたら、霞宛の手紙が出てきた。ずいぶん前、学生の頃のものだったから、渡し忘れたままだったんだろうな」

 唐突な話題に、桜はなにを、と思った。

 「俺が一番意外だったのは、二人が友達になったきっかけが、霞にあったことだ。いまはどうか知らんが、あいつは人と深く付き合おうとしなかった。俺と幼なじみの二人の男がいればいい、とな。外面がいいから、トラブルはなかったようだが」

 それは、いまも続いている。

生け花の講師をしているが、誰とでも均等に距離を置いて、決して特別の友人を作ることはない。

同性受けしないわけではないが、どこか母には他人を拒むところがある。

それなのに。

 「二人は同い年のワリに、暁子が姉で霞が妹のような雰囲気があった。霞が尻込みすると、暁子がしょうがない、とばかりに表に出てくる。いつか暁子にそう言ったら、昔からそういう性分で、損ばかりしてきたといった」

 酒を飲んで、ふっと視線を宙にさまよわせた。

 「だが、霞は頼りなく見えるが実際は違う。逆のような関係だったらしい。友達として付き合い始めたことも、霞からだった。俺とつきあえるようになったのも、霞のおかげだと、笑っていた」

 「ふーん・・・」

 いたずらに酒ばかり飲んだせいで、身体にはアルコールが程よくまわっていて、桜はぼーっと真向かいに座る敬を見つめていた。

くやしいくらいの無表情も、慣れてしまえば気にならない。

 「どうして自殺なんてしたんだろうな。いつまでたっても、これだけはわからん。子供が生まれたら、こうしようああしようと先のことまで考えてたのに。産んだ矢先に、しかも遺書も残さずに。おう、長谷部の手帳は持っとるか?」

 「あぁ、これ」

 よいしょ、とばかりに、桜は紙袋をテーブルに置いた。

一番真新しい雑記帳が覗いている。

 ふと、引っ張り出してみた。

大半が真っ白で、最初の数ページにだけ、文章が綴られていた。

最後の日付は、事故に遭う前日。



   9年ぶりかに、電話がかかってきた。

   二人が高校に入学したのを機会に、一度顔合わせをしないか、ということだ。

   成人していきなり知るよりも、顔なじみになっておいたほうが、親近感が湧いて話も冷静に受け止めることが   できるかもしれない。

   子供達の出生に関わることだから、やはり承諾すべきか。

   人生を狂わせる前に、説明すべきか。

   私は逃げも隠れもしない。

   高坂は、どう考えているのか。



 「叔父さん、これ・・・」

 桜の差し出したページに視線をやる、といきなりひったくって、食い入るように読んでいる。

赤みがかった顔が、白く、そして青く変わっていった。

 「・・・」

 「叔父さん?」

 震える手が、雑記帳を取り落とした。

 「・・・」

 横から敬の手が伸びて、雑記帳を取り上げた。


 「叔父さん、みてあげてね」

 「あぁ」

 あれから、叔父はまったく動こうとせず、青ざめたまま、酒を飲み続けている。

 「また明日ね」

 「あぁ」

 「すごくお酒くさいよ」

 「あぁ」

 顔色も変わらず、生返事しかしない敬に、桜は渋面を作って見せた。

 「ちょっとお。他になんか言うことないわけ?」

 「ない」

 「まったくもう。叔父さん、ホントに大丈夫なの?」

 まっすぐに桜を見ている計。

無表情なのに、返事は素っ気ないのに、気持ちが伝わるのはどうしてなんだろう。

 「・・・なぁに?」

 「早く帰れ」

 あくまで変わらぬ従兄弟をにらみつける。

 「他になにか、言うことあるんじゃない?」

 「ない」

 じいっと敬をにらみつける。

これは、確信。

 「なにを隠してるの?あたしにも関係あるんでしょ?教えて」

 敬は顔を背けた。

 「どうして教えてくれないの?ねぇ」

 「自分で考えろ。早く帰れ」

 済ました顔の敬を存分ににらみつけて、ノブに手を掛けた。

 「遅くまでお邪魔してごめんなさい!」

 バンッと勢いよくドアを閉めて、桜は高坂家を後にした。


 いつもとは違う、家への帰り道、桜は小さな公園を見つけた。

春の夜は、まだ肌寒い。

自販機でレモンティを買って、ベンチに座ると両手で挟みこむ。

 高坂家から近い公園、もしかしたら子供の頃に敬も遊んだのだろうか。

そう思ってみると、滑り台もブランコも砂場も、なんだか違って見える。

 「・・・」

 さっきの敬の態度が気になる。

知り合って3日目。

なにを知っているわけでもないのに、どうしてだかわかる。

それは敬も知っていて、だから隠している。

なにを―

 叔父はなぜ、あんなにまで狼狽したのか。

それほど重大なことが書かれていたとは思えなかったが。

敬は、なにを考えているのだろうか。

 「桜」

 見ると、計が早足でこっちに歩いてくる。

 「叔母さんから電話があった。早く帰れ」

 学ランを着た敬は、少し怒っていた。

 「おい」

 「なにを隠してるの?」

 無表情だけど、言葉に詰まっているのがわかる。

 「自分で考えろっていったじゃない。わかんないよ。こう見えてもあたし、すごく短気なの。イライラしてる。どうしてあんたにだけわかるの?」

 「・・・」

 「どうして教えてくれないの?怖いことなの?嫌なことなの?」

 「・・・」

 桜はレモンティを飲んだ。

しばらくの間、二人は無言のままだった。

敬はなにかを考え続けている。

それだけしか、桜にはわからない。

 公園には、街灯の下、一本の桜が花を咲かせている。

馬鹿みたいにずっと見つめていた。

 「心配ない」

 え、と桜は顔を上げた。

 「桜は俺が守る。おまえが不安になることはない」

 「・・・なによそれ。人を子供みたいに」

 先ほどの問いかけからすれば、それは問題をボカされただけだが、敬がそう言ってくれるのなら、桜は笑うこともできた。

 「わかった。信じる」

 敬は笑いもしなかったが、もう眼をそらさなかった。

 「送っていく」

 言うが早いか、背を向けて歩き出した敬を追って、桜は立ち上がった。


 「ただいまー」

 ドアを開けた桜を、霞は仁王立ちで迎えた。

 「連絡もなくこんなに遅くまで。いったいどういうこと?」

 「ごめんなさい」

 素直に謝る桜と、後ろに控えている敬、というのは、霞にもいくらかの衝撃を与えているようだ。

 「同じ学校だから、念のために聞いてみたら、お邪魔してたって言うし、今朝はそんなこと言ってなかったわよね?」

 こくりとうなずく桜を見て、霞は大げさにため息をついた。

 「まったくもう。こんな時間まで。どうして電話一本かけてくれなかったの?心配することくらい、わかるでしょう?」

 「ごめんなさい」

 「兄さんも兄さんよ。大人の分別ってものないのかしら?子供をこんな時間まで引きとめながら、うちに連絡のひとつもないなんて」

 午後7時。

遅いと言えなくもないが、高校生の母親が怒るほどの時間でもない。

どうやら霞の怒りは、連絡もしなかった娘や兄にあるらしい。

 「桜を送ってくれてありがとう。なにか飲んでいく?」

 「いえ」

 「そう。気をつけて帰りなさいね」

 社交辞令で言葉を掛けただけ、という素っ気ない返事だった。

敬は気にした様子はないが。

 「ゆっくり話を聞くわ。あがりなさい」

 おとなしく靴を脱いで上がろうした桜だったが、急に腕を引かれた。

頬に押し付けられた、硬い学ランの胸。

 「おまえは俺が守る」

 ―桜は眼を閉じた。

 「わかってる」

 その時、敬はまっすぐに霞を見つめていた。


 服を着替えて、手を洗いうがいをするついでに顔も洗ってさっぱりとした表情で、桜はリビングのソファに座った。

 「どうして兄さんの家に行ったの?」

 向かいに座る霞は、眉間に皺を寄せている。

 「叔父さんに呼ばれたの。敬からお父さんの日記帳もらったから、そのお礼も言いたかったし」

 「なんの話をしたの?」

 「いろいろ。叔父さんとお母さんのこと。お父さんのこと。敬のお母さんのこと。昔のこと、たくさん」

 「そう・・・」

 指折り数えた桜に、霞はひどく沈んだ返事をした。

 「桜。敬くんと仲良くしてと言っても、親戚づきあいだけでいいのよ。親しくなりすぎないでちょうだい。もちろん、兄さんともね」

 「そんなに嫌いなの?」

 「そうよ」

 鋭く、強い断定。

 「敬はお母さんの親友の息子なんでしょ?それでも?」

 「・・・あの子は兄さんの子供でもあるわ」

 桜は黙るしかない。

母は生涯許さないとまで言っていた。

20年もの間、片時も忘れたことはなかったのではないか、そんな風に桜には見える。

 「こんなことを言うのは母親失格なんでしょうね」

 霞はひざの上で両手を祈るように組んだ。

 「いまでも忘れられないほど、大切な人だった。本当に。終わるはずのない恋だと思っていた。いまもまだ、私の中では終わってないの。なにもかも、あの頃のまま。あの日のこと、覚えてるわ。はっきりと」

 怒りのためか、組んだ白い手は小刻みに震えている。

うつむいた表情は見えないが、桜は自然、母の手を見ていた。

 「あの人さえいなければ、私は幸せになれたのよ」

 

 ベッドに入っても、なかなか桜は寝付けなかった。

酒に酔った後、青くなった叔父。

手が白くなるほど握り締めた母。

そして、敬。

 「大丈夫・・・心配ない」

 桜は眼を閉じた。


 二人が出会って、4日目の朝。

霞はいつもどおり桜を送り出した後、花を生けていた。

 午前9時を過ぎた頃、チャイムが鳴る。

 「はーい。どちら様ですか?・・・まぁ・・・」

 昨夜、顔を合わせたばかりの敬が、立っていた。


 「兄さんには内緒にしてあげるけど。いきなり、どうしたの?」

 リビングのソファで向かい合い、霞はカップを載せたソーサーを敬の前に置いた。

敬は、手を出さず、ただ霞を見つめていた。

 「なに?」

 「ゆうべ、家に帰ったら、親父が手首を切ってました」

 霞は眼を大きく見開いた。

 「救急車で病院に運んでもらった」

 「そう―だけど、どうして自殺なんて・・・遺書はあったの?」

 「短歌を書いたメモだけ」

 「・・・そう」

 手元のカップに視線を落とした霞から、敬は眼をそらさない。

 「今朝、病室に行ってきた。窓を開けろといわれたから、開けた」

 「え?」

 「・・・」

 「どういうこと?なにを言ってるの?」

 「開いた窓の前で立ち止まることはない」

 決して眼をそらない敬から、霞は眼を伏せた。

電話が鳴った。

霞はフラつきながら立ち上がって、受話器を取った。

短い応酬。

受話器が置かれた。

 ソファに座ると、霞はカップに手を伸ばして、上目遣いに敬を見た。

 「敬くん。落ち着いて聞いてね。兄さんが―お父さんが、病室の窓から飛び降りて、死んだそうよ」

 「そのために窓を開けた」

 「なっ・・・」

 思わず顔を上げると、真正面から敬が見つめいた。

 「親父が死んだのはあなたのためだ。長谷部を殺したのはあなただ。それを隠すために親父は死んだ」

 ガチャン!と音を立ててカップをソーサーに置いた。

唇がわなないているのが、見える。

 「なにを言ってるの?自分の言葉に責任をもてない年じゃないでしょう。言っていいことと悪いことがあるわ」

 霞は敬をにらみつけたまま、カップに唇を寄せた。

その面差しは、父親に良く似ている。

 「親父が死んでも認めないのか」

 敬の視線は、変わらず霞に向けられている。

 「母さん」

 霞の手が止まった。


 「20年前の事故の後、二人で親父から逃げようとしていた、とあなたは言ったが、それは後からあなたが作ったことだ。逃げると言ったのは秋久だけだ。

あの事故の前、秋久の怒鳴り声を親父は聞いている。あなたは、秋久と逃げようとはしてなかった。それを怒鳴られていた。そして、あの事故が起こり、あなたは確信した。

秋久の死体を前にして、あなたは呆然としていたというが、それがはじまりだった。

親父と、あなたの。

 そしてあなたは、清水暁子と親友になった。清水が狙いだったんじゃない。親父に思いを寄せて、常に献身的で誰もが好感を持つ女性、これに清水が適していた。だからあなたは近づいて友人となり、それとなく片思いの相手を聞き出して、親友のために、と橋渡しをした。

順序が逆なら、親父も疑ったかもしれないが。

そして、親父は、秋久とは正反対で産婦人科の医者の長谷部を紹介した。

お膳立ては調った。

 体外受精を持ち出したのはあなただったが、まわりをその気にさせた後、ためらってみせれば、必ず清水が励ますために強硬手段をとるだろう、と考えた。

親父も高坂の人間なら、妊娠の可能性が若干、低かっただろう。

そして、その時になれば、病院側に多少のリスクがあっても決行せざるを得ない立場に長谷部が追い込まれるだろうコトも。

もっとも、長谷部はあなたが考えていた以上に、人情家だったようだが。

 長谷部が陣頭指揮をとったが、体外受精の張本人が医師として関与することはまずありえない。いくら小さな病院でも、それは最低限のことだ。実際に関わったのは、スケジュールの調整や書類上の手続き、医師の選定だろう。経過の過程では、陣頭だっただろうが。

 そして、2組の体外受精は行われた。

午前に長谷部夫妻が、午後に高坂夫妻が。

 6月14日、俺と桜は生まれた。

6月17日、清水が飛び降り自殺をした。

 親父には理由がわからなかった。長谷部にも理由がわからなかった。

本当のことを知っているのは、あなただけだ。

 その後、長谷部とあなたは桜が物心つく前に離婚した。体外受精のために莫大な借金を背負い、桜の親権まであなたに奪われて、長谷部は離婚を承諾した。そして、電話をもらった翌日、車の運転を誤り、事故死した」

 長い話の間、霞はカップを手に持ったその姿勢のままだった。

だがその眼は、一瞬たりとも揺らがなかった。

 「あなたは、清水と長谷部、それぞれに違うことを言った。

 清水には―本当のことを言った。

兄の子供を宿すために近づいて利用したのだ、と。

 何年か親友として、夫の妹と信頼していた人間が豹変したのだから、人間不信になっただろうが、相談できる人間がまわりにいるはずもない。出産直後、笑顔で訪れる人間に、到底、話すこともできない。

あなたは清水のそういう性格も読んでいた。

結局自殺したが、親父にもあなたにも、なにも残さなかった。

 長谷部には―事故で親父の子供を産んだと言った。

DNA鑑定をすればわかることだったが、あなたが桜にそんなことをさせたとは思えない。

 体外受精を即座に行ったのは、同日に2組、という配慮からだろう。

だがあなたは、午前のはずが用事か体調不良でいけず、午後になったとでも言った。医療スタッフはなるべく顔なじみは外す。長谷部が指揮を取ったのなら尚更だ。あなたは旧姓が高坂だから、いくらでもいいように言えた。病院側の手抜かりといわれても仕方がなかった。

だが、その事故で、あなたは実の兄の娘を産んだ、と言った。

 それを医師として重く受け止め、長谷部は離婚して親権も放棄した。

勤めていた病院もやめて、個人医院を開業した後、あなたとだけ連絡をとっていた。

 総合病院に勤めてあそこにアパートなら、車で通勤している。

あなたは連絡を取った後、あの日、長谷部を待ち伏せ、事故を起こさせた。

新聞発表では、脇見運転でトラックと正面衝突となっていたが、直接の原因はあなたを見たせいだ。

今朝、親父も死んだ」

 敬は霞から眼をそらさなかった。

 「私はなにも言わない」

 表情も視線も、霞は変わりはしなかった。

カップをソーサーに戻した。

 「桜は6月に生まれたのに、どうして桜なんですか」

 「好きな花だからよ」

 慣れたような霞の言葉に、敬はスラックスのポケットから、紙片を取り出した。

広げてテーブルに載せる。

 霞が、息を飲んだ。


     諸共にあはれと思へ山桜 花よりほかにしる人もなし


 「親父が握っていた」

 心を知るのは桜だけ。

兄の子を産んだ女を許せず、他の男と家庭を築くこともできず、最後の心とともに生きる。

 「最後、親父はあなたのために生きた。あなたのために死んだ。まだ認めないのか」

 霞は立ち上がり、サイドボードの引き出しからマッチを取り出して、ガラスの皿を一緒に持ってきた。

マッチに小さな炎が灯り、ガラスの上であっけなく紙は灰になる。

 「私は兄を憎んでる。私の恋人を殺した。私の幸せを奪った。親友も兄と結婚しなければ自殺しなかった。結婚しても恋人を忘れられず離婚した。私はこの世の誰より兄を憎んでる。たとえ死んでも許してあげない。私は兄を―兄だけを、憎んでる」

 霞は炎を見つめたまま平坦な口調だった。

敬は立ち上がった。

 「桜は俺がもらう。もう、あなたに返さない」

 「あの子は納得しないわ。あなたの言葉も信じない」

 「桜は俺がもらう。他にほしいものはない」

 霞は身じろぎひとつせず、呼吸してないかのように静かだった。

背を向けたが、数秒、迷った。

 「愛して―いたんですね。

  本当は、愛していたんだ。

  たった一人だけ、あなたは愛していたんですね・・・」

 瞬きをするのが見えた。

背中に声がかかる。

 「はじめての恋だった」






 敬の足は、自然、学校へと向かっていた。

15分程度の道をゆっくりと歩く。


 面会時間には早くとも、病院の廊下は行き交う入院患者や付き添いが耐えなかった。

個室のドアをそっと開けて、滑り込むように入る。

日の差し込む白いカーテンは閉じられたままだった。

 「よぉ。早いな」

 父親はよっこらしょ、と上半身を起こした。

左手首には包帯が巻かれ、右手には天敵がつながっている。

 敬が差し出した紙片を左手で受け取ったが、そのまま寄越してきた。

 「渡してやってくれ。もとはといえば、あいつの部屋から盗んだものだ」

 「わかった」

 「―全部、わかってるのか?」

 「あぁ」

 智は顔を歪めるように苦笑した。

血の気の薄い、白い顔だった。

 「・・・いまならわかることが、どうしてわからなかったのか。後悔はしてないが、ふと思うよ。わかっていれば、誰も、霞も巻き込まずに、なにもかも全部うまくやれたんじゃないか。そんなことを、いまになって考えちまう」

 細めた眼は、敬ではない、どこかを見ていた。

 「恨むも憎むも、俺にくれ。頼む」

 「・・・」

 「なんというか・・・はた迷惑なことばかり、やって生きてきたよ」

 「感謝している」

 ひとまわり小さく見える父親が、不信そうに肩を震わせた。

 「俺と桜を産んでくれて、感謝している」

 「・・・そうか」

 一息、ついた。

 「窓を開けてくれ。俺の手には重そうだ」


 「あーっなんでここにいるのぉ?」

 東城高校は、校門から正面玄関まで、桜並木が続いている。

まだ午前中しか授業はなく、昼前の校門前では新入生がごったがえしている。

そんな中、今日は欠席している敬を見つけて、桜は駆けて来た。

 「せっかくサボったんなら、早く帰ったら?先生に見つかるとうるさいよ」

 敬は答えず、樹に寄りかかったまま、ただ桜を見ていた。

 「なぁに?なにかついてる?」

 制服のポケットから手鏡を出して、覗き込んだりしている。

 「桜」

 「なに?」

 「俺を好きか?」

 桜は真っ赤になった。

 「な、なに言い出すの、いきなり」

 怒ったのかテレたのか、バシッと敬の肩をたたくと、背を向けた。

 「桜」

 しぶしぶ振り向いた顔は、無理やりに作ったしかめっつら。

 「桜」

 敬は桜を見ている。

ついに、耐え切れないかのように、笑った。

 「すきだよ」

 春の陽の下、桜が笑う。

 「だいすき、敬」

 その笑顔に重なる、二度と聞くことのない言葉。



  はじめての恋だった


  誰にも言えない、恋だった


  

SMAPの「らいおんハート」この曲がなければ、この小説は完結できませんでした。また、まんが「すごく静かに殺せ」から影響を受けてます。なお、文中にある「体外受精」は、小説のためにねじまげてあります。





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