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嵐の後の平穏 1

 その日、朝からミラは頭を抱えていた。

 三日前に家庭教師から出された課題がとうとう終わらなかったのだ。今日の午後には家庭教師がやってくると言うのに、翻訳するよう言われた詩は半分以上が意味不明のままだ。

「レミィ。今日の私は気分が優れないから授業はお休みに……」

「まぁそれはいけませんね。では本日のティータイムのために用意していたベリーパイはお嬢様はお召し上がりになれませんね。まぁ何て残念なのでしょう」

 大袈裟なまでに残念そうに首を振るレミィにミラは慌てて声を上げた。

「ま、待って! パイはもらう! パイはもらうから!」

「いけません、お嬢様。ご気分が優れない時にご無理をなさっては。せっかくの焼き立てパイを無駄にしてはいけませんので私が責任を持って完食いたしますから、お嬢様はゆっくりお休みになって下さいな」

 レミィはにっこり笑顔で言い切る。

「……パイ食べたい」

「いけません。授業をお受けになれないほどご気分が悪いのですもの。お薬をお飲みになって本日は安静になさって下さいませ。せめて授業をお受けになれる程の元気がおありでしたらともかく。そのようなお元気は到底おありにならないようですし……」

 強かな彼女を前にミラは諦めて腹をくくった。

「わかった! わかりました! 嘘です、ごめんなさい! ちゃんと授業受けるからパイを食べさせて!」

「まぁそれはよろしゅうございました。ではその調子でしっかりお勉強なさって下さいね」

 儚げなくせに強かな女中(メイド)はそう言って下がっていった。

「……負けた」

 部屋に一人残されたミラはがっくりとうなだれた。

 レミィがミラより一枚も二枚も上手なのはわかっていたが、今日は何とか仮病を貫き通すつもりだったのに。

 なのにまさか今日のおやつがベリーパイだなんて誤算だ。なぜよりによって今日一番の大好物が出てくるのだ。せめて季節を問わず食べられるガトーショコラだったら我慢できたかもしれないのに、この季節にしか食べられない大好物が相手では我慢などできるわけがない。不覚だ。

 今日が家庭教師による二度目の授業。出された課題が終わらなかった場合、一体どんな対応を取られるのか知らないが、あの家庭教師の人となりを考えたら良い想像などひとつもできない。

 家庭教師が来る時間までまだ時間はある。せめてそれまでもう少し足掻こうかと思った所で部屋の扉がノックされた。

「お嬢様。失礼致します」

 それは今しがた退室したばかりのレミィだった。

「レミィ。どうしたの? あ、もしかして今日の授業が中止になったとか?」

 わずかな希望に顔を輝かせたミラに、彼女もまた輝くばかりの笑顔で答えた。

「時間にはまだ早いですが、先生がいらっしゃいました」

 希望はいつだってたやすく絶望に変わるものだということを、身をもって痛感した。


 礼儀に則らず予定時間より随分早くお越しになった家庭教師は応接間で兄と談話中とのことだった。

 クロフォード邸から帰宅した翌日、ミラに新たな家庭教師をつけると有無を言わさず宣言したのは兄だ。今頃ミラの初回の授業の様子でも聞いているのだろう。

 ただでさえ気が重かったと言うのに、さらに重くなってきた。

「……逃げたい」

 応接間へ向かいながらミラは重たい息を吐く。

 すると後ろについていたレミィが苦笑する。

「またそのようなことを仰って。旦那様と先生が並んでいらっしゃる様など目の保養になるではありませんか。屋敷中の女中達も皆、人目応接間を覗きたいと浮足立っておりますよ」

「今の応接間にいるのは悪魔の親玉が二匹よ、目の保養になったって魂を抜き取られちゃうわ」

 ミラの心からの訴えにもレミィはくすくす笑うばかりだ。

「あのような見目麗しい殿方なら、それすら本望とする女は世にごまんとおりますよ?」

「皆もっと自分を大切にすべきだと思う」

「ではお嬢様はぜひそうなさって下さいませね? 先日のクロフォード侯爵様のお屋敷での出来事では旦那様はお嬢様を心配なさるあまりお顔を真っ青にされておられましたよ」

「……あの日、私が見た兄上は真っ赤な顔で怒っていたわ」

 あの日の兄の怒りの形相を思い出すといまだに鳥肌が立つ。

「お嬢様があまりご心配をおかけするからでございますよ」

「けど物凄く怒られたんだけど。あんなに怒らなくてもいいじゃない。十七にもなって兄に怒られて泣きそうになったわ」

 身震いするミラを見てレミィは何だかおかしそうに笑っている。

 そうこうしているうちに応接間の前に辿りつき、レミィがミラの前に出て扉を叩いた。

「ミランジェお嬢様をお連れしました」

「入れ」

 扉の向こうから兄の偉そうな声が聞こえてくる。

 そしてレミィは扉を開き、一歩退いてミラを中に促すように扉の横で頭を下げた。

「……失礼致します」

 心の中で何度となく嫌だ嫌だと呟きながら、応接間に足を踏み入れる。

 部屋の中心に置かれた応接セットには悪魔の親玉二人がお茶をしながら向かい合わせに座っていた。

「ミランジェ、遅いぞ」

 約束の時間より早く来たのは家庭教師の方なのだから仕方ないではないか。やや理不尽ともとれる苦言を呈するエドワードにミラは不満を飲み込みながらおじぎした。

「申し訳ありませんでした、兄上。……先生も、お待たせしてしまって申し訳ありません」

 そして頭を上げると、黒髪にグレーの瞳の紳士が嫌味ほど楽しげに笑っていた。

「いやいや。こっちが早く来たんだからお気遣いなく。それと先生は堅苦しいからやめてくれってこの間も言ったろう? それにその話し方も」

「……兄に授業の間は先生とお呼びするように、礼を欠かないようにと言われているので」

 ちらりとエドワードに視線をやると、無駄に偉そうに言い放った。

「当然だ。いかに気安い間柄であろうと、今彼はここにお前に勉強を教えるべく来ているのだ。それくらいの敬意は払いなさい」

「エディは堅いな。俺は別にいいのに」

 家庭教師は肩を竦めて苦笑する。

 それを見てエドワードはますます渋面になった。

「いい加減幼い頃の愛称で呼ぶのはやめていただきたい。ロード・エセル」

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