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悪役令嬢

悪役令嬢と堅物護衛

作者: くるみ
掲載日:2026/05/21

「お嬢様、まさか抜け出されるおつもりですか」


背後から低い声がして、セレスティアは窓枠にかけた足をそっと戻した。


月明かりに照らされた寝室の入口には、黒い騎士服の男が立っている。銀縁の眼鏡の奥、氷のような瞳がこちらを見ていた。

王国第一騎士団所属、アレクシス・ヴェイン。

そして今は、セレスティア・ローレンベルク公爵令嬢の専属護衛である。


「抜け出すだなんて、人聞きの悪いことを言わないでくださる? 少し夜風に当たりたかっただけですわ」


「夜会用の外套と財布を持って、裏庭側の窓からですか」


「準備のよい令嬢だと褒めてほしいところね」


「褒めません」


即答だった。

セレスティアは小さく息を吐いた。

彼女は社交界で「悪役令嬢」と呼ばれている。

高慢で、冷酷で、婚約者である第二王子を独占しようとする女。気に入らない令嬢を取り巻きに命じて追い詰める、嫉妬深い公爵令嬢。


もちろん、すべてが事実ではない。

けれど、セレスティアはそれを丁寧に否定して回るほど、暇でも、愚かでもなかった。


明日、王宮で断罪劇が行われる。

第二王子ジュリアンは、男爵令嬢クラリスとの真実の愛を宣言し、セレスティアとの婚約破棄を告げるつもりだ。

噂はすでに貴族社会を駆け巡っている。セレスティアがクラリスをいじめた。セレスティアが王子を束縛した。セレスティアが嫉妬に狂い、王宮の秩序を乱した。

筋書きは、ほとんど整っていた。

だからセレスティアは、逃げるつもりだった。


父には何も告げていない。

公爵家の当主である父が娘の逃亡に関われば、それは王家への反抗と見なされる。領地にも、家臣にも、火の粉が降りかかる。

だから、これはセレスティアひとりの逃亡だった。


宝石をいくつか売り、旅装を整え、幼い頃から仕えてくれた侍女にだけ別れを告げた。巻き添えを受けそうな数人には、口止めではなく、当面暮らせるだけの路銀を渡してある。

彼女が悪役として消えれば、公爵家は「愚かな娘を見限った」と言える。

王家も、公爵家も、表向きは傷を浅く済ませられる。

そのはずだった。


「どいてくださる? 今夜だけは見逃して」


「できません」


「命令よ」


「公爵閣下からの命令は、お嬢様を守ることです」


「私は守られたいのではなく、自由になりたいの」


その言葉に、アレクシスの眉がわずかに動いた。

セレスティアは視線を逸らした。


「明日のことは知っているのでしょう」

「はい」


「なら、分かるはずよ。私は明日、皆の前で断罪される。婚約は破棄され、公爵家の名に泥を塗ることになる」


「そうとは限りません」


「限るわ」


セレスティアは笑った。

悪役令嬢らしく、優雅に、冷たく。


「もう舞台は整っているの。あの方は愛を語り、あの子は涙を流し、私は悪女として指を差される。誰もが納得する筋書きよ」


「お嬢様は、それでよいのですか」


「よいも悪いもないわ。私がこのまま残れば、公爵家と王家が正面から争うことになる。父は私を守ろうとするでしょうし、王家は王子の失態を隠そうとする。そんなことになれば、領地も、家臣も、ただでは済まない」


「だから、ご自分が消えると?」


「悪役令嬢には、ふさわしい幕引きでしょう?」


アレクシスは答えなかった。

いつもなら、規則です、危険です、お戻りください、とすぐに言う男だ。

けれど今夜だけは、沈黙が長かった。


「お嬢様」


やがて、アレクシスが口を開いた。


「あなたは、悪役には向いていません」


「失礼ね」


「本当の悪人は、巻き添えを受けそうな侍女に路銀を渡したりしません」


セレスティアは扇を握る指に力を込めた。


「……知っていたの」


「護衛ですので」


「便利な言葉ね」


「それに、本当の悪人は、自分が罪をかぶれば公爵家と王家の衝突を避けられるなどと考えません」


「それは、私の役目よ」


「違います」


アレクシスの声が、初めて強くなった。


「それは、あなたを利用した者たちが負うべき責任です」


セレスティアは言い返そうとして、できなかった。


「私は悪役令嬢よ」


「そう呼ばれているだけです」


「皆、そう信じているわ」


「ならば、明日、皆の前で覆しましょう」


「護衛ひとりに何ができるの」


「証言できます。調べることもできます。剣を抜くこともできます」


「最後のはやめてちょうだい」


「必要がなければ」


「堅物のくせに物騒ね」


「あなたを守るためなら、規則の範囲内で最大限のことをします」


「規則の範囲内なのね」


「はい」


その真面目すぎる返事に、セレスティアは思わず笑ってしまった。

笑った途端、胸の奥に押し込めていたものが崩れそうになった。


「……私は、疲れたの」


ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほど弱かった。


「王子の婚約者として、完璧でいようとした。公爵令嬢として、誰にも隙を見せないようにした。けれど、あの方は私を見なかった。優しく笑うあの子だけを見て、私を悪者にした」


アレクシスは黙って聞いていた。


「なら、最後くらい悪役らしく消えてやろうと思ったの。泣きもせず、すがりもせず、誰にも迷惑をかけずに」


「迷惑はかかります」


「そこは慰めるところではなくて?」


「事実ですので」


「本当に融通が利かない男」


「よく言われます」


セレスティアはまた笑った。

けれど今度は、涙をごまかすための笑いだった。

アレクシスは一歩近づき、膝をついた。

騎士が主に誓うときの姿勢だった。


「セレスティア様」


初めて、彼は彼女を名前で呼んだ。


「明日、逃げないでください」


「逃げなければ、私は断罪されるわ」


「私が証言します」


「護衛ひとりの証言で、王子に勝てると思っているの?」


「証拠もあります」


セレスティアは目を見開いた。


「証拠?」


「王子殿下が男爵令嬢に宛てた手紙。偽造された嫌がらせの記録。あなたの名を使って贈り物を壊した侍女の証言。すべて揃えました」


「いつの間に……」


「護衛ですので」


「またそれ?」


「はい」


アレクシスは相変わらず無表情だった。けれど、耳だけがわずかに赤い。


「どうして、そこまでしてくれるの」


セレスティアが尋ねると、アレクシスは少しだけ視線を落とした。


「私は堅物です」


「ええ、知っているわ」


「一度守ると決めたものを、途中で手放すことができません」


「それは義務?」


「最初は」


セレスティアの胸が、不意に大きく鳴った。

アレクシスは顔を上げた。氷のようだと思っていた瞳は、月明かりの中で、思いのほか優しかった。


「今は、違います」


セレスティアは何も言えなかった。

外では、夜風が薔薇の香りを運んでいた。逃亡用の外套が、彼女の腕から滑り落ちる。

アレクシスはそれを拾い、彼女の肩にかけた。


「明日は、私の後ろに隠れてください」


「私が隠れるとでも?」


「いいえ」


彼は、ほんのわずかに口元を緩めた。


「あなたは堂々と前を向くでしょう。だから私は、あなたの隣に立ちます」



翌日。

王宮の大広間で、第二王子ジュリアンは高らかに婚約破棄を宣言した。

男爵令嬢クラリスは王子の隣で涙ぐみ、貴族たちは息を潜めている。

すべては筋書き通りだった。

ただ一つ違っていたのは、セレスティアが逃げなかったことだ。

彼女は深紅のドレスの裾を揺らし、ゆっくりと微笑んだ。


「殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ」


広間がざわめいた。

ジュリアン王子は勝ち誇ったように顎を上げた。


「ようやく己の罪を認める気になったか」


「罪、ですか」


セレスティアは扇を開いた。


「では、その罪とやらを、ひとつずつ確かめさせていただいても?」


「見苦しいぞ、セレスティア」


「ええ。悪役令嬢ですもの。最後まで舞台に立つ覚悟くらいはございます」


その言葉に、何人かの貴族がざわめいた。

セレスティアの隣で、黒い騎士服の男が一歩前に出る。


「王国第一騎士団所属、アレクシス・ヴェイン。証言いたします」


広間の空気が変わった。

王子の顔色が、わずかに曇る。


「なぜ護衛が口を挟む」


「セレスティア様にかけられた嫌疑について、調査報告がございます」


「護衛風情が、何を……」


「殿下」


セレスティアは静かに遮った。


「私を断罪なさるのでしょう。でしたら、証拠は多いほうがよろしいのではなくて?」


クラリスの肩が小さく震えた。

アレクシスは、淡々と書状を読み上げた。

セレスティアの名で出された贈り物の発注書には、彼女の筆跡ではない署名があった。

クラリスのドレスを裂いたとされる侍女は、別の貴族家から金を受け取っていた。

王子とクラリスの手紙には、セレスティアを悪女として仕立てる計画が残されていた。


ひとつ、またひとつ。

証拠が積み上がるたびに、広間の視線はセレスティアから王子へ、王子からクラリスへと移っていった。


「違う」


ジュリアン王子が青ざめた顔で言った。


「これは、何かの間違いだ」


「では、調べ直しましょう」


セレスティアは微笑んだ。


「私も、ローレンベルク公爵家も、調査には全面的に協力いたします。もちろん、殿下もご協力くださいますわよね?」


王子は答えられなかった。

沈黙が落ちる。

それは、セレスティアを断罪するための沈黙ではなかった。

真実を見誤っていた者たちが、自分たちの軽率さに気づいた沈黙だった。

やがて、広間の奥から国王の低い声が響いた。


「ジュリアン。クラリス。詳しく話を聞く必要があるようだ」


その一言で、舞台は終わった。

セレスティアは、ようやく扇を閉じた。

指先が少しだけ震えている。

それに気づいたのか、隣に立つアレクシスが小さく声を落とした。


「お疲れさまでした」


「まだ終わっていないわ」


「はい」


「けれど、逃げなくてよかったとは思っている」


「それは何よりです」


「あなたのおかげよ、アレクシス」


彼は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……護衛ですので」


「本当に、便利な言葉ね」


セレスティアは笑った。

悪役令嬢としてではなく、ひとりの令嬢として。

アレクシスもまた、ほんの少しだけ口元を緩めた。

その笑顔はあまりに控えめで、誰も気づかなかったかもしれない。

けれどセレスティアには、十分だった。


悪役令嬢の物語は、その日、幕を下ろした。

そして、堅物な護衛が差し出した手を取るところから、彼女の本当の物語が始まった。


「……では、これからも私を守ってくださる?」


アレクシスは、いつものように背筋を伸ばした。


「命令でなくとも」


セレスティアは一瞬だけ目を見開き、それから扇の陰で小さく笑った。


「堅物なのに、ずるいことを言うのね」

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