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『君と、空を捨てる。』 (前編)

『君と、空を捨てる。』 (前編)





 あなたの名前を、紡げない。


 私の頼りない骨が、ベッドスプリングと共にまるで悲鳴を上げるかのように軋んだ。

 だけど、私は悲鳴を上げることすらできず、目の前の彼をぼんやりと見つめることしか出来なかった。


 苦しい、息が上手くできない、声が出ない。


 強い力で喉を絞められ、酸欠でくらくらして視界がぼやける。


 ――もしも。

 もしも、この苦しみを、この痛みを受け入れたら、彼は救われるのだろうか。

 彼が救われたなら、私は――私なんかの命でも、価値を得られるのだろうか。


 私の視界を覆う彼は。その表情は。

 私なんかよりずっと苦しそうで。

 涙すら流れてないのに、彼が泣いている気がした。





 初めて彼とまともに話したのは、中学二年生の、初夏に差し掛かる季節だった。


 彼とはクラスこそ違ったけど、バスケ部に所属する彼の部活仲間の男の子と私は同じクラスで、しかも隣の席で。

 その日も彼は、そのバスケ部男の子に用があって私のクラスに来た筈なのに。

 その日はいつもと、違う日だった。

 彼は少し躊躇った素振りを見せて、それでも私に話し掛けてきた。


「……あの、さ。八坂(やさか)愛海(まなみ)ちゃん、で合ってるよね? 名前」


「え……は、はい……?」


 私は戸惑いながらも返事をし、恐る恐る彼に疑問をぶつける。


「あ、あの……私の名前、どうして知ってるの……?」


 私の言葉に彼は一瞬表情を曇らせるが、それからハッとしたような表情を浮かべ、苦笑しながら答えてくれた。


「あー……あの、さ。覚えてない? 中一の時、クラス違ったけど体育の合同授業一緒で……俺が調子乗って派手にこけた時、愛海ちゃん、ハンカチ貸してくれたじゃん」


 ハンカチ……ああ、そういえばそんなやり取りをした男の子も居た気がする。


 でも私はそれでも、目の前の彼の名前をまだ思い出せず、どころか、怯んで縮こまってしまう。

 元々男の子と話すのは苦手だ。

 何を、なんて、どうやって話せばいいのかわからなくなるから。

 そんな私の様子を見てか、彼はそれ以上何かを詮索してくることは無く、苦笑を崩さないまま言葉をくれた。こんな私に。


「いや、えっと……覚えてないなら別にいいんだけど。まともにお礼言ってない気がしてたから。……あー、俺、未空(みそら)桜弥(さくや)。隣のクラス。バスケ部入ってんだ」


「あ……八坂愛海、です。……あの、ハンカチのこと、とか、本当に気にしていませんから」


「そか。それなら良かったよ。ってか、俺は愛海ちゃんの名前知ってるし、そんな畏まんないでよ。同い年なんだからさ」


 彼は、未空くんはそう話しながら軽く笑うと、今度は少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら私に頭を下げてきた。


「あとごめんな、突然話し掛けて。……あ、いきなり下の名前呼びとかキモかったよな。ごめん」


「え、い、いや……そんなことはない、けど……」


「そう? じゃあ、これからも愛海ちゃんって呼ばせてもらうわ。……あの、さ。これからも時々話しかけていい?」


「え……う、うん……えっと、別に……」


「じゃ、そうするわ。あんがと。愛海ちゃん、これからよろしくな!」



 ――未空くんとはこの日を皮切りに、たまにだけどお話しするようになった。


 最初は私が男の子が苦手、ということもあって、緊張して上手く喋れなかったけど。

 未空くんは他の男の子達と違って全然乱暴すぎる感じはなくって、話していてとても楽しかった。


 未空くんはとにかく、色々な話題を私に振ってくれる。

 会話の引き出しがとにかく多くて、会話を途切れさせなくて、それが話してて楽しくて。

 いつも明るく人懐っこい笑顔で私に接してくれる未空くんと交流する時間は、私にとってだんだん楽しい時間になっていった。


「……未空くんって、髪の毛わざと伸ばしてるの? いつもヘアピンとかしてるし、後ろ髪は髪ゴムとかで縛ってるし」


「ん? あー、切るのめんどくてさ。あ、そうだ。愛海ちゃん、たまにシュシュで髪縛ってるよな? 俺もシュシュで縛ったら、愛海ちゃんとお揃いになったりして」


「そ、それは……何だか恥ずかしいかな……」


「あはは、それもそっか」


 休み時間、こんな感じで未空くんは私に自然体で話し掛けてくれる。

 未空くんは楽しそうに私の照れた言葉を笑い飛ばすと、また話し始める。

 昨日のテレビがどうだとか、この前読んだ雑誌がどうだとか。

 この彼の明るさに、私はいつも救われていた。

 彼は私の嫌がることをしないし、私が困っていればいつも助けてくれるし傍に居てくれる。

 本当に優しい人だなって、ずっと思っていた。

 そんな日々が続いた夏前、未空くんに改まった様子でこう告げられた。


「愛海ちゃん。今日俺、練習試合でスタメンなんだけど……良かったら、応援来てくれないかな? 放課後、体育館で試合やるんだけど……」


「あ……うん、行こう、かな。未空くんのこと、応援したい……から……」


 私はいつもと違う放課後の予感に少しどきどきしながら、そう言葉を返す。

 そんな私に対して未空くんは力強く頷く。


「ありがと! いいとこ見せてやるから! 俺が出るからには勝つ! つってもスタメン出場するとか初めてなんだけど……」


 彼はぽつりとそう呟くと、それでも私に、にっと太陽のような笑顔を向けた。


「じゃあ、放課後の試合頑張るわ! 愛海ちゃんが応援しに来てくれんの、楽しみにしてるぜ?」


「うん……未空くんのこと、ちゃんと応援するね……」


 未空くんとそんなやり取りを交わした放課後、帰宅部の私は体育の時間か学校行事でくらいしか足を踏み入れない体育館に恐る恐る足を踏み入れ、ギャラリーに混じる。

 ユニフォーム姿の未空くんは、何だか不思議といつもと違う人に見えた。


 私は筋金入りの文化系だから、運動部の誰か一人を応援するというのは初めてで。

 何と言ったらいいかわからない緊張と、それとはまるで正反対の高揚感があったのを覚えている。


 バスケのルールはなんとなくしか覚えてないけど、素人から見てもわかるくらいに未空くんは凄いプレーを見せていた。

 コートをバッシュで駆ける音が、体育館を沸かせるドリブルの音が、みんなの歓声が、未空くんの普段あまり見ることのない真剣な瞳が、私の心臓を奇妙な形で高鳴らせる。


 本当に格好良かった。


 ゴール前で未空くんがパスされた時、私は思わず声を上げた。


「……っ、未空くん! 勝って……!」


 自分らしくもなく大声を上げた私を見た未空くんと一瞬目が合ってしまう。

 恥ずかしいと思う暇もなく彼は不敵に笑い、シュートを華麗に決めた。


 応援、できたのかな。

 頑張れとか言うべきだったのかな。

 でも未空くんは十分頑張ってきた筈だから、十分頑張っている筈だから、頑張れ、よりは……『勝って』って、言いたかった。


 心臓がばくばく鳴って、頭の奥もぐるぐるしそうな自分が不思議で仕方ないけど、でも嫌じゃない。

 それからも試合は続き、試合結果は惜しくも負けてしまったけれど、私の胸にはまるで温かい火が灯ったかのような高揚感が残り続けていた。


 試合が終わって、未空くんを待っててもいいのかな、なんて昇降口のロッカーのところで所在なくしばらく立ち尽くす。

 しばらくすると、既に制服に着替えた未空くんが私を見つけてくれて、ぱあっと明るく笑って声を掛けてくれた。


「愛海ちゃん! 今日来てくれてサンキュー!」


「……未空くん、お疲れ様……あの、大活躍、だったね」


「おう! 愛海ちゃんが応援してくれてたおかげだわ。そりゃもうテンション爆上がりしたしめーっちゃ頑張ったからな。……つっても試合は負けたんだけどな! あー悔しい! 次は絶対勝つ!」


 彼があまりに楽しそうにそう言うものだから、私の心臓はただでさえばくばくしていた筈なのにもっと大きく騒いでしまった。


 本当にこの人って太陽みたいな人だ。

 笑顔一つで私なんかも笑顔にしてくれる、素敵な人。

 私ってこんな簡単に笑える人だったっけ?

 なんて思うくらいに、私はいつの間にか自然にくすくす笑っていた。


「……愛海ちゃんの笑った顔って、可愛いよな」


「え……」


「あ、いや、それ以外の表情も勿論全部可愛いけど!! ……何か、さ。笑った顔がやっぱ一番可愛いなって」


「……は、恥ずかしいよ……未空くん……」


「ほらその顔も! そうやって恥ずかしそうにする姿もすっげー可愛いよ!!」


 私が赤面すると彼が茶化すようにそう言って笑うものだから、私も釣られて笑ってしまう。


「あはは……もう、未空くんったら……」


 そんなやり取りが何だかとても楽しくて幸せで、私はまた笑顔になれる。


 ――ふと、未空くんがぼそっと言った。


「……俺が、愛海ちゃんの傍で、愛海ちゃんをずっとずっと笑顔にできたらいいのに」

 

 声色が、いつもと違って。

 私が顔を上げると、未空くんは照れくさそうに頬を掻きながら私をちらりと見ていた。


「あのさ。……愛海ちゃんって、俺のこと、どう思ってんの?」


「え……そりゃあ、大切、だよ?」


「……俺も愛海ちゃんのことすっげー大切だけど、そうじゃなくてさ。……あー、えっと……いや、やっぱ何でもない」


 そう言うなり、未空くんはがっくりと肩を落とし項垂れてしまう。


 初めて二人きりで帰る帰り道、何だかお互いの間に流れる空気感がくすぐったい。

 何だろう、これ。すごくふわふわしてて、足元が覚束無いような不思議な感じ。

 でも嫌じゃなくて……ちょっと嬉しい……?   


 そんな不思議な雰囲気を経験してからも時計の針は容赦なく進み、私たちは中学三年生になった。

 未空くんとは結局中学で一度も同じクラスになれなかったけど、彼はことあるごとに私の教室に遊びに来て話し掛けてくれた。


「愛海ちゃんさ、数学の宿題やってきた? ……良かったら、ノート写させてくんないかなあって」


「うん、いいよ。今日、隣の席の子休みだから、休み時間の間そこで写したらどうかな」


「愛海ちゃんサンキュな! お礼に次の昼休みにプリンあげる!」


「……あ、ありがと……」


 そういえば、今日の給食のデザート、プリンだった。もしかして私の教室までプリン持ってきてくれるつもりなのかな。


 私のノートを懸命に写す未空くんを見る。

 未空くんは部活に打ち込んで大変で、私も私で勉強でいっぱいいっぱいで、最近だと友達付き合いなどにすら時間なんて費やせる暇なんて全然無い筈なのに、不思議と未空くんと一緒に居ると心が安らぐ。いっぱいいっぱいの気持ちが薄れる。

 受験期の焦りが和らぐような、変な感じ。

 ノートに目を向けたまま、ふと未空くんが言った。


「……愛海ちゃんってさ、どこの高校受けんの? そういや聞いてなかったよな?」


「私? 私は……小咲学園高校。図書室広いし、制服可愛いから……」


「うっそマジで!? 俺も小咲だよ!! バスケ部強いから!! ……やっべ、超偶然!  愛海ちゃん、受かったら同じ高校だな!」


「うん。一緒に受かるといいね」


 私がそう言うと未空くんが嬉しそうに笑った。

 その笑顔が何だか眩しくて私はつい、少しだけ赤面してしまう。

 何だか真っ直ぐにその笑顔を見られなかったから。


「……愛海ちゃん?」


「……あ、ご、ごめんね。ぼーっとして……」


 こちらを心配そうに見つめてくる未空くんから、思わず目を逸らしてしまう。

 顔が熱い。心臓も熱い。未空くんと居ると、たまにこんな気持ちになる。

 この感情の正体がこの時は漠然としかわからなくて、私は上手く自分の中ではっきりとした答えを出せずにいた。


 中学最後の一年間は、ほとんど勉強漬けだった。

 今までと変わらず、定期的に未空くんのバスケ部の試合には応援に行ったりしたし、たまに二人で一緒に帰った。

 未空くんの引退試合の応援に行って、差し入れを渡す時や試合の後に労りの言葉を未空くんにかけた時に、まるでお礼を返すように彼に抱き締められたりはしたけど、でも、それだけの関係だった。

 ちょっとスキンシップが過剰な、友達かもわからない名前の無い関係なのはずっと変わらなかった。

 志望校が同じだから一緒に図書室に寄って勉強会なんかもしてみたりして、勉強が苦手らしい未空くんのサポートをしたりして。

 高校受験の帰り、未空くんはげっそり顔を青くしてそれはもうふらふらだった。


「未空くん……顔色悪いよ……? 大丈夫……?」


「ヘーキヘーキ……マジ自己採点ギリギリすぎて泣きたいくらいだけど……」


 私も既に緊張と疲労で貧血を起こしそうだったので平気とは言えない状態だったけど、同時にそれでもどこか清々しいような、達成感があった。


「……一緒の高校、行けると良いね」


「……おう」


 雪の気配なんてもうとっくに消えて、代わりに桜の気配を感じる季節。

 落ち込んでいる時ですら眉を下げてでも笑う未空くんはやっぱり、冬から春に変わる曇り空すら照らす太陽のような人だった。

 俯いてばかりの馬鹿みたいな私も、いつもより顔を上げていたくなるくらい。


 彼の光は、いつだって私を照らし、満たしてくれた。

 こんな空っぽな、私でさえも。



 合格発表の日、お互い緊張しながら掲示板の前で自分の番号を探した。

 ここに来るまで、私たちの口数は少なかった。

 いつもは未空くんが話題を振ってくれたけど、さすがの彼も今日という日は喉がカラカラに渇いたように言葉が出てこなかったようだ。

 だけど、やがて番号を見つけ出したのか、未空くんが駆け出していく。


「愛海ちゃん! 番号あったぞ!」


「え……っほんと!? あ……え、わ……」


 掲示板には確かに、未空くんの受験番号が載っていた。

 ――私の受験番号も。


「やったな愛海ちゃん! 一緒に合格できたぜ!」


「うん……! うん……!」


 思わず涙ぐむ私に未空くんは優しく笑いかけてくれて、頭をぐしゃぐしゃに撫でまわしてくれた。

 みっともない泣き顔を見られていることなんて気にならないくらい、ただただ嬉しくて。

 そうやって、温かい陽だまりのような春が来て――中学三年間一度も同じクラスにならなかった私と未空くんは、高校に入学してようやく初めて同じクラスになった。

 高校に入学できた喜びの余韻が抜けていないまま嬉しくて仕方なくて、私は教室で思わず未空くんの両手を握ってしまったほどだ。

 クラスの人たちがにやにやとこちらに愉しそうに好奇の目線で見ているのを見て、慌てて私は手を離す。


「……愛海ちゃん」


「あ……ご、ごめんね!? つい嬉しくなっちゃって……!」


「いや全然! 俺も愛海ちゃんと同じクラスになれて嬉しい!!」


 ――本当は。

 本当は嬉しすぎてつい手を握ったんじゃなくて。

 私の中で漠然としていた、でも輪郭を捉えつつある、一つの強い感情を未空くんに伝えたくて手を握ったのかもしれない。


 なんて言えるはずもなくて、私は未空くんから目を逸らして自分の席に着いた。


 未空くんは前に話していた通り、高校でもバスケ部に入るつもりだったようで、放課後は私に手を振ってからバスケ部の部室へと駆けて行った。

 幸せだった。私も、未空くんもきっと。



 だけどそんな幸せな時間が、未来が、唐突に壊された。



 高校に入学して一ヶ月が経った頃。

 未空くんが交通事故に遭ったという報せがあった。

 交差点でトラックに轢かれて、脚に重傷を負ったらしい。


 私はその報せを聞いて心臓が止まるかと思った。

 だけど。

 だけど同時に、生きていてくれて良かった、とも思った。

 生きてさえいてくれれば、彼の傍で彼を支えることが許されるのなら、何でもしたいと思った。


 早くにお見舞いに行ったクラスメイトの話によると、未空くんは大怪我はしていたけどいつもと変わらず明るく笑っていたと言う。

 だけどそれは無理をした作り笑いなんじゃ、空元気なんじゃ、と私は話を聞いて勝手に心配になった。

 そうして、ようやく病室に駆けつけた私を視界に収めた時、未空くんの表情に確かな絶望が宿ったのを、私は見た。


「……何で、来たんだよ」


 彼は眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情を浮かべながら私に言った。


「……未空くん?」


「……来るなよ……こんなかっこ悪いとこ、見せたくなかった……!」


 今にも泣いてしまいそうな顔をしている未空くんは、じっと下を向き、下唇を強く噛み締める。

 でも私はそんなことどうでもよかった。

 だって私は彼の傍に居られるのなら何だっていいのだから。


「未空くんは……かっこ悪くなんてないよ」


「……は? 何言ってんだよ。この脚見てもそう言えんの? 鎮痛剤飲んでないと痛くて気をやっちまいそうになる。……バスケ、諦めろってさ。二度とできないって。そんな俺、もう価値ないじゃん。生きる理由ないじゃん。……こんなんじゃもう、生きてたって仕方ない。愛海ちゃんは、こんな俺の傍に居たいって言うわけ?」


「私は……っ」


「愛海ちゃん……もう、帰ってくれよ。俺、今、愛海ちゃんに酷いこと言うかもしれない。だから早く出てってよ」


「……未空くん……」


「……お願いだから」


 そんなの無理に決まってる。

 だって、私はあなたの傍に居たい。

 その為なら、何だってしたい。


 なのに何と言ったらいいかわからず、ベッドに近寄ることもできず立ち尽くしている私を見て、未空くんがぎり、と小さく歯軋りしたかと思ったら、何かが一気に爆発したように怒鳴り散らした。


「帰れって言ってんだろうが! さっさと帰れよ!! もういいから帰ってくれ……っ!」


「み、未空く……」


「同情なんていらねえよ!! 言ったろ、もう俺に価値なんてねえんだよ!! かわいそうとかで傍に居られたら、俺は愛海ちゃんを憎んじまう!! 今だって……心のどっかで、俺じゃなくて愛海ちゃんが事故に遭えば良かったとか思ってる!! 俺はそういうやつだ、もう全部が妬ましくて、憎くってたまらない、最低最悪な人間なんだよ……っ! 愛海ちゃんを傷付けるようなことしか言えないし思い浮かばない、そういう俺しかもう居ないんだよ!!」


 未空くんは今までずっと溜め込んでいたものを吐き出すかのように叫んだ。

 その叫びは悲壮感に満ちていて、私は思わず息を吞んだ。


「そんな……」


「……だから、帰ってくれ」


 私は何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。


 だけど、価値が無いなんて、そんな。

 ――そんなのは、貴方の台詞じゃなくて、私の台詞だ。


 そう思った時、ようやく足が一歩前に進んだ。

 一歩、一歩、少しずつ。


 彼に辿り着いたところで、私は未空くんをぎゅっと抱き締めた。

 未空くんの息を呑む音が聞こえる。


「……いいんだよ。それが本当の未空くんなら。私を妬んでいい、嫌っていい、憎んでいいよ。これは同情じゃないし、哀れんでなんかない。……だって、未空くんはちゃんと、価値がある人だから。未空くんはずっと、素敵な人だから」


 そう。

 未空くんは、ずっとずっと、何があっても素敵な人だ。


「……だから、一人で苦しまないで。お願いだよ」


「愛海……ちゃん……」


 未空くんは茫然としているようだった。

 その時、面会時間終了の放送が病院内に流れる。

 私は未空くんから離れ、下手くそな作り笑いを浮かべた。


「……また明日も来るね、未空くん」


 そう言って、私は手を振ったけど。

 未空くんはすっかり俯いてしまい、私と目すら合わせてくれはしなかった。


 次の日も、また次の日も、私は未空くんのお見舞いに行った。

 相変わらず他のクラスメイトがお見舞いに来たらにこにこ笑っているようだったけど、私と二人きりになったら一瞬で不機嫌になって。

 無視される日もあったし、思いっ切り怒鳴られる日もあった。

 酷いときには顔も見たくないから二度と来るなとまで言われてしまう。

 でも、それでも挫けずに毎日彼の元を訪れた。


 そうして数ヶ月が経った頃、ようやく未空くんの退院の日が訪れた。

 鎮痛剤の過剰摂取だとかで当初より入院が長引いたけど、未空くんは片足を引きずるようにしながら荷物をぎこちなくまとめていて、私もそれを手伝った。


「俺なんかに構うなよ。迷惑なんだよ」


 未空くんにそんな冷たい言葉を言われるのはもう慣れっこになっちゃってたから、私は困ったように笑い返すことしかできない。

 そうしたら、未空くんは居心地が悪そうにしていた。


 歩き方がまだぎこちない未空くんを支えるようにして、彼の家に初めてお邪魔する。

 未空くんのご両親は長期出張が多いらしく、今も遠方に出張中で、私は心配になってここまでついてきてしまった。


 家の玄関をくぐり、息をついた未空くんは疲れ切った様子でベッドに倒れ込む。

 ふと私を睨み上げたかと思うと、彼は私の腕を掴み、布団の中に引き込んできた。


「み、未空くん……!?」


「……愛海ちゃん。俺、もう疲れたよ」


「え……?」


「……愛海ちゃん、慰めて」


「な、何言って……」


「お願い。……もうなんでもいいから、俺を慰めて」


「っ……!」


 私は思わず息を吞む。

 だけど放っておくこともできず、すぐに彼の頭を優しく撫で始めた。

 すると彼は少し落ち着いたのか、私を強く抱き締めてきたかと思うと、すう、と寝息を立てて眠りに落ちていった。

 私はと言うと、完全に未空くんの抱き枕状態だ。

 だけど……良かった。私に当たることで少しは鬱憤を晴らすことができたのなら、少し安心した。


 大丈夫。何があっても、何をされてもいい。

 気付いてた。ずっと前から気付いてたよ。


 私は、未空くんが好き。

 私と未空くんは付き合っていないからこんなことしちゃいけないと思っていたけど……今ならできるかな。

 私は眠っている未空くんの頬にちゅ、と軽く口づけをした。


「好きだよ、未空くん……」


 こんな想いで貴方を満たせるかどうかはわからないけど。

 貴方の光も闇も、私という人間を満たしてくれるから。

 私も、貴方の中の何かを満たしたかった。


 ――私はこんなに空っぽで、狭い世界しか知らない希薄な、未空くんの言うところよりずっと価値のない存在だけれど。





 私には、最初から価値がなかった、空っぽだった。

 私は何も持ってなかった。


 生まれてきちゃいけない子なんだって、私の家の人たちは言っていた。

 アイジン、の子なんだって。

 私の父にあたる人と、私の母にあたる人は、正しくない触れ合いで、私という命を作ったんだって。


 今よりずっと身体が小さい頃、私の世界は、あの小さな部屋、それだけだった。

 外に出たら、私が家の空気を穢してしまうんだって、みんな言ってた。

 価値がないから、何もしちゃいけない。

 ただ部屋に籠って大人しく、数少ない与えられたものを愛おしく想うことしかできなかった。


 私が知っていた世界は窓の無い部屋だったから、私が陽の光を知ったのは、小学校に上がった時が初めてだった。

 初めて目にした陽の光を、青空を、私はきっと忘れないだろう。

 空はどこまでも広く、澄み切ったように青く、美しくて。

 だから私は、その空が大好きで、焦がれて。

 私に羽根が、翼があるのならば、自由に飛びたいとすら思った。

 だってきっと、世界は広い筈だから。どこまでも行きたかった。

 価値の無い私は、狭い世界しか知らなかったけれど。

 でも、成長するにつれて私の世界は広がっていったから。

 窓の無い部屋しか知らなかった私が、中学に上がったらあのお屋敷を追い出される形ではあったけれど、小さな部屋と小さな窓と、与えられた生活費を得ることができたから。

 与えられたものだけであるがままに生きることだけは得意だったから、ずっとそうやって生きてきて。


 ――彼に、未空くんに出会えて、恋を知って。


 何も持たない空っぽな、価値の無い私が、貴方への想いで満たされていくのが嬉しかった。

 それはまるで、開きっぱなしの引き出しに、空から砂糖菓子が降ってくるような、素敵な日々だった。


 ――それは今も、同じことだ。





「み……未空くん、脚の鎮痛剤、また飲みすぎちゃったの……?」


「……うるせぇ」


 フローリングの床に乱雑に散らばった錠剤シートに私が慌てると、未空くんはぶっきらぼうなていで私から目を逸らした。

 半年前に事故に遭って夢を絶たれてから、未空くんはずっとこんな調子だ。


「でも、お薬は飲みすぎちゃダメってお医者さんが言ってたよ」


「うるせぇって」


「でも……」


 私は未空くんを心配しているけど、彼は私に対していつも冷たい態度だ。

 こうして未空くんの家に通い詰めて彼の抱き枕にされてから、彼の態度が不器用なものになった。

 出会ったばかりの中学の頃は、人懐っこい笑顔で話しかけてきてくれたのに。

 でも、彼は今も変わらず私のことを『愛海ちゃん』と呼んでくれて、たまに遠慮がちだけど優しく笑いかけてくれる時もあった。

 だけど私から話しかけようとすると、頻繁にこうして困ったように口を閉ざしてしまうのだ。


 私にはたまに八つ当たりをする未空くんだけど、彼が鎮痛剤が切れて脚を押さえて苦しんでいる時に慌てて私が抱き締めると、彼は驚いたような顔を見せてしばらく固まったあと、ぎゅうっと私の顔を胸に押し付けるように抱き締め返してくれる。

 時折される乱暴な扱いに動揺しながらも、彼の苦しみを全て和らげたい一心で、私はいつも彼と抱き締め合うのだ。


「ねぇ、未空くん」


「あ?」


「私、何か手伝えることあるかな?」


「ねぇよ」


「でも……」


「……じゃあ添い寝して。今日も」


「う……うん。分かった」


 未空くんの家にこうして通うようになったのは、彼の退院とほぼ同時期だった。

 入院中はお見舞いに行くたびに散々当たり散らされたっけ。

 でも不思議と嫌な気分にはならなくて、だから痛みに苦しんでる未空くんを放っておくことができなくて、ただ抱き締め続けた。


 そして、未空くんが退院する日に私は彼の家に付き添う形で上がり込んで、そのまま彼に抱き枕にされて、気付けばほぼ住み着く形になっている。

 最初は何かと悪態をつかれたけど、私が折れずにお世話をするうちに彼は諦めて受け入れてくれたようだったから、きっとこのままここにいていいってことなんだと思う。

 学校から二人で帰って、私が晩ご飯を作って、二人でただ眠る。

 そんな毎日を、ただ何となく過ごしている。


「……愛海ちゃんはさ、俺のこと好きなの?」


「え……」


 ある日、ぽつりと不安そうに未空くんは言った。


「好き、だよ? だって、大切だし」


「……そうじゃなくてさ……いや、なんでもない」


 未空くんは何か言いかけたけど、結局口を閉ざしてしまった。

 あれ、前も似たようなやり取りをした気がする。


 私は未空くんを抱き締めながら、彼の心臓の鼓動を聞いていた。

 彼の胸に耳を当てると、彼の心臓がドキドキしているのがわかった。

 彼がまた黙ってしまったものだから、私はそれ以上何も言えなくなった。



 それからしばらく経ったある日のこと。

 その日は平日だったけれど、未空くんの調子が悪そうだったから私は心配で、つい学校を休んで看病をした。

 薬が効いて大人しくなった未空くんをベッドに置いてお昼ご飯でも作ろうと思っていると、大人しくなったなりの未空くんに服の裾を引っ掴まれた。


「どこ行くんだよ……」


 未空くんは布団の中から私を見上げて不服そうにぼやいた。

 私は未空くんを安心させるように笑いかけると、未空くんの手をそっと握って口を開く。


「キッチンに行くだけだよ」


「……そか」


 私がそう言うと、未空くんは安心したのか身体の力を抜いて、私の手から自分の手を離した。

 それを見計らって立ち上がる。

 するとすかさずまたきゅっと手を掴まれたので振り返ると、未空くんが寂しそうに私を見ていた。


「……どうしたの? 未空くん」


「……いや、別に」


 何かを言おうと一瞬口を開くもすぐに閉じた未空くんは、それ以上何も言わないまま私の手をぐいぐいと引っ張って私をベッドの方に寄せた。

 そして私の手を握る力をほんの少し強めて、布団の中に私を引きずり込む。   

 そのままぎゅっと抱き締められて、私は目を白黒させた。


「み、未空くん……?」


「いいから黙ってろっての」


 ぶっきらぼうな口調でそう言うと、彼はまた私を抱き枕にして眠ってしまった。

 私は未空くんの抱き枕になったまま、ゆっくりと彼の背中に腕を回すとぽんぽんとあやすように背を叩いた。

 未空くんが良く眠れるようになるためのおまじないだ。

 ぽんぽんと背を叩くうちに彼の心音がゆっくりと穏やかなものに変わってきて、私もそこで腕を下ろした。

 彼の心音を聞きながら目を閉じると、それに釣られるように眠くなってきてしまってうとうとしてしまう。

 そのまま自分の微睡む気持ちに身体を委ねることにした私は、目を閉じた。


 数時間ほど眠っただろうか。

 隣でがさごそと音が聞こえる。

 ぼんやりと目を開けると、未空くんは脚を擦って鎮痛剤を飲んでいた。

 明らかに今日の服用量を越えている。


「……ダメだよ、お薬たくさん飲んだら……」


「……わかってるっつーの……」


「お医者さんにいっぱい叱られたばかりでしょ……」


私が諭すように言うと、未空くんは力なく項垂れた。


「……またバレたらドヤされんだよなぁ」


 はぁ、とため息をついて未空くんが起き上がりそうな素振りを見せたので慌てて支えると、未空くんからふわりと香る汗の匂いや体温にドキドキしてしまって、自分の体温が上昇した。


「ねぇ、何かして欲しいこととかある?」


「……別にねえって」


 未空くんは何も無いとでもいうようにそっぽを向いた。

 未空くんがそう言うなら仕方ないんだけど、やっぱり心配だ。

 私は未空くんの傍に寄り添い、彼の背中を優しくさする。

 その時、ぴき、と片腕に痛みが走った。

 未空くんの抱き枕になることが多いせいか、寝違えたり、腕を痛めることが最近多い。

 反射的に腕を押さえるように擦っていると、視線を感じた。


 未空くんの、怖いくらい真っ直ぐな視線。

 良くわからない温度の視線。


「未空く――」


 どうしたの、と言う隙すら与えられなかった。


 気付いたら、私は未空くんに押し倒されていて。

 喉元に手をかけられ、首を今まさに絞められそうになっていて。

 未空くんは、ひどく泣きそうな、苦しそうな表情を浮かべていて。



 ああ、これを許したのなら、これを受け入れたのなら。

 このまま彼の手で死んでしまえたら。



 ――価値のない私の命は、彼の慰めとして価値を得られるだろうか。

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