第9話 三十八歳と、最初の乾杯
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】から、ギルド島「高天原」のポータルゲートへと帰還した三人を、夕暮れの優しい光と心地よい潮風が出迎えた。
数時間に及んだダンジョン探索。その疲労は確かにあったが、三人の表情は不思議なほど晴れやかだった。特に、初めての実戦を経験した天龍院麗華と相川葉月の瞳は、これまでにないほどの達成感と、そして確かな自信の輝きを宿していた。
「――ふぅ。やりましたわね、私達」
麗華が、その美しい顔に誇らしげな笑みを浮かべて胸を張った。
「はい、麗華様。ですが、油断は禁物です。すぐに装備の点検とポーションの補充を…」
葉月が、その心配性な性格からすぐさま反省会を始めようとする。
そのあまりにも対照的な二人に、斎藤誠一は思わず笑みを漏らした。
「まあまあ、二人とも。今日のところは上出来だったさ。まずは、今日の戦果を確かめに行こうじゃないか」
彼のそのあまりにも大人な、そしてどこまでも穏やかな一言。
それに、麗華と葉月ははっとしたように顔を見合わせた。
そして三人は、その日の「給料日」を迎えるために、天守閣の一階にあるギルドメンバー専用の換金所へと、その歩みを進めた。
換金所は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
カウンターの向こう側で、一人の若い男性職員が退屈そうにARモニターを眺めている。
誠一は、そのカウンターへと進み出ると、インベントリからその日の全ての戦果を、鑑定用のトレイの上へと転送した。
数十個のF級魔石。
おびただしい数のゴブリンの耳。
そして、あのエッセンスゴブリンからドロップした20つの、青白い輝きを放つ【悲嘆のエッセンス】。
そのF級探索者としては破格とも言える物量。
それに、それまで退屈そうにしていた職員の目が、わずかに見開かれた。
「…ほう。新人の方にしては、なかなかの成果ですね」
彼のその指先が、驚異的な速度で鑑定用の端末を操作していく。
数分後、彼はその最終的な鑑定結果を告げた。
「――お待たせいたしました。本日分、合計で20万円となります」
「20万!?」
麗華と葉月の、その可愛らしい口から同時に素っ頓狂な声が上がった。
たった数時間で20万円。
高校生のアルバイト代としては、あまりにも破格すぎる金額。
だが、誠一はその数字に、ただ静かに頷くだけだった。
「では、パーティメンバーのお三方で均等に分配ということでよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
職員がその端末を操作すると、三人のARコンタクトレンズの視界の隅に、同時に一つの通知がポップアップした。
【ギルド内口座に66,666 JPY が振り込まれました】
そのあまりにもリアルな、そしてどこまでも確かな「数字」。
それに、麗華と葉月は顔を見合わせた。
そして彼女たちは、同時に子供のように満面の笑みを浮かべた。
「すごい…!私、初めて自分でお金を稼ぎましたわ…!」
「はい、麗華様!これでまた、新しい参考書が買えますね!」
そのあまりにも初々しい、そしてどこまでも微笑ましい光景。
それに、誠一のその心もまた、温かく満たされていくのを感じていた。
そして彼はポツリと、その心の底から漏れ出た、あまりにも正直な感想を呟いた。
「…普通に働くより、やっぱり儲かるな、冒険者は」
三十八年間、会社という組織の歯車としてその身を粉にして働いてきた男。
彼がその人生で初めて味わう、自らの「力」だけで富を生み出すという、あまりにも純粋な、そしてどこまでも刺激的な快感。
そのあまりにもしみじみとした、そしてどこまでも実感のこもった一言。
それを隣で聞いていた麗華が、ふふんとその小さな鼻を鳴らした。
「誠一さん。何を、おっしゃっているのですか」
彼女は、そのどこまでも気高い、そしてどこまでも世間知らずな瞳で彼を見上げた。
「こんなの、まだまだですわ。A級の装備は、数千万円するのが普通の世界ですのよ?」
そのあまりにもあっさりとした、しかしどこまでも世界の真理を突いた一言。
それに、誠一はぐっと言葉に詰まった。
そうだ。
自分はまだ、この世界のほんの入り口に立ったばかりなのだ。
そのあまりにも高く、そしてどこまでも遠い頂。
それを、改めて実感させられた。
「…さてと」
その少しだけ気まずくなった空気を、断ち切るかのように。
誠一は、その二人の少女へと向き直った。
そして彼は、その顔に最高の、そしてどこまでも頼もしい年長者としての笑みを浮かべて言った。
「――取り敢えず、今日はお疲れ様でした。乾杯しようぜ!」
◇
ラウンジは、夜の帳が下りるにつれて、その活気を増していた。
一日の過酷な探索を終えたギルドメンバーたちが、その傷と疲労を癒すために、次々とこの楽園へと帰還してくる。
テーブルのあちこちで酒を酌み交わしながら、その日の武勇伝を語り合う男たちの、女たちの、どこまでも楽しそうな笑い声。
そのあまりにも温かい、そしてどこまでも心地よい喧騒の中で。
誠一は、その手にキンキンに冷えたビールのジョッキを掲げた。
「――俺たちの新しい門出に。乾杯!」
彼のその少しだけ照れくさそうな、しかしどこまでも誇らしげな声。
それに、麗華と葉月もまた、その手に持ったお茶とオレンジジュースのグラスを高く掲げた。
「「乾杯!」」
三つの異なる大きさのグラスが、カチンと心地よい音を立ててぶつかり合った。
誠一は、その黄金色の液体を一気に喉へと流し込んだ。
「――くはーっ!うめえ!」
三十八年間の人生で、彼が味わってきたどのビールよりも。
今日のこの一杯は、格別にうまく感じられた。
その三人のあまりにもささやかな、しかしどこまでも幸せな祝宴。
それを破るかのように。
ラウンジの入り口の扉が、バンッ!と乱暴な音を立てて開かれた。
そしてそこから、おびただしい数の、そしてどこまでも屈強なオーラを放つ一団の男たちが、なだれ込むように入ってきた。
「――おうおう!やってるな?」
そのあまりにも野太い、そしてどこまでも自信に満ち溢れた声。
それに、ラウンジにいた全ての探索者たちの視線が、一斉にそちらへと向けられた。
A級パーティだった。
月詠が誇るエースパーティの一つ、【荒ぶる魂】。
彼らは、その身に纏ったA級のユニーク装備をガチャガチャと鳴らしながら、カウンターへとその大股で進んでいく。
そしてリーダー格の、巨大な戦斧を背負った男が、バーテンダーへとその勝利の報告を叩きつけた。
「――親父!最高の酒を、全員分だ!今日は祝いだ!」
「ふー、今日も一稼ぎしたぜ!リフトのランク60回してたら、3000万円のドロップがあったぜ!」
そのあまりにも桁違いな、そしてどこまでも暴力的なまでの金額。
それに、ラウンジ全体がどよめいた。
麗華と葉月もまた、その口をあんぐりと開けてその光景を見つめていた。
(…さんぜんまん…)
先ほど自分たちが手にした6万円という金額が、あまりにもちっぽけに感じられた。
「ばーか。運が良かっただけだろ」
そのリーダーのあまりにも自慢げな言葉に、パーティの弓使いの男が軽口を叩く。
「ははは!そういうな!」
リーダーはそう言って豪快に笑うと、その視線を、ラウンジの隅で呆然としている誠一たちのテーブルへと向けた。
そして、その瞳が誠一の顔を捉えたその瞬間。
彼のその獰猛な顔が、ニヤリと、面白いものを見つけた子供のように歪んだ。
「――おう。アンタ、新人で入ったていうおっさんだろ?噂は聞いてるぜ?」
そのあまりにも直接的な、そしてどこまでも馴れ馴れしい問いかけ。
それに、誠一は一瞬だけその身を硬直させた。
だが、彼はすぐに、そのサラリーマンとして培った完璧な愛想笑いをその顔に貼り付けた。
「ははあ。どうも、初めまして…」
「よく入ったな。この歳で、新しいことを始めるってのは勇気がいるもんだ」
男はそう言うと、その巨大な体で誠一の隣の席へと、どかりと腰を下ろした。
そして、その巨大な掌で誠一のその背中を、バン、と力任せに叩いた。
「――第二の人生、応援してるぜ?案外、あんたみたいなのが強くなるのかもな」
そのあまりにも不器用な、しかしどこまでも温かいエール。
それに、誠一はその胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「いやー…ありがとうございます」
彼がそう言って頭を下げると、男はその顔に、さらに獰猛な笑みを浮かべた。
「よし!気に入った!おっさん、飲み比べしようぜ!」
「えっ!?」
「いいから、いいから!親父!こっちに最高の日本酒を、樽で持ってこい!」
そのあまりにも強引な、そしてどこまでも一方的な宴の始まり。
それに、誠一はもはや抵抗することを諦めた。
そのあまりにも温かい、そしてどこまでも人間的な歓迎。
それが、このギルド【月詠】の本当の「色」なのだと。
彼はその時、確かに理解したのだから。
「良いなー」という感じの、麗華と葉月。
彼女たちは、そのあまりにも楽しそうな大人たちの宴を、そのキラキラとした瞳で見つめていた。
だが、その彼女たちのささやかな夢を、パーティの別のメンバーが、優しく、しかしどこまでも無慈悲に打ち砕いた。
「はいはい、お嬢さん達はジュースね。まだ、未成年なんだから」
そのあまりにも正論な、そしてどこまでも優しい一言。
それに、麗華と葉月は頬をぷくりと膨らませた。
そのあまりにも可愛らしい光景。
それに、ラウンジ全体がこの日一番の、温かい笑いに包まれた。
斎藤誠一の、新たな人生。