第8話 三十八歳と、二人の天才
翌朝、午前9時。
【月詠】のギルド島「高天原」。その、白亜の天守閣の一階に広がる巨大なラウンジは、朝の穏やかな光と、活気に満ちた探索者たちの声で溢れていた。
斎藤誠一は、その喧騒の中心から少しだけ離れた、窓際のテーブル席で、一人静かにコーヒーを飲んでいた。彼の目の前には、昨夜の豪華なディナーとはうってかわって、ごく普通のトーストとサラダが並んでいる。だが、その一口一口が、昨日までのコンビニ飯とは比較にならないほど、美味しく感じられた。
(…すごい場所だな、ここは)
彼は、窓の外に広がる、手入れの行き届いた日本庭園と、その向こう側にきらめくエメラルドグリーンの海を眺めながら、改めて自らが足を踏み入れた世界の、そのあまりのスケールの大きさに、感嘆のため息をついた。
「――誠一さん!お待たせしました!」
その、彼の静かな感傷を、破るかのように。
一つの、どこまでも明るく、そして快活な声が、彼の背後から響いた。
彼が振り返ると、そこには、二人の少女が立っていた。
天龍院麗華と、相川葉月。
彼女たちは、もはや昨夜の、まだあどけなさの残る新人ではない。
その身を包んでいるのは、ギルドから支給されたばかりの、最高品質の初心者用戦闘服。麗華は、そのストイックな性格を反映するかのように、一切の無駄な装飾を排した、機能美に溢れる黒いローブを。葉月は、その心配性な性格を示すかのように、重要な部分が鉄板で補強された、頑丈な革鎧を、それぞれ身に着けていた。
その佇まいは、すでに半人前の探索者の、それだった。
「おはようございます、誠一さん」
葉月が、その大きな瞳に、わずかな緊張の色を浮かべながら、丁寧に頭を下げる。
「おはよう。二人とも、早いな」
誠一は、その初々しい二人の姿に、思わず笑みを漏らした。
「当たり前ですわ!」
麗華が、その小さな胸を、誇らしげに張った。
「今日は、私達の初陣ですもの。遅れるわけには、まいりませんわ!」
その、あまりにも真面目な、そしてどこまでも彼女らしい一言。
それに、誠一と葉月は、顔を見合わせた。
そして、三人は同時に、くすくすと笑った。
場の空気が、確かに和らいだ。
「よし!じゃあ、行こうか!」
誠一が、そう言って立ち上がった。
「はい!」
「…はい」
三つの、異なる個性の声が、一つの、確かな意志となって、重なり合った。
彼らは、その足で、ギルド島専用のポータルゲートへと、向かった。
彼らの、最初の冒険が、今、始まろうとしていた。
◇
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。
その、ひんやりとした湿った空気は、誠一にとっては、すでに二度目の、どこか懐かしい感触だった。
だが、麗華と葉月にとっては、全てが初めての体験だった。
「…うわぁ」
麗華が、その壁一面に自生する発光苔の、幻想的な光に、感嘆の声を上げる。
「…湿度78%、気温15度。空気中に、微量の毒性胞子を確認。麗華様、マスクをなさいますか?」
葉月が、その腰につけた多機能ポーチから、すっと高性能なマスクを取り出した。
その、あまりにも対照的な二人の反応。
それに、誠一は、苦笑いを浮かべるしかなかった。
彼らは、慎重に、洞窟の奥へと進んでいく。
そして、最初の広間で、一体のゴブリンと遭遇した。
「グルアアアアアッ!」
その、あまりにも醜い、そしてどこまでも原始的な暴力の化身。
それに、麗華と葉月の顔が、引き締まる。
「――来ます!」
葉月が、叫ぶ。
「ええ、分かっていますわ!」
麗華が、その手に持つ、初心者用の、しかし確かな魔力を秘めた杖を構える。
だが、その二人が、行動を起こす前に。
一つの、影が、動いた。
誠一だった。
彼は、そのゴブリンの、あまりにも単調な突進を、まるで柳のように、軽やかにいなした。
そして、そのすれ違いざまに。
彼の、その空っぽのはずだった右手が、まるで手品のように、緑色の光を放つ瓶を、その手に握りしめていた。
スキル、【ポイゾナスコンコクション】。
瓶は、美しい放物線を描き、ゴブリンの、その無防備な背中に、叩きつけられた。
パリンッ!という、軽やかな音と共に、瓶が砕け散る。
そして、その着弾点を中心として、地面が、緑色の毒々しい沼へと姿を変えた。
「グルルル…!?」
ゴブリンは、その足元から這い上がってくる、見えざる毒の痛みに、苦悶の声を上げた。
そして、数秒後。
その巨体は、為すすべもなく、その場に崩れ落ち、そして光の粒子となって消滅していった。
その、あまりにも鮮やかで、そしてどこまでも効率的な、蹂躙劇。
それに、麗華と葉月は、ただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。
「――楽勝ですわ!」
数分後。
我に返った麗華が、その悔しさを、歓声で上書きするかのように、叫んだ。
「まあ、基本楽勝だよね」
誠一は、そのあまりにも子供っぽい負け惜しみに、苦笑いを浮かべながら、そう答えた。
「じゃあ、どんどん行こうか」
彼は、そう言うと、その洞窟の、さらに奥深くへと、その歩みを進めていった。
(…引率の先生って、感じだな。まあ、良いけど)
彼の、その三十八年間の人生で、初めて感じた、その奇妙な、しかしどこまでも温かい、責任感。
それが、彼の、その疲れ切っていたはずの心を、不思議と、満たしていた。
◇
そこから先は、三人の、独壇場だった。
彼らの、そのあまりにも異質で、しかしどこまでも完璧な連携が、その真価を発揮し始めたのだ。
「――ゴブリン、五体!前方より来ます!」
葉月の、その冷静な声が、洞窟に響き渡る。
彼女は、その手に持つ、古びた魔導書を、開いた。
そして、彼女は詠唱した。
その声は、囁くようだった。
だが、その一言が、この戦場の理を、完全に支配した。
「――時間の鎖(テンポラルチェーン)」
禍々しい紫色の呪いが、突進してくるゴブリンたちの、その足元に絡みつく。
彼らの動きが、まるで泥の中を這うかのように、鈍重なものへと変わっていく。
その、あまりにも大きな、そしてどこまでも決定的な、一瞬の隙。
「――今です!」
その、葉月の叫びに、誠一が応えた。
彼は、そのベルトに差されたライフフラスコから、チャージを三つ、その魂へと取り込む。
そして、その緑色の光を宿した三本の瓶を、扇状に、そして寸分の狂いもなく、ゴブリンたちの、そのど真ん中へと、投げつけた。
混沌ダメージで、仕留める。
緑色の、毒の霧が、炸裂する。
鈍重になったゴブリンたちは、その死の霧から逃れることすらできず、次々と、その命を蝕まれていった。
だが、その中で、数体の、特に頑強な個体が、まだ生き残っていた。
その、残党狩り。
それこそが、このパーティの、真のエースの、仕事だった。
「――次は、私の番ですわ!」
麗華の、そのどこまでも気高い、そしてどこまでも楽しそうな声。
彼女は、その杖の先端に、この星の大気そのものを震わせるほどの、膨大な魔力を、集束させる。
そして、彼女は叫んだ。
「――スパーク!」
黄金の雷霆が、炸裂する。
それは、もはやただの初心者向けの魔法ではない。
一つの、完成された、芸術だった。
雷光が、生き残ったゴブリンたちの、その一体一体を、確実に捉え、連鎖し、そして塵へと変えていく。
その、あまりにも美しい、そしてどこまでも圧倒的な光景。
それに、麗華は、その美しい顔に、恍惚とした笑みを浮かべた。
「…ふふっ。やっぱり、魔法は使ってて楽しいですわ!」
◇
彼らが、その完璧な連携で、洞窟の奥深くへと進んでいた、その時だった。
「――あれは…」
葉月の、その声に、誠一と麗華もまた、その足を止めた。
そこに、それはあった。
一体の、ゴブリン。
だが、その全身は、美しい青白い水晶のような物質に、完全に封印されていた。
エッセンスモンスターだ。
「はいはい、そこそこ強いから、開放したら、袋叩きにするぞ」
誠一が、その二人の少女へと、まるでベテランのように、指示を出す。
「じゃあ、よし!」
麗華が、その杖を構えた。
誠一が、その結晶へと、手を伸ばす。
そして、彼はそのゴブリンを、開放した。
「――時間の鎖!」
葉月の、その呪いが、真っ先に、その自由になった怪物を、捉えた。
そして、誠一の、毒の瓶が。
麗華の、スパークの連発が。
その、あまりにも理不尽な、三方向からの、飽和攻撃。
それに、エッセンスによって強化されたはずのゴブリンは、なすすべもなかった。
「――楽勝でしたわ!」
麗華の、その誇らしげな声が、洞窟に響き渡った。
「いやー、一人で倒した時は、それなりに苦戦したけど、パーティだと、楽ですね」
誠一の、そのあまりにも正直な、そしてどこまでも実感のこもった感想。
それに、麗華と葉月は、顔を見合わせた。
そして、三人は同時に、笑った。
彼らは、その日、初めて、本当の意味での「仲間」となったのだ。
「じゃあ、エッセンス狙いで、周回でもしますか?」
葉月の、そのあまりにも現実的な提案。
それに、誠一と麗華は、力強く頷いた。
彼らは、その日から数時間、ただひたすらに、その洞窟を、周回し続けた。
エッセンス狙いで、ひたすら周回する3人。
その、単調な作業の、その合間に。
彼らは、他愛のない、雑談を、交わしていた。
「そういえば、お二人は、なんで月詠に?」
誠一の、その問いかけ。
それに、麗華が、その杖をくるりと回しながら、答えた。
「決まってますわ!やっぱり、月詠は、日本最強のギルドですもの!最強を目指すなら、入って損はありませんわ!」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも彼女らしい、答え。
「私は、お嬢様の付き添いですので…」
葉月が、その隣で、少しだけ恥ずかしそうに、そう付け加えた。
「へえ」
誠一が、その二人の、あまりにも尊い関係性に、感心したように、相槌を打った、まさにその時だった。
「――あっ、ゴブリン。貰い」
彼は、そう言うと、その会話の、ほんのわずかな隙間に、まるで息をするかのように、自然に、そして完璧なタイミングで、一体のゴブリンを、その毒のフラスコで、仕留めてみせた。
「――あー!ずるいですわ、誠一さんばかり!」