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第7話 三十八歳と月が照らす、新たな我が家

 新宿の喧騒を背に、斎藤誠一は再び、あの未来的なダンジョンゲート専用施設へと足を踏み入れていた。だが、数日前の、あの孤独と不安に満ちた心境とは、何もかもが違っていた。

 彼のインベントリには、完璧に揃えられた初期装備一式が、その出番を静かに待っている。彼の魂には、盗賊という新たなクラスと、レベルアップによって得られた確かな力が宿っている。そして何よりも、彼の心には、これから向かうべき、明確な「目的地」があった。


 彼は、無数に並ぶポータルゲートの中から、一つだけ、ひときわ異彩を放つゲートの前で足を止めた。

 そこには、戦闘用のダンジョンゲートのような禍々しいオーラはない。ただ、穏やかで、そしてどこまでも優しい、南国の風の匂いが、漂ってくるだけだった。

 ゲートの上に表示された行き先は、【楽園諸島】。

 彼は、その穏やかな光の渦の中へと、躊躇なくその身を投じた。


 ◇


 ポータルを抜けた瞬間、彼の全身を、これまでにないほどの、温かく、そしてどこまでも心地よい空気が包み込んだ。

 ひんやりとしたダンジョンの石の匂いではない。

 甘い花の香りと、太陽の匂い、そしてどこまでも澄み切った、潮の香りが混じり合った、生命力そのもののような空気。

 そして、彼の目に飛び込んできたのは、信じられないほどの、活気に満ちた光景だった。

 貿易港「サンクチュアリ・ポート」。

 どこまでも続く、真っ白な砂浜。その砂浜に、寄せては返す、エメラルドグリーンに輝く、穏やかな波。空には、この世界のそれとは違う、少しだけ大きな、優しい光を放つ太陽が、二つ、輝いている。

 そして、その太陽の光の下で、様々な年代や国の冒険者達で溢れかえっていた。

 屈強な体つきをした、北米の戦士たちが、ビーチバレーに興じている。その隣では、優雅なローブを纏ったヨーロッパの魔術師たちが、パラソルの下で、難しい顔でチェスを指していた。

 言葉は、分からない。だが、彼らの表情は、皆一様に、穏やかで、そしてどこまでも楽しそうだった。

 戦闘の緊張感から解放された、探索者たちの、束の間の休息。

 その、あまりにも平和な光景に、誠一の、その乾ききっていたはずの心が、じわりと、潤っていくのを感じていた。


「――斎藤さん、こちらです」


 その、彼の感傷を、優しく破るかのように。

 待ち合わせ場所に立っていた、月詠(つくよみ)のギルド職員、桜小路が、その美しい顔に穏やかな笑みを浮かべて、彼を手招きした。

 彼女は、その場にいる、どの探索者とも違う、しっとりとした藤色の和服に身を包んでいた。その佇まいだけで、この場所が、彼女の、そして月詠(つくよみ)の「庭」であることが、一目で分かった。


「すごい場所ですね」

 誠一が、素直な感嘆の声を漏らす。

「ええ。私達も、気に入っているんですよ」

 桜小路は、そう言うと、桟橋の、その最も奥に停泊している、一隻の船を指し示した。

 それは、船というよりは、もはや一つの、動く芸術品だった。

 流線形の、真っ白な船体。磨き上げられたチーク材の甲板。そして、そのマストの頂には、三日月の紋様が描かれた、美しいギルドの旗が、誇らしげに、はためいていた。

「高級客船…」

「はい。月詠(つくよみ)専用の、ギルド島へはこの船に乗り込んで下さい」

 彼女は、そう言うと、彼を伴って、その船のタラップを、優雅に上がっていった。


 船内は、外観以上に、豪華絢爛だった。

 絨毯の敷かれた廊下、壁に飾られた、高価な絵画。そして、すれ違う乗組員たちの、完璧なまでの、礼儀作法。

「客室で、おくつろぎくださいね。あなたの、家となる場所ですから」

 桜小路が、そう言って開けてくれた扉の向こう側。

 そこに広がっていたのは、もはやただの船室ではなかった。

 キングサイズのベッド、革張りのソファ、そして、窓の外に広がる、どこまでも青い海原。

 一流の、ホテルのスイートルームと、何ら遜色のない空間だった。


「…すごい…」

 誠一は、そのあまりにも過分なもてなしに、ただ言葉を失うしかなかった。

 彼は、そのふかふかのソファに、おそるおそる腰を下ろす。

 その、あまりにも心地よい感触。

 それに、彼の、その長年張り詰めていたはずの心が、ふっと、解けていくのを感じた。

 そして、彼はポツリと、その身の上話を、始めていた。


「…実は、私」

 彼の声は、少しだけ、震えていた。

「数日前まで、会社員だったんです。15年、勤めたんですが…。まあ、色々とありましてね。燃え尽きてしまって。仕事を辞めて、実家の田舎に帰ろうと思ってた時に、公式ギルドの広告の、『冒険者になろう』を見ましてね。それで、冒険者になろうと思ったんです」

 彼は、自嘲気味に、笑った。

「三十八にもなって、馬鹿なことをしてるとは、思ってるんですがね」

 その、あまりにも不器用な、そしてどこまでも正直な、告白。

 それを、桜小路は、ただ静かに、そしてどこまでも優しい目で、聞いていた。

 そして、彼女は言った。

「…なるほど。大きな、決断でしたね」

 その声には、一切の、侮蔑も、同情もなかった。

 ただ、一人の人間の、その人生の大きな決断に対する、深い、深い敬意だけが、そこにあった。

 その、あまりにも温かい一言。

 それに、誠一は、救われたような気がした。


 ◇


 30分後、船は島に着いた。

 誠一が甲板に出ると、彼の目の前に、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。

 島は、一つの巨大な、そしてどこまでも優美な、和風の城郭そのものだった。

 白砂のビーチには、朱色の鳥居がいくつも立ち並び、その奥には、手入れの行き届いた松の木と、季節の花々が咲き乱れる、広大な日本庭園が広がっている。そして、その島の、最も高い場所。そこには、白亜の天守閣が、空に浮かぶ二つの太陽の光を浴びて、誇らしげにそびえ立っていた。


「どうぞ、こちらへ。お部屋にご案内します」

 桜小路に導かれるままに、誠一は、その天守閣の中へと、足を踏み入れた。

 そして、彼が通されたのは、最上階の、一つの広大な客室だった。

 畳の香りが、心地よい。床の間には、見事な掛け軸と、生け花。そして、障子を開け放ったその先には、島の全景と、そしてどこまでも続く青い海原を、一望できる、広大なバルコニーが広がっていた。


「良いんですか?こんな、大きな部屋?」

 誠一は、そのあまりにも過分なもてなしに、思わず、そう尋ねていた。

「ええ、大丈夫ですよ」

 桜小路は、くすくすと楽しそうに笑った。

「ここでは、物理法則を無視して、いくらでも部屋を増やせるんですよ。これも、世界の理、ですよ」

「なるほど…」

 誠一は、荷物を置くと、その言葉の、本当の重みを、噛みしめていた。

 そして、彼はその窓から見える、あまりにも非現実的な光景に、改めて、自らが足を踏み入れた世界の、その広大さを、実感していた。


「では、次はラウンジを案内しますよ」

 桜小路の、その声に、彼は我に返った。

 彼が、彼女に続いて、一階の、広大なラウンジへと降りていくと、そこは、これまでにないほどの、活気と、そして温かい空気で満ち溢れていた。

 ラウンジには、人が大量にいる。食事してたり、酒を飲んでたり。その誰もが、心からリラックスした、穏やかな表情をしていた。


「飲食は、無料ですから。好きな料理を注文すると良いですよ」

 桜小路が、そう言って、メニュー端末を差し出した。

 そこに表示されたのは、A級モンスターのステーキや、深海魚のカルパッチョといった、彼がこれまで見たこともないような、豪華絢爛な料理の数々だった。

「いやー…ありがたいですね」

 誠一は、そのあまりにも手厚い福利厚生に、ただ感嘆するしかなかった。


「あそこのパーティボードで、パーティも募集してますので、一度見るべきかと」

 桜小路が、壁に設置された、巨大なARディスプレイを指し示した。

 そこには、様々なランク、様々な目的のパーティ募集が、リアルタイムで更新され続けていた。

「では、案内はここらへんで終えて。――ようこそ、月詠(つくよみ)へ」

 彼女は、そう言うと、最後に、最高の笑顔で、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

 誠一もまた、その心からの歓迎に、深々と、頭を下げ返した。


 ◇


 一人、ラウンジの隅のテーブルで、その豪華な食事を味わっていた、誠一。

 その、彼の耳に、一つの、明るく、そしてどこか初々しい声が、届いた。

「あのー、新人さんですかー?」

 彼が顔を上げると、そこには、二人の、娘と同じくらいの、女性探索者の姿があった。

「はい、そうですね」

 誠一は、少しだけ戸惑いながらも、頷いた。

「良かったー!私達も、今日入った新人なんですよ!」

 その、あまりにも元気な、そしてどこまでも屈託のない声。

 それに、誠一の、その固まっていたはずの心が、ふっと、解けていくのを感じた。

「良かったら、パーティ組みませんか?」

「えーと…良いですけど?」

 誠一は、そのあまりにも唐突な、しかしどこまでも魅力的な提案に、思わず、そう答えていた。

「やったー!」

 二人の女性は、その場で、子供のように、ハイタッチを交わした。

「私達、冒険者初めてで、制服セットは買ったけど、まだダンジョン行ってなくて!」

「もう、ダンジョンデビューしたんですか?」

「ええ。ゴブリンの洞窟で、デビュー済みですね」

「すごい!じゃあ、先輩ですね!」


 その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも温かい、会話のキャッチボール。

 彼は、その日、人生で初めて、「仲間」と呼べる存在を、手に入れた。

 そして、彼は彼女たちと、明日、一緒にダンジョンへと行く約束を、交わした。

 彼の、孤独だったはずの冒険は、あまりにもあっけなく、そしてどこまでも温かい形で、その終わりを告げようとしていた。

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