第4話 三十八歳のビルド構築
洞窟の闇から、現実世界の喧騒へと帰還した斎藤誠一の体は、鉛のように重かった。
全身の筋肉が、悲鳴を上げている。泥と、汗と、そして乾ききったゴブリンの血の匂いが、その身に纏わりついていた。だが、彼の心は不思議なほど、軽かった。
あの、エッセンスモンスターとの死闘。
三十八年間、彼の人生において、あれほどまでに「生」を実感した瞬間はなかったかもしれない。サラリーマン時代の、何百というプレゼンや、何千という交渉。そのどれもが、あの棍棒の一撃の、その圧倒的な質量と、殺意の前では、色褪せて見えた。
(…リフレッシュ、か)
彼は、自嘲気味に、しかしどこか満足げに、そう呟いた。
燃え尽きたと思っていたはずの心に、確かに、小さな火が灯っていた。
彼は、その足で、再び国際公式ギルド新宿支部の、あの巨大なビルへと向かった。目的は、ただ一つ。この、命懸けの労働の対価を、現実の「数字」へと変えるためだ。
換金所のカウンターは、昼間だというのに、ごった返していた。
誠一は、その最後尾に並ぶと、順番を待ちながら、自らのインベントリを開いた。そこには、彼の、記念すべき最初の戦果が、静かに納められていた。
F級魔石が、12個。
ゴブリンの耳が、12個。
そして、あの死闘の末に手に入れた、青白い輝きを放つ、悲嘆のエッセンスが、一つ。
「――次の方、どうぞ」
無機質な呼び出し音。
誠一は、カウンターへと進み出ると、その全てのアイテムを、鑑定用のトレイの上へと転送した。
受付の女性は、そのあまりにもささやかな戦果に、一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐにプロフェッショナルな無表情に戻り、その手元の端末を操作し始めた。
「F級魔石、12個。ゴブリンの耳、12個。こちらは、合計で4万円ですね」
その、あまりにも事務的な声。
「そして…ほう、エッセンスですか。初心者の方にしては、幸運でしたね」
彼女は、そう言うと、エッセンスに特殊なスキャナーをかざした。
「悲嘆のエッセンス、Tier1。品質は、良好。こちらは、1万円での買い取りになります」
「――合計で、5万円になります。口座への送金で、よろしいでしょうか?」
「…はい」
誠一は、頷いた。
武器のナイフは壊れてしまった。だが、5万円。
一日、命を賭けて、5万円。
高いのか、安いのか。
今の彼には、まだその価値を、正しく測ることはできなかった。
だが、確かなことが、一つだけあった。
この5万円は、彼が、自らの知恵と、勇気と、そしてほんの少しの幸運だけで、この世界から掴み取った、最初の「富」なのだ。
その事実が、彼の、その乾ききっていたはずの心を、温かい何かで満たしていた。
◇
その日の夜。
誠一は、再び、あの歌舞伎町のインターネットカフェの、小さな個室にいた。
もはや、そこは彼にとって、ただの寝床ではない。
新たな人生の、作戦司令室だった。
シャワーを浴び、コンビニで買ったカツ丼をかき込みながら、彼はARモニターに、SeekerNetの、巨大な掲示板を映し出した。
武器が、壊れた。
新しいものを、買わなければならない。
だが、何を買う?
彼は、検索窓に、一つの単語を打ち込んだ。
『盗賊 ビルド 初心者』
そこから、彼の、二度目の、そしてより深く、より専門的な、一夜漬けの勉強が始まった。
画面には、おびただしい数の情報が、洪水のように表示される。
【二刀流ダガービルド!圧倒的な手数で敵を切り刻め!】
【弓盗賊こそ至高!安全な距離から、敵を射抜け!】
【隠密特化!影となりて、敵の心臓を穿て!】
その、あまりにも多様な、そしてどこまでも魅力的な、ビルドの数々。
それに、誠一は、その目を輝かせた。
(…すごい。こんなに、たくさんの道があるのか…)
サラリーマン時代の、決められたレールの上を歩くだけの人生。
それとは、全く違う。
無限の、選択肢。
無限の、可能性。
その、あまりにも広大な自由の海。
それに、彼は、目眩がするほどの、興奮を覚えていた。
彼は、その中から、一つの、ひときわ異彩を放つスレッドを見つけ出した。
そのタイトルは、あまりにも、常識外れだった。
【【最新トレンド】武器なんて、もう古い?今、新人に一番オススメなのは『フラスコ投げビルド』だ!】
「…フラスコ投げ?」
誠一は、その意味不明な単語に、首を傾げた。
だが、そのスレッドを開いた、その瞬間。
彼は、そのあまりにも合理的で、そしてどこまでも美しい、新たな世界の理に、その魂を奪われることになる。
スレッドの、最初の書き込み。
それは、ハクスラ廃人を名乗る、一人のベテラン探索者によって、書かれていた。
『よう、ひよっこども。今日も、F級ダンジョンで、なけなしの金はたいて買った剣を、振り回してるか?
悪いが、その考えは、もう古い。
今の、新人冒-険者にオススメするトレンドは、ただ一つ。
武器不要。防具最優先。そして、ただひたすらに、フラスコを投げ続ける。
それこそが、このインフレ時代を生き抜くための、最強のソリューションだ』
その、あまりにも不遜な、しかしどこまでも説得力のある書き出し。
誠一は、その文章に、釘付けになった。
『いいか、よく聞け。
俺たちが、今から紹介するのは、【ポイゾナスコンコクション】っていう、一つのスキルジェムだ。
こいつはな、ライフフラスコのチャージを消費して、敵に毒の瓶を投げつける。ただ、それだけのスキルだ。
だが、その本当の強さは、その「シンプルさ」にある。
第一に、武器が、いらない。つまり、序盤で最も金がかかる、武器への投資を、完全にカットできる。
第二に、攻撃が、混沌ダメージ属性だ。つまり、物理耐性も、元素耐性も、関係ない。序盤の、ほとんどの敵に、安定してダメージを通せる。
そして、第三に。
安全だ。
遠距離から、一方的に、毒をばら撒き続けるだけでいい。
これほどまでに、初心者に優しいビルドが、他にあるか?いや、ない』
(…なるほどな)
誠一の口から、感嘆の声が漏れた。
(武器不要で、フラスコを投げて、ダメージを与えるビルドか…)
彼の、そのサラリーマンとしての、コスト意識と、リスク管理能力が、このビルドの、その圧倒的なまでの合理性を、瞬時に、そして完璧に、理解していた。
彼は、そのスレッドを、さらに深くへと、読み進めていった。
そして、彼はついに、その「答え」へと、たどり着いた。
『じゃあ、具体的に、何から始めればいいんだ?
答えは、決まってる。
まず、お前らはアメ横に行って、初心者の味方、通称『制服セット』を買うんだ。
これだ』
画面に、二つの、あまりにも見慣れた、しかしどこまでも気高い、ユニークアイテムの詳細な情報が、表示された。
「アイテム名: 清純の元素
種別: 首輪
レアリティ: ユニーク
効果:
・全耐性 +5%
・最大HP +40
・このアイテムに、Lv10の【元素の盾】スキルが付与される。
・【元素の盾】: 周囲の味方の火、氷、雷属性耐性を+26%するオーラ。
フレバーテキスト:
王も、英雄も、神々でさえも、
皆、等しく、この小さな光から始まった。
恐れることはない。
その一歩は、祝福されている。」
「アイテム名: 元素の円環
種別: 指輪
レアリティ: ユニーク
効果:
・スキル【元素の盾】のMP予約コストを、100%減少させる。
(この指輪には、他のいかなる能力も付与されない)
フレバーテキスト:
清純なる力は、あまりにも気高い。
未熟な魂では、その輝きを受け止めきれぬ。
だが、この円環を介せば話は別だ。
それは、神の盾を振るうための、最初の「資格」。」
『こいつら二つで、20万円するが、補助金で半分返ってくるから、実質10万円で買える。
もちろん、その分の価値は、充分ある。
なんせ、このセット、ダンジョン黎明期には、1000万円で買い取りされたっていう逸話もあるくらいだからな!
これさえあれば、序盤のダンジョンで、死ぬことは、まずない。
あとは、安い革鎧でも着て、ひたすらライフフラスコを投げ続ければいい。
それだけで、お前らは、C級までの道を、何の苦も無く、駆け上がれるはずだ』
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも甘美な、攻略情報。
それに、誠一の、その心は、完全に決まった。
「――よし。これで行こう」
彼は、そう呟くと、ARモニターの片隅に、メモ帳を呼び出した。
そして、そこに、自らの、新たな人生の、その最初の「計画書」を、書き記し始めた。
『明日、午前9時。アメ横へ。
購入リスト:
・清純の元素
・元素の円環
・ポイゾナスコンコクションのスキルジェム
・初心者向けの、革鎧一式』
その、あまりにもシンプルで、しかしどこまでも確信に満ちた、ToDoリスト。
それが、彼の、新たな冒険の、その始まりを告げる、ファンファーレとなった。
彼は、そのメモを、満足げに眺めると、そのリクライニングチェアの、硬い背もたれに、その身を預けた。
そして、彼は目を閉じた。
彼の、その心は、もはや恐怖も、不安も、そして過去への後悔も、何一つなかった。
あるのはただ、明日から始まる、新たな「仕事」への、尽きることのない、好奇心と、そしてどこまでも力強い、高揚感だけだった。