第20話 三十八歳と、勝利の分配
オークションの熱狂から一夜が明けた。
ギルド島「高天原」のラウンジは、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返り、窓から差し込む朝の穏やかな光が、磨き上げられた床を優しく照らしていた。壁一面に広がるARウィンドウには、世界のダンジョンゲートのライブ映像が音もなく流れている。
そのあまりにも平和な光景の中で。
斎藤誠一、天龍院麗華、相川葉月の三人は、いつものテーブル席で少しだけ遅い朝食をとっていた。
「――ふふっ。昨夜は少し飲み過ぎてしまいましたわね」
麗華が、その優雅な手つきで紅茶のカップを口に運びながら、悪戯っぽく笑う。その目元には、まだ昨夜の興奮と、そして勝利の余韻が色濃く残っていた。昨夜祝杯をあげた後も彼女の興奮は収まらなかった。自室に戻ってからも今回のプロジェクトの戦闘ログを何度も見返し、自らの魔法が叩き出したダメージ数値をうっとりと眺めていたという。
「麗華様が、あんなにはしゃいでいらっしゃるのを初めて見ましたわ…」
葉月がその言葉に、くすくすと笑みを漏らす。彼女の表情もまた、これまでにないほど晴れやかだった。長期間に及んだプロジェクトのプレッシャーから解放され、その心は春の陽だまりのような穏やかな幸福感に満たされていた。
「葉月だって嬉しそうだったじゃない。あの後、自分の部屋に戻ってからもずっとにこにこして」
「そ、それは…! ですが、本当に夢のようですわ。私達が、たった一ヶ月半であんな大金を…」
葉月の言葉に、三人の視線が自然とテーブルの中央に浮かぶARウィンドウへと集まる。そこに表示されているのは、パーティ「月兎」の共有口座の残高。昨夜、オークションハウスからの手数料が差し引かれ、振り込まれた金額がその輝かしい数字を刻んでいた。
【残高:45,850,000円】
元の資金と合わせ、彼らの資産は一気に五千万円の大台に迫ろうとしていた。常人であれば、一生かかっても手にすることができないかもしれない金額。それを彼らは、自らの知恵と力、そして絆だけで掴み取ったのだ。
誠一は、その数字をただ静かに見つめていた。
(…四千五百万か)
彼が十五年間勤め上げた会社の退職金と、ほぼ同額。
あの魂をすり減らし続けた十五年間の対価と、この命を燃やし、仲間と笑い合った一ヶ月半の対価が同じ価値を持つ。
そのあまりにも奇妙な、そしてどこまでも痛快な事実に、彼は思わず笑みを漏らした。
「――さて」
パンの最後の一切れを咀嚼し、コーヒーで流し込んだ誠一が、プロジェクトリーダーの顔つきで口を開いた。
「浮かれてばかりもいられない。始めるぞ。『プロジェクト・獅子王』最終収支報告会を」
◇ 勝利の対価 ◇
彼のその一言で、ラウンジの空気が再び心地よい緊張感に包まれる。
誠一はARウィンドウを操作し、新たなスプレッドシートを投影した。そこには、完璧なフォーマットで作成された美しいグラフと、緻密な数字が並んでいた。
「まず、今回のプロジェクトの総括だ」
彼の指が、ホログラムのスクリーンをなぞる。
「プロジェクト期間は、計画立案からオークション終了まで合計で48日間。総ダンジョン周回数は412周。ボス【うろつく獅子】との総戦闘回数は358回」
そのあまりにも異常な数字の羅列に、麗華と葉月は改めて自分たちが成し遂げたことの途方もなさを実感していた。
「次に、収支報告」
画面が、円グラフと棒グラフが並ぶ見慣れたビジネス資料へと切り替わる。
「売上35,000,000円。内訳は、ユニークジュエル【獅子の咆哮】のオークション売却益ただ一つだ」
「次に経費。合計で11,850,000円。最大の支出はご存知の通り、キーアイテム【アナセマ】の購入費用1050万円。その他、ダンジョン内での消耗品費、情報収集のためのSeekerNetプレミアム会員費などが約135万円」
「以上を差し引き、当プロジェクトにおける純利益は…」
彼はそこで一度言葉を切ると、その最終的な数字を力強く指し示した。
「――23,150,000円。目標利益率を15%上回る大成功だ」
そのあまりにも完璧な、そしてどこまでもプロフェッショナルなプレゼンテーションに、麗華は感心したようにため息を漏らした。
「…すごいですわね、誠一さん。本当に元サラリーマンですのね」
「ああ」
誠一は頷いた。
「数字は、嘘をつかないからな」
そして彼は、最後のページを表示させた。
そのタイトルは、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも重要だった。
【利益分配案】
「そして議題は、最も重要な利益の分配へ移る」
誠一は、その真剣な眼差しで二人の少女を交互に見つめた。
「当然、三等分するのが最もシンプルで分かりやすいだろう。だが俺は、それは『公平』ではないと考えている」
「…と言いますと?」
葉月が、その大きな瞳を不安そうに揺らした。
「今回のプロジェクトの最大のターニングポイントはどこだったか。それは、討伐タイムが7分で頭打ちになったあの停滞の壁を、俺たちが打ち破ったあの瞬間だ。そして、その壁を打ち破るための唯一の鍵となったのが、葉月さん、君が装備した【アナセマ】だ」
彼のその静かな、しかしどこまでも確信に満ちた言葉。
「今回の成功の最大の功労者は、アナセマを使いこなし、三つの呪いという我々の新たな戦術の核となった葉月さんだ。異論はないな?」
そのあまりにも的確な評価に、麗華もまた静かに、そして深く頷いた。
「だから俺は、こう提案したい」
誠一は、その分配案を表示させた。
「純利益2315万円のうち40%にあたる926万円を葉月さんに。そして残りの60%を、俺と麗華さんで30%ずつ…つまり694万5000円ずつ分配する。これが、今回のプロジェクトにおける最も公正な分配だと俺は思う」
そのあまりにも予想外の、そしてどこまでも誠実な提案に、葉月はその顔を蒼白にさせた。
「そ、そんな…! 私にはもったいないですわ! 900万だなんて…! 今回の計画を立案された麗華様と、全てをまとめてくださった誠一さんのおかげですのに…!」
彼女は慌てて、その小さな手をぶんぶんと横に振った。
だが、その彼女のあまりにも謙虚な、そしてどこまでも彼女らしい反論を、麗華がその女王のような、しかしどこまでも温かい声で制した。
「――いいえ、葉月」
麗華は、その真紅の唇に美しい笑みを浮かべていた。
「誠一さんの言う通りですわ。貴女がいなければ、この勝利はありませんでした。私と誠一さんがどれだけ力を尽くそうとも、あの7分の壁は決して越えられなかった。貴女のあの三つの呪いこそが、私達を勝利へと導いたのです」
彼女はその席から立ち上がると、葉月の隣へと歩み寄り、その震える肩をそっと抱きしめた。
「胸を張りなさいな。そして受け取りなさい。それが、このパーティ『月兎』のエースサポーターである貴女の価値なのですから」
「麗華様…」
「ああ」
誠一もまた、その温かい光景に頷いた。
「これはビジネスだ。そして、ビジネスにおいて正当な評価と報酬は、何よりも重要だ。受け取ってくれ、葉月さん。それが、俺たちリーダーとエースからの君への最大の信頼の証だ」
「誠一さん…」
二人の天才からの、絶対的な信頼。
葉月のその大きな瞳から、じわりと大粒の涙が溢れ出した。
彼女はその涙を隠すように俯くと、小さな、しかしどこまでも確かな声で頷いた。
「…はい。ありがたく、お受けいたします」
そのあまりにも美しい、そしてどこまでも温かい合意形成。
誠一は、その場で共有口座からそれぞれの個人口座へとその巨額の利益を送金した。
三人のその魂の絆は、今この瞬間、ただの友情ではない、一つの巨大な成功を分かち合った「ビジネスパートナー」としての新たな、そしてより強固な形へとその姿を変えたのだ。
彼らのあまりにも長く、そしてどこまでも過酷だった「プロジェクト」が、今、最高の形でその幕を閉じた。




