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第2話 三十八歳、最初の夜

 新宿駅西口の喧騒を背に、斎藤誠一はまるで亡霊のように、夜の街を彷徨っていた。

 バスのチケットを破り捨て、「冒険者になる」と叫んだ、あの瞬間の熱狂は、アスファルトの冷たい空気に晒されて、すでに遠い過去の記憶のようだった。後に残されたのは、あまりにも巨大な現実と、そして「俺は、一体何をやっているんだ」という、冷静すぎるほどの自己への問いかけだけだった。

 帰るべき田舎はない。戻るべき会社もない。あるのは、15年分のサラリーマン人生を清算した退職金という名の、重すぎる現実だけ。

 彼は、ひとまず今夜を越すためだけの場所を求めて、歌舞伎町の、その猥雑なネオンの海へと、その身を沈めていった。


 彼が選んだのは、インターネットカフェだった。

 薄暗い照明、タバコの煙と合成洗剤の匂いが混じり合った、独特の空気。リクライニングチェアがずらりと並ぶ光景は、彼がかつて出張先で、終電を逃した時に何度か利用した、あの時と何も変わっていなかった。

 だが、今の彼にとって、この場所はもはやただの一時的な避難所ではない。

 彼の、新たな人生の、最初の「城」だった。


 彼は、一番奥まった場所にある、フラットシートの個室を選ぶと、その重いビジネスバッグを枕代わりにして、ごしりと横になった。背中に感じる、硬い床の感触。それが、今の彼の、あまりにも不確かで、そしてどこまでも自由な立場を、雄弁に物語っていた。

 眠れるはずもなかった。

 彼は、その個室に備え付けられた、旧式のARモニターを起動させた。そして、検索窓に、一つの単語を打ち込んだ。

『冒険者 始め方』


 そこから、彼の、人生で最も濃密な、一夜漬けの勉強が始まった。

 画面には、おびただしい数の情報が、洪水のように表示される。

 SeekerNetの、初心者向けガイドスレッド。

 人気VTuberが解説する、「ゼロから始めるダンジョン生活」。

 その、あまりにも膨大で、そしてどこまでも混沌とした情報の海。それを、彼は元サラリーマンとして培った情報処理能力で、一つ、また一つと、冷静に、そして確実に捌いていった。


「…なるほどな」

 彼の口から、感嘆と、そして納得の声が漏れた。

「まず、ユニークスキルを判定してもらう必要がある、か」

 彼は、ギルドが発行する公式の「新人探索者マニュアル」のPDFデータを見つけ出し、その内容を、隅から隅まで読み込んでいた。そこには、探索者としてのキャリアをスタートさせるための、AからZまでの全てが、あまりにも丁寧に、そしてどこまでも無機質に、記されていた。

「スキル判定は、ギルドの各支部で、無料で行える。完全予約制…と」

 彼は、そのページをブックマークすると、次に、装備に関する項目へと進んだ。


「…鑑定スキル付きAR型コンタクトレンズ。これが、ないと話にならない、と」

 彼は、いくつかのガジェットレビューサイトを比較検討し始めた。数万円で買える安価なモデルから、百万円を超えるプロ仕様のハイエンドモデルまで。その、あまりにも大きな価格の差。

「まあ、最初は一番安いやつでいいか。どうせ、すぐに買い換えることになるだろうしな」

 彼は、そう呟くと、その商品の購入ページのリンクを、インベントリ(まだ空っぽだが)の、ウィッシュリストへと登録した。


 そして、彼の視線が、ある一つの項目で、ぴたりと止まった。

 その見出しは、黄金色の、そしてどこまでも希望に満ちたフォントで、書かれていた。

【雷帝ファンドについて】

「…F級からC級までの、新人探索者を対象とした、初期資金給付基金…。給付額、100万円…」

「…なるほどね。これで、装備を揃えろって事か!」

 彼の、その乾ききっていたはずの心に、一つの、確かな光が差し込んだ。退職金には、手を付けずに済むかもしれない。

 彼は、その場で、ギルドの公式サイトから、雷帝ファンドの給付申請ページへと飛んだ。必要事項を、一つ、また一つと、慣れた手つきで入力していく。氏名、年齢、そして、退職した会社の名前。その、過去の経歴を打ち込む指が、ほんの少しだけ、震えた。

 だが、彼は決して、その手を止めなかった。

 申請完了。

 その、無機質なポップアップが表示された時。彼は、確かに、過去の自分と、一つ、決別できたような気がした。


「…よし。これで、準備は整った」

 彼は、モニターの光で青白く照らされた自らの掌を、じっと見つめた。

 この、何一つ特別な力を持たない、ただの、38歳の中年の男の手。

 その手が、明日から、剣を握り、そしてモンスターと戦うことになる。

 その、あまりにも非現実的な事実。

 だが、彼の心に、もはや恐怖はなかった。

 あるのはただ、これから始まる、未知なる冒険への、尽きることのない、好奇心だけだった。


「あと、装備だな…。戦士か、盗賊か、魔術師か…」

 彼は、それぞれのクラスの、基本的な性能と、その後のビルドの方向性について、書かれたスレッドを、読み漁り始めた。

(戦士は、安定している。だが、大器晩成型か。俺の歳で、そこまで悠長なことは、言ってられないかもしれん)

(魔術師は、派手で強力だ。だが、体が脆い。一撃のミスが、命取りになる。…俺には、向いてないな)

(…盗賊、か)

 彼の指が、ぴたりと止まった。

 そのクラスの紹介文には、こう書かれていた。

『テクニカルで、トリッキー。極めれば最強だが、そこに至る道はあまりにも険しい。頭脳と、反射神経に自信がある者だけが、選べ』

(…頭脳、ね)

 彼は、ふっと、その口元を緩ませた。

 15年間の、サラリーマン人生。彼が、そこで唯一、誇れるものがあったとすれば。それは、数多の理不尽な要求と、複雑な人間関係の、その隙間を縫うようにして、常に最適解を導き出してきた、その思考能力だけだった。


「…いや、完全にフィーリングだけど」

 彼は、誰に言うでもなく、呟いた。

「…直感で、盗賊が良いな、と思った」

 その、あまりにも根拠のない、しかしどこまでも確信に満ちた、一言。

 それが、彼の、最初の、そして最も重要な、選択となった。


「取り敢えず、明日からダンジョンに入って、レベル上げスタートだな!」

 彼は、その場で、ギルドの公式サイトから、翌日の午前10時の、スキル判定の予約を入れた。

 そして、彼はそのARモニターを、オフにした。

 個室の中は、再び、静寂と、闇に包まれた。

 だが、その闇は、もはや彼にとって、絶望の色ではなかった。

 これから始まる、輝かしい未来を、その内に秘めた、可能性の色だった。

 彼は、その硬い床の上で、目を閉じた。

 心臓が、高鳴っている。

 ワクワクする。

 こんなに、ワクワクしたのは、いつ以来だろう。

 初めて、娘の光が、その小さな手で、彼の指を握り返してくれた、あの日以来かもしれない。

(…見てろよ、光)

 彼は、心の中で、その愛する娘へと、語りかけた。

(お父さん、もう一度だけ、本気でやってみるからな)

「よし、やるぞ、俺!」

 彼は、そう小さく、しかし力強く呟くと、その三十八年間の人生で、最も穏やかで、そして最も希望に満ちた、眠りへと、落ちていった。


 ◇


 翌日、午前10時。

 国際公式ギルド、新宿支部。

 斎藤誠一は、そのあまりにも巨大で、そしてどこまでも未来的なビルの、そのエントランスに、一人、呆然と立ち尽くしていた。

 昨日、ネットカフェの小さな画面で見ていた、あの黄金の紋章。

 それが今、彼の目の前で、本物の、圧倒的な存在感を放って、輝いていた。

 彼は、その場の空気に飲まれそうになるのを、必死にこらえながら、受付カウンターへと向かった。


「あの、10時に、スキル判定の予約をしていた、斎藤と申しますが…」

「はい、斎藤誠一様ですね。お待ちしておりました」

 受付の、知的な美貌の女性が、完璧な笑顔で、彼を迎えた。

 その、あまりにもスムーズな対応。それに、彼は少しだけ、安堵した。

 彼は、その女性に導かれるままに、鑑定室へと、その歩みを進めた。

 そして、彼は対峙した。

 あの、黒曜石の、オベリスクと。


「では、こちらに、手を触れてください。リラックスして、大丈夫ですよ」

「…はい」

 誠一は、ゴクリと喉を鳴らすと、その汗ばんだ掌を、オベリスクの、そのひんやりとした表面へと、そっと触れさせた。

 その、瞬間だった。

 昨日、彼が見た、あの新入生たちの時とは、比較にならないほどの、まばゆい光が、オベリスクから放たれた。

 だが、その光は、何色でもなかった。

 ただ、純粋な、そしてどこまでも透明な、光の奔流。

 オベリスクの横の、ホログラムモニターが、けたたましいアラート音と共に、激しく明滅を繰り返す。

 そして、そこに表示されたのは、一つの、あまりにも不可解な、エラーメッセージだった。


【ERROR: POTENTIAL, UNMEASURABLE】

【RANK: E (PROVISIONAL)】

【SKILL NAME: UNKNOWN】


「――え…?」

 受付の女性の、その完璧だったはずの笑顔が、凍りついた。

「こ、こんな事、初めてです…。測定、不能…?」

 彼女は、その顔を蒼白にさせながら、慌てて、その奥の部屋へと、駆け込んでいった。

「す、すみません!すぐに、上司を…!」


 その、あまりにも異常な事態。

 だが、その混乱の中心で。

 誠一は、ただ一人、冷静だった。

 彼は、そのモニターに表示された、「E級(暫定)」という、あまりにも頼りない文字列を、ただ静かに、見つめていた。

 そして、彼は、ふっと、その口元を緩ませた。

(…まあ、良いか)

 彼の、その三十八年間のサラリーマン人生。

 それは、常に、予測不能なトラブルと、理不尽な要求の、連続だった。

 それに比べれば、こんなこと。

 彼の心は、もはや、その程度のことで、揺らぐことはなかった。


 彼は、その混乱する受付嬢に、ただ一言だけ告げた。

「あの、終わったなら、もう行っていいですか?」

 そして、彼はその場を後にした。

 彼の、新たな人生。

 その、あまりにも波乱に満ちた、そしてどこまでも予測不能な、幕開けだった。


 彼は、その足で、まっすぐに、F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】へと、向かった。

 彼の、本当の「答え」は、こんな、機械の判定の中にはない。

 ただ、自らの、その拳と、魂で、掴み取るものなのだと。

 彼は、もう、知っていたのだから。

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