第19話 三十八歳と、勝利の方程式
翌朝午前9時。
三人は再び、E級ダンジョン【廃墟と化した王族の庭園】のボスエリアの前に立っていた。
昨日までのどこか重苦しい停滞感は、そこにはなかった。あるのはただ、これから始まる新たな挑戦への静かな高揚感だけだ。
「――プラン通りに行く。葉月、頼んだぞ」
「はい!」
葉月の力強い返事と共に、三人はボスエリアへと突入した。
「グルルルルルルォォォォォ!」
エリアの中央で微睡んでいた【うろつく獅子】が侵入者を感知し、その巨体をゆっくりと起こす。その黄金の瞳が、憎悪と殺意の色を浮かべて三人を捉えた。
昨日までであれば、この威圧感だけで彼らの動きは鈍っていただろう。
だが、今の彼らは違った。
獅子がその最初の攻撃である飛びかかりのモーションに入ろうとした、まさにその瞬間。
葉月が動いた。
彼女は、その両手をまるで指揮者のように優雅に、しかしどこまでも素早く動かす。
「――王を縛るは三つの理!」
彼女の詠唱が、静寂な空間に響き渡る。
まず彼女の足元から青白い魔力の波紋が広がり、獅子の巨体を包み込んだ。
【――時間の鎖!】
獅子の動きが、まるでスローモーション映像のように明確に鈍重になる。
だが、葉月の詠唱はまだ終わらない。
彼女の右手から今度は禍々しい紫黒の呪詛のオーラが放たれ、獅子の肉体へと突き刺さった。
【――脆弱の呪い!】
獅子の鋼鉄の如き硬度を誇っていたはずの肉体が、まるで脆いガラス細工のようにその防御力を失っていくのが、オーラの揺らぎとして誠一の目にも見えた。
そして、とどめの一撃。
彼女の左手から赤、青、黄の三色の元素が渦を巻く、不安定な魔力の塊が放たれる。
【――元素の弱体の呪い!】
その呪いが着弾した瞬間、獅子の全身を覆っていたあらゆる魔法攻撃を弾き返す不可視の魔力障壁が、ガラスのように砕け散る音がした。
時間の遅延、物理防御力の低下、元素耐性の低下。
三つのあまりにも致命的な呪いが、絶対王者であったはずの獅子を、完全に無力な存在へと変貌させていた。
「――今ですわ!」
麗華の、そのどこまでも楽しそうな声が響く。
もはや、昨日までの慎重な立ち回りは必要ない。
彼女は、その杖の先端にありったけの魔力を集束させる。
「――スパァァァク!!」
放たれたのは、もはやただの初心者魔法ではない。
天を裂き、地を穿つ一筋の巨大な雷霆。
その黄金の雷が、元素耐性を失った獅子の巨体を寸分の狂いもなく直撃した。
「ギィヤアアアアアアアアアアアアア!!!」
これまで麗華のスパークを受けても、せいぜいその体毛を焦がす程度だった獅子が、初めて明確な苦痛の絶叫を上げた。
雷光は、その体を内側から焼き尽くし、その肉体をズタズタに引き裂いていく。
戦闘ログに表示されたダメージ数値は、これまでの平均の実に三倍近い値を叩き出していた。
だが、攻撃はまだ終わらない。
「――そこだ!」
誠一が、その好機を逃すはずがなかった。
彼は、その右腕を大きく振りかぶる。
その手には、もはやナイフは握られていない。
ただ、緑色の不気味な液体で満たされた一つのフラスコがあるだけだ。
【ポイゾナスコンコクション】!
放たれたフラスコは完璧な軌道を描き、脆弱の呪いによって防御力を失った獅子の眉間へと吸い込まれていく。
そして、炸裂。
パァン!という乾いた破裂音と共に、猛毒の液体が獅子の顔面で飛散した。
ジュウウウウウウッという、肉が溶けるおぞましい音。
混沌ダメージは、物理防御も元素耐性も無視して、直接生命力そのものを削り取る。
「ガッ…!グ…!ギ…!」
獅子は、その顔を押さえ意味のない呻き声を上げる。
だが、誠一の攻撃はまだ始まったばかりだった。
一発、二発、三発…!
彼は、まるで精密機械のように寸分の狂いもなくフラスコを投げ続ける。
緑色の爆発が、獅子の巨体のありとあらゆる箇所で連続して炸裂する。
その圧倒的な手数と、継続的なダメージ。
それが、ポイゾナスコンコクションというビルドの真の恐ろしさだった。
そして数十秒後、あれほどまでに彼らを苦しめ続けた絶対王者は、その巨体を維持することができなくなり、まるで崩れ落ちるようにその場にどうと倒れ込んだ。
その亡骸は、雷に焼かれ、毒に溶かされ、もはや原型を留めてはいなかった。
静寂が訪れる。
三人は、そのあまりにもあっけない幕切れに一瞬、呆然としていた。
そして誠一が、自らのARウィンドウに表示された戦闘タイムを確認する。
【討伐タイム:2分58秒】
「――やった…」
誠一の口から、無意識にその言葉が漏れた。
「やりましたわ! やりましたわ、誠一さん、葉月!」
麗華が、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜びを爆発させる。
「はい…! 私達の、勝ちです…!」
葉月もまた、その冷静な仮面の下で、その拳を固く、固く握りしめていた。
タイムは、半分以下。
麗華のプレゼンテーションは、何一つ間違ってはいなかった。
彼らはついに、この分厚い停滞の壁を自らの力で打ち破ったのだ。
◇
その日を境に、彼らの日常は再びその様相を一変させた。
これまで一日かけて、せいぜい五、六周するのが限界だった【うろつく獅子】の討伐。
だが今の彼らにとっては、それはもはやただの単純な「作業」でしかなかった。
休憩時間も含め、一周あたりわずか10分。
一日で、三十周以上を安定してこなすことが可能となったのだ。
怒涛の周回が始まった。
朝9時にダンジョンへ入り、ひたすらにボスエリアを目指し、獅子を狩る。昼食のために一度ギルド島へ戻り、そして午後もまた、日暮れまで獅子を狩り続ける。
それは、かつてのF級ダンジョン周回とは比較にならないほど過酷で、そして単調な日々だった。
だが、三人の心は不思議なほど折れることはなかった。
誠一は、元サラリーマン時代に培ったプロジェクト管理能力を、この単調な作業の中でいかんなく発揮していた。
彼は毎日の討伐数、ドロップアイテム、そしてカードのドロップ確率を自作のスプレッドシートに記録し続けた。そのデータに基づき、彼は一日のノルマを設定し、休憩時間を最適化し、そして二人の少女のモチベーションを管理した。
「麗華、少し火力が落ちてきてるぞ。集中力が切れてきたか? 次の周回が終わったら、15分休憩を挟もう」
「葉月、呪いのタイミングがコンマ1秒早かった。獅子が完全に行動を開始するのを待ってからでも十分間に合う。MPの消費を、少しでも抑えるんだ」
そのあまりにも的確で、そしてどこまでも冷静な指示。
それは、かつて彼が部下たちの営業成績を管理していた時と、何一つ変わらない光景だった。
だが、今の彼の言葉には、あの頃にはなかった確かな「熱」がこもっていた。
麗華もまた、そのお嬢様らしからぬ驚異的なまでの精神力を見せつけた。
彼女は、その単調な作業の中で自らのスパークの詠唱をさらに短縮し、そしてその威力をさらに高めるための研究を、独自に続けていた。
「見ててくださいな、誠一さん! 今のスパークは、昨日よりもさらに3%もダメージ効率が上がっていますのよ!」
彼女はそう言って、まるで新しいおもちゃを自慢する子供のように、その美しい顔を輝かせた。
そして、葉月。
彼女は、このプロジェクトのまさに心臓部だった。
三つの呪いを、寸分の狂いもなく完璧なタイミングで維持し続ける。それは、並大抵の集中力で成し遂げられる芸当ではなかった。
彼女はただ、黙々と自らの役割をこなし続けた。
だがその背中は、日を追うごとに、より大きく、そしてより頼もしくなっていくのを、誠一は確かに感じていた。
そして周回開始から五日目、その日は来た。
その日の12周目、いつものように獅子を討伐し、その亡骸が光の粒子となって消えていく。
そしてその後に残されたドロップアイテムの中に、ひときわ神々しいまでの黄金の輝きを放つ一枚のカードがあった。
【獅子王の遺産】。
「――来た!」
誠一が叫んだ。
それが、彼らの長い、長い農耕の最初の収穫の瞬間だった。
その日を皮切りに、彼らのインベントリは、着実にその黄金のカードで満たされていった。
二枚、三枚、四枚…。
そしてプロジェクト開始からちょうど二週間が経過した、その日の夕暮れ。
彼らはついに、その最後のピースを手に入れた。
8枚目の【獅子王の遺産】。
ダンジョンの中で、三人は言葉もなく、ただ互いの顔を見合わせた。
その表情には、二週間の過酷な労働によって刻まれた深い疲労の色が浮かんでいた。
だがそれ以上に、一つの巨大なプロジェクトを成し遂げた者だけが浮かべることができる、圧倒的なまでの達成感が満ち溢れていた。
「――帰ろうか」
誠一のその一言に、二人の少女は、これまでで最高の笑顔で頷いた。
◇
ギルド島「高天原」。
その白亜の天守閣の最上階、そこには、特殊なアイテムの交換だけを行う、神殿のような荘厳な一室があった。
三人は、その部屋の中央に置かれた黒曜石の祭壇の前に、静かに立っていた。
「…いよいよですわね」
麗華が、その期待に満たた声で呟いた。
誠一は頷くと、インベントリから8枚の【獅子王の遺産】を一枚、また一枚と祭壇の上へと並べていく。
8枚のカードが揃った瞬間、祭壇全体が、まるで呼吸を始めたかのように淡い黄金の光を放ち始めた。
誠一は深呼吸を一つすると、その祭壇へと力強くその右手をかざした。
そして彼は叫んだ。
その声は、この二週間の全ての努力と全ての想いを乗せて、その神聖な空間に響き渡った。
「――交換だッ!!」
その言葉が、引き金だった。
8枚のカードが一斉にまばゆいほどの光を放ち、宙へと舞い上がる。
それらは、まるで一つの生命体のように互いに引き寄せ合い、溶け合い、そして一つの完璧な球体へとその姿を変えていった。
光が収束していく。
そしてその光の中心に、一つの小さな、しかしどこまでも圧倒的な存在感を放つ深紅の宝石が姿を現した。
その宝石は、まるで獅子の燃える心臓そのものであるかのように、力強い鼓動を刻んでいた。
やがて光が完全に晴れた時、祭壇の上には、その深紅のジュエルが静かに鎮座していた。
誠一は、そのジュエルをそっとその手に取る。
ひんやりとした、しかしどこか温かい不思議な感触。
そして彼の目の前のARウィンドウに、そのあまりにも暴力的なまでの詳細な情報が表示された。
「アイテム名:
獅子の咆哮 (Lion's Roar)
装備部位:
ジュエル(パッシブツリーに装着)
レアリティ:
ユニーク (Unique)
装備要件:
レベル 60
効果テキスト:
範囲:中
範囲内の「近接物理ダメージが増加する」通常パッシブスキルの効果が50%増加する。
範囲内の「斧、メイス、剣」に関する通常パッシブスキルの効果が50%増加する。
術者は、元素ダメージおよび混沌ダメージを与えることができなくなる。
フレーバーテキスト:
小賢しい魔法も、卑劣な毒も、王者の前では意味をなさない。
ただ、純粋なまでの「力」。
それだけが、玉座へと至る唯一の道なのだ。」
「…やった…」
誠一の口から、再びその言葉が漏れた。
「やりましたわ…! 私達、本当にやってのけましたのね…!」
麗華の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
葉月もまた、その喜びを隠しきれない様子で、その唇をきつく結んでいた。
「――よーし!」
誠一は、そのジュエルのそのあまりにも力強いオーラに、自らの闘志を奮い立たせるように叫んだ。
「あとは、売るだけだ!」
◇
国際公式ギルドが運営するオークションハウス。
そこは、世界中の探索者たちが自らの冒険の果てに手に入れた至高の逸品を出品し、そしてそれを求める者たちが億単位の金を動かす、欲望の坩堝。
誠一は、そのデジタル化された荘厳な空間で、出品手続きを進めていた。
「最低落札価格は3000万円。即決価格は4000万円で設定する。これでいいな?」
「異議ありませんわ。私達の努力の結晶ですもの。安売りするつもりは、毛頭ありませんわ」
「はい。妥当な価格設定だと思います」
三人の意見は、一致していた。
出品ボタンが押される。
オークションの期間は24時間。
彼らの二週間に及ぶプロジェクトの、最後の審判が下される時が来たのだ。
その日の夜、三人は再びギルド島のラウンジのいつものテーブルに集まっていた。
だが、そこに食事はなかった。
ただ三人の視線は、ラウンジの中央に設置された巨大なモニターに釘付けになっていた。
そこには、今まさに開催されているオークションの様子がリアルタイムで映し出されている。
彼らの出品した【獅子の咆哮】のオークションが始まった。
開始価格は100万円。
その数字が表示された数秒後、最初の入札が入った。
【5,000,000円】
一気に価格が跳ね上がる。
「おっ…!」
誠一の口から、思わず声が漏れた。
だが、それはまだ序の口に過ぎなかった。
【8,000,000円】
【12,000,000円】
【17,000,000円】
まるでおもちゃの数字で遊んでいるかのように、入札額は信じられないほどのスピードで吊り上がっていく。
それは、このジュエルがどれだけ多くのトップクラスの物理アタッカーたちから渇望されているかの、何よりの証明だった。
やがて価格は、2500万円を超えた。
そのあたりで、さすがに入札のペースが鈍り始める。
「…ここまでかしら…?」
麗華が、不安そうに呟いた。
その時だった。
二つの見慣れない、しかしどこまでも威厳のある巨大なギルドの紋章が、入札者リストに点灯したのだ。
A級ギルド【荒ぶる魂】と、【鋼鉄の軍団】。
トップギルド同士の、一騎打ちが始まった。
【28,000,000円】
【29,000,000円】
【31,000,000円】
百万単位の、壮絶な札束の殴り合い。
ラウンジにいた他の探索者たちも、そのあまりにもハイレベルな戦いに固唾を飲んで、モニターを見守っている。
三人の心臓は、張り裂けんばかりに高鳴っていた。
自分たちが命懸けで手に入れたアイテムが、今、自分たちの想像を遥かに超える価値となって、世界に認められようとしている。
そのあまりにも、強烈なカタルシス。
そして、価格が3450万円に到達したその時、【鋼鉄の軍団】の入札が止まった。
残り時間は、10秒。
9、8、7…
もう誰も、入札はしないのか。
このまま、終わるのか。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
カウンターの数字が、最後に大きく跳ね上がった。
【落札者:荒ぶる魂】
【落札価格:35,000,000円】
「――うおおおおおおおおおおっ!!」
誰かの絶叫。
それが誠一自身の声であることに、彼はすぐには気づかなかった。
隣で麗華がその両手で顔を覆い、その肩を震わせている。葉月もまた、その席から立ち上がり、その口をあんぐりと開けたまま、モニターを見つめている。
ラウンジ全体から、どよめきと、そして祝福の拍手が沸き起こった。
やった。
やったんだ。
俺たちは、やったんだ。
誠一は、その場でバーカウンターへと向かうと、その震える声でバーテンダーへと注文した。
「ここの一番高い酒を、1つ!と飲み物2つを!」
すぐに、琥珀色に輝く極上の液体が満たされた1つのグラスとジュース2つのグラスが運ばれてきた。
誠一は、そのグラスを二人の少女へと手渡す。
「――乾杯だ」
彼のその一言に、麗華と葉月は、その涙で濡れた顔を上げ、最高の笑顔で頷いた。
三つのグラスが、ラウンジの中央で高らかにカチンと打ち鳴らされる。
それは、三十八歳の元サラリーマンが、その人生で初めて自らの力だけで成し遂げた巨大なプロジェクトの完了を祝す、勝利の音だった。
彼の本当の冒険は、今、確かに始まったのだ。