第18話 三十八歳と、一千万円の指輪
翌朝、午前9時。
ギルド島「高天原」の荘厳なラウンジは、昨日までの穏やかな空気とは一変し、一つの巨大なプロジェクトが始動する前の、静かで、しかしどこまでも張り詰めた緊張感に包まれていた。
斎藤誠一、天龍院麗華、相川葉月の三人は、いつものように窓際のテーブル席に集まっていたが、その手元にあるのは朝食のプレートではなかった。
テーブルの中央には、誠一が作成したARホログラムの計画書が、青白い光を放って浮かび上がっている。
『プロジェクト・獅子王:フェーズ2 - 火力増強計画』
その、あまりにもサラリーマン的なタイトルの下に、今日の、そしてこれからの彼らの運命を決定づける、ただ一つのタスクが、赤文字で記されていた。
【ユニーク指輪:アナセマの購入】
「…本当に行くのですわね?」
葉月の、その震える声が、静寂を破った。彼女の美しい顔は、期待よりも、はるかに大きな不安の色で、蒼白になっていた。
「当たり前ですわ」
麗華が、その葉月の不安を、一刀両断にするかのように、言い放った。
「昨夜、誠一さんが決断されたこと。それを、今更覆すことなど、ありえませんわ」
「ですが、1000万円ですのよ!?私達が、この一ヶ月半、文字通り血と汗を流して稼いだ、その全てを…!」
「だから、良いのですわ」
麗華は、そう言うと、その真紅の瞳に、絶対的な自信の光を宿した。
「中途半半端な投資では、中途半端なリターンしか得られない。私達が目指すのは、その遥か高み。ならば、賭ける時には、全てを賭ける。それが、勝者の流儀というものですわ」
その、あまりにも大胆不敵な、そしてどこまでも彼女らしい哲学。
それに、葉月は、ぐっと言葉に詰まった。
そして、二人の少女の視線が、自然と、このパーティの、唯一の大人へと注がれた。
「――まあ、麗華さんの言う通りだ」
誠一は、その二人の視線を受け止めると、静かに、しかしどこまでも頼もしい声で、言った。
「ハイリスク・ハイリターン。ビジネスの、基本だよ。それに、これはただのギャンブルじゃない。俺たちのデータを基に、俺が弾き出した、最も確実な『先行投資』だ。大丈夫。必ず、元は取れるさ」
その、あまりにも落ち着き払った、そしてどこまでも自信に満ちた、リーダーの言葉。
それに、葉月の、その不安に揺れていた瞳が、ようやく、その光を取り戻した。
「…分かりましたわ。誠一さんと、麗華様が、そうおっしゃるのでしたら」
「よし、決まりだな」
誠一は、そう言って立ち上がった。
「じゃあ、行くか。アメ横へ」
◇
上野、アメヤ横丁。
その、猥雑で、そしてどこまでも生命力に満ち溢れた光景は、数週間前に彼が初めて訪れた時と、何も変わっていなかった。
だが、今の誠一の心は、あの時とは全く違っていた。
もはや、彼はただの傍観者ではない。
この、巨大な市場の、確かな「プレイヤー」の一人として、彼は今、この場所に立っていた。
「…それで、お店の当ては、あるのですか?」
葉月が、その人の波に少しだけ気圧されながら、尋ねた。
「ああ」
誠一は、頷いた。
「昨夜、SeekerNetの、ハイランクユニーク専門の取引フォーラムで、目星はつけておいた」
彼は、そう言うと、アメ横の、そのメインストリートから一本外れた、薄暗い、そしてどこかプロの匂いがする、裏路地へと、その歩みを進めていった。
そこは、初心者向けの安売り店が軒を連ねる表通りとは、全く違う空気に支配されていた。
行き交う人々は、皆、一様にその身に、B級、A級の、禍々しいオーラを放つ装備を纏っている。
その、あまりにも濃密な強者の気配。
それに、麗華と葉月は、ゴクリと喉を鳴らした。
そして、三人は、その路地の、最も奥まった場所に、静かに佇む、一軒の店の前で足を止めた。
そこには、派手な看板も、威勢のいい呼び込みの声もない。
ただ、古びた黒檀の扉の上に、一枚の、小さな真鍮のプレートが掲げられているだけだった。
【山田道具店】。
その、あまりにも地味な、そしてどこまでも威厳のある店構え。
「…ここだ」
誠一は、そう呟くと、その重厚な扉を、ゆっくりと、そして敬意を込めて、ノックした。
数秒後、扉が内側から、静かに開かれた。
そこに立っていたのは、まるで古木のように痩せこけた、しかしその瞳の奥に、この世の全ての真実を見透かしているかのような、鋭い光を宿した、一人の老人だった。
店主の、山田。
このアメ横の裏社会で、その名を知らぬ者はいない、伝説の、ユニークアイテムブローカーだった。
「…ほう」
山田は、その鋭い瞳で、誠一たち三人を、値踏みするように、じろりと見渡した。
「…ひよっこが、三羽。何の用だい?」
その、あまりにも不躾な、しかしどこまでも本質を突いた、問いかけ。
それに、誠一は、臆することなく、答えた。
「【アナセマ】を、買いに来ました」
その、あまりにも単刀直入な、そしてどこまでも真摯な一言。
それに、山田の、その老いた瞳が、初めて、わずかに、その色を変えた。
「…面白い」
彼は、そう一言だけ呟くと、その痩せこけた体で、三人を店の中へと、促した。
店内は、外観以上に、異様な空気に満ちていた。
壁一面の棚に、無数の、神話級のユニークアイテムが、まるでただのガラクタのように、無造作に、しかし完璧な管理の下で、並べられている。
その、一つ一つが、中小企業ほどの価値を持つ、神々の遺産。
その、あまりにも圧倒的な光景に、麗華と葉月は、ただ息を呑むことしかできなかった。
「…アナセマ、ね」
山田は、カウンターの奥の、ひときわ厳重に封印された桐の箱の中から、一つの、小さな、しかし禍々しいオーラを放つ指輪を、取り出した。
ムーンストーンの、その青白い輝き。
その中央に刻まれた、絶望の紋様。
「…マーケットでの、現在の適正価格は、1000万だ。うちは、手数料として、そこから5%を上乗せさせてもらう。つまり、1050万。現金かい?」
その、あまりにもビジネスライクな、そしてどこまでも揺るぎない、価格提示。
「…はい」
誠一は、頷いた。
彼は、そのパーティの共有口座から、1050万円という、あまりにも巨大すぎる数字を、山田の口座へと、転送した。
ARウィンドウに表示された、送金完了の、無機質なテキスト。
それが、彼らの、その一ヶ月半の、血と汗の結晶が、形を変えた、その瞬間だった。
「…まいどあり」
山田は、その指輪を、小さなベルベットの箱へと収めると、誠一へと、そっと差し出した。
誠一は、その箱を、まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に、しかし確かな手つきで、受け取った。
その、あまりにも小さな箱。
だが、その重みは、彼の、これまでの人生で感じた、どの責任よりも、重く感じられた。
◇
「――葉月さん」
ギルド島「高天原」へと、帰還した三人。
ラウンジの、いつものテーブル席で、誠一は、その小さな箱を、葉月の前へと、そっと差し出した。
「…これを」
「…は、はい…」
葉月は、その震える指で、その箱を受け取った。
彼女は、その蓋を、おそるおそる開ける。
そこに、静かに鎮座していたのは、彼女の、そしてこのパーティの、未来そのものだった。
彼女は、その指輪を、自らの、左手の人差し指へと、そっとはめた。
その、瞬間だった。
彼女の、その華奢な体から、これまでにないほどの、禍々しい、しかしどこまでも力強い、紫色の魔力のオーラが、迸った。
「…すごい…」
彼女の、その大きな瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
「…分かります。私の中に、今、三つの、異なる『理』が、渦巻いているのが…!」
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも美しい、力の覚醒。
それに、麗華は、その美しい顔に、最高の、そして最も獰猛な笑みを浮かべて、言った。
その声は、新たな時代の始まりを告げる、女王の響きがあった。
「――ふふっ。さあ、始めましょうか。私達の、本当の『狩り』を」
彼らの、あまりにも長く、そしてどこまでも過酷な「プロジェクト」が、今、確かに、その第二の、そして最も重要な、一歩を踏み出したのだ。