第17話 三十八歳と、停滞の壁
斎藤誠一が冒険者になってから、一ヶ月半が経過した。
パーティ「月兎」――麗華が半ば強引に、しかしどこか誇らしげに命名した彼らのチーム名は、月詠ギルドの新人たちの間ではすでに一種の伝説となりつつあった。
三十八歳の元サラリーマンと、二人の天才少女。そのあまりにも異質な三人組は、ギルドに加入してからというもの、一日も休むことなくただひたすらにダンジョンへと潜り続けていた。
彼らのレベルは、すでに15の大台に到達していた。
そして、彼らが挑み続けるE級ダンジョン【廃墟と化した王族の庭園】の主、【うろつく獅子】の討伐数はすでに百を超えていた。
そのあまりにもストイックで、そしてどこまでも狂気的なまでの周回。
その結果は、確かな「数字」として彼らの元へと還元されていた。
ギルドの共有口座に蓄えられた資金は1400万円。
そして彼らのインベントリの中には、三枚の神々しいまでのオーラを放つ宿星のカード【獅子王の遺産】が、静かにその輝きを放っていた。
だが、その順風満帆に見える航海の裏側で、一つの分厚く、そして見えない壁が彼らの前に立ちはだかり始めていた。
◇
その日の夜。
ギルド島「高天原」の荘厳なラウンジ。
三人はいつものように、その日の反省会を兼ねた夕食をとっていた。テーブルの上には、A級探索者が調理した栄養バランスも味も完璧な食事が並んでいる。だが、三人の間にはいつものような冒険の後の高揚感はなかった。
あるのは、ただ重い重い沈黙だけだった。
その沈黙を最初に破ったのは、誠一だった。
彼はそのARコンタクトレンズの視界を、テーブルの中央へとホログラムとして投影した。
そこに映し出されたのは、彼がこの一ヶ月半こつこつと記録し続けてきた、彼ら三人のあまりにも詳細な戦闘ログと収支報告書だった。
「――見ての通りだ」
誠一のその静かな声が、ラウンジの喧騒を切り裂いた。
「俺たちの『うろつく獅子』に対する平均討伐タイムは、この二週間、完全に横ばいだ。7分12秒。ここが、今の俺たちの限界らしい」
そのあまりにも無慈悲な、そしてどこまでも客観的な「事実」。
それに麗華が、その手に持っていた銀のフォークをカチャリと皿の上に置いた。
「…ええ。分かってはおりましたわ」
彼女の声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「私のスパークのレベルも上がり、誠一さんのフラスコの威力も上がっている。葉月の呪いの精度も完璧ですわ。ですが…」
「はい」
葉月がその言葉を引き継いだ。
「ボスの基本的な耐久力とスピードが、我々の火力を上回っています。これ以上の時間短縮は、今のままでは困難かと」
そのあまりにも的確な、そしてどこまでも冷静な二人の天才の分析。
それに誠一は、深く頷いた。
「ああ。今のペースだと、残りのカード5枚を集めるのにあと一ヶ月はかかる計算になる。当初の計画より、大幅な遅れだ」
彼は、元サラリーマンらしい厳しい口調でその現実を突きつけた。
「――何か、新しい手を打つ必要がある」
彼はそう言って、その視線をテーブルの向こう側の麗華へと向けた。
「――何か策は?」
そのあまりにもシンプルで、しかしどこまでも信頼に満ちた問いかけ。
それに麗華は、待っていましたとばかりに、その美しい顔に獰猛な、そしてどこまでも自信に満ちた笑みを浮かべた。
「――秘策がありますわ」
彼女のその静かな、しかしどこまでも確信に満ちた一言。
「今、葉月が使用している呪いは一度に一つのみ。ですが、それを引き上げるのです」
「…呪いを引き上げる?」
「ええ。そのためのキーユニークが、これですわ!」
麗華はそう言うと、自らのARウィンドウに一枚の禍々しくも美しい指輪の画像を映し出した。
アナセマ
ムーンストーンの指輪
指輪
(暗黙)エナジーシールド +25
知性 +40
キャストスピードが15%増加する
呪いスペルをキャストした時に20%の確率でパワーチャージを1個獲得する
プレイヤーの呪いの上限はパワーチャージの最大数と同量となる
フレバーテキスト:
人間の無能さに激怒し、
魔王は門を開き、
世界に苦痛の祈りを解き放った。
「…アナセマ…」
誠一は、そのあまりにも有名な、しかしあまりにも高価な指輪の名を呟いた。
「ええ」
麗華は頷いた。
「この指輪の最後のテキスト。『プレイヤーの呪いの上限はパワーチャージの最大数と同量となる』。これが、ポイントですわ!」
彼女のその瞳が、興奮にキラキラと輝き始める。
「パワーチャージは、基礎で3つまで溜めることができます。つまり、この指輪を葉月が装備すれば、彼女は一度に三つの呪いを敵に叩き込むことができるようになるのです!3倍ですわ!3倍!」
そのあまりにも圧倒的な、そしてどこまでも暴力的なまでの性能。
それに誠一は、ただ息を呑むしかなかった。
麗華のプレゼンテーションは、まだ終わらない。
「考えてもみてくださいな!今の私達は、葉月の【時間の鎖】で敵の速度を落とすことしかできません!ですが、これがあれば!敵の物理耐性を下げる【脆弱の呪い】と、元素耐性を下げる【元素の弱体の呪い】を同時に叩き込めるのですわ!そうなれば、誠一さんのフラスコも私のスパークも、ダメージは今の二倍以上!討伐タイムは、半分以下になりますわ!」
「…強い指輪です。マーケットでの現在の価格は、1000万円はしますが…」
麗華はそこで一度言葉を切ると、その真紅の瞳で誠一を射抜くかのように見つめた。
「――ですが、今の私達のパーティの予算は1400万円ですわ!先行投資としてどうです、誠一さん!」
そのあまりにも大胆な、そしてどこまでも彼女らしい提案。
それに葉月が、その顔を蒼白にさせた。
「い、一千万!?麗華様!それは、あまりにも危険すぎますわ!もしこれを買っても、カードがドロップしなかったら…!私達の資金は、ほとんど底をついてしまいます!」
「その時は、その時ですわ!」
麗華が、その葉月のあまりにも当然な、そしてどこまでも現実的な懸念を一刀両断にした。
「私達は最強を目指すのでしょう?ならば、リスクを取らなければリターンは得られませんわ!」
その二人の天才少女の、あまりにも白熱した議論。
その中心で誠一は、ただ黙ってその指でテーブルをトントンと叩いていた。
彼の脳裏では今、猛烈な速度で計算が行われていた。
1000万円の投資。
それによって得られる、呪いの上限+2というリターン。
それによって、どれだけ討伐スピードが上がるのか。
そしてその結果として、どれだけ早く3000万円のジュエルを手に入れることができるのか。
リスク、リターン、そして時間。
その三つの変数を、彼は元サラリーマンとして培ったその魂の全てで弾き出していた。
そして数秒後。
彼は、その答えを見つけ出した。
「――うーん、良いね」
彼のそのあまりにも静かな、しかしどこまでも重い一言。
それに麗華と葉月のその口論が、ぴたりと止まった。
「――よし、買おう!」
そのあまりにもあっさりとした、しかしどこまでも確信に満ちた決断。
それに葉月のその大きな瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。
そして麗華のその美しい顔が、ぱっと満開の花のように輝いた。
「――やったー!」
彼女のその子供のように無邪気な、そしてどこまでも誇らしげな歓喜の絶叫。
それが、彼らの新たな時代の始まりを告げるファンファーレとなった。
彼らのあまりにも長く、そしてどこまでも過酷な「プロジェクト」が、今、確かにその第二の、そして最も重要な一歩を踏み出したのだ。