第15話 三十八歳、初めてのプロジェクト
冒険者になって、三週間が経過した。
斎藤誠一、天龍院麗華、相川葉月の三人がパーティを組んでから、ちょうど二週間。彼らの日常は、一つの完璧な「サイクル」として、その形を確立していた。
朝9時にギルド島「高天原」のラウンジで合流し、その日の目標とスケジュールを簡潔に確認する。午前中はF級ダンジョンを周回し、昼食はギルド島に戻って、A級探索者が調理した豪華な食事を無料でいただく。そして、午後もまた、夕暮れまでダンジョンに潜る。
その、あまりにもストイックで、しかしどこまでも充実した日々。
その結果、三人のレベルは、危なげなく、そして確実に、8の大台へと到達していた。
彼らの連携は、もはや新人とは思えないほどに洗練され、F級ダンジョンは、彼らにとって脅威ですらない、ただの安全な「作業場」と化していた。
その日の夜。
いつものようにラウンジの隅のテーブルで、その日の反省会を兼ねた夕食をとっていた三人の間には、これまでとは少し違う、静かな、しかし確かな「停滞」の空気が、漂っていた。
「…ふぅ」
麗華が、その手に持っていた銀のフォークを、カチャリと皿の上に置いた。
「誠一さん、葉月。私、思いますの。今の私達は、少々…ぬるま湯に浸かりすぎてはいないかしら、と」
その、あまりにもストイックで、そしてどこまでも彼女らしい一言。
それに、葉月が、その心配そうな瞳を、わずかに伏せた。
「…ですが、麗華様。F級ダンジョンを完全にマスターすることは、新人にとって最も重要なことです。焦りは、禁物ですわ」
「分かっておりますわ。ですが!」
麗華の声に、わずかに苛立ちの色が滲む。
「このままF級で足踏みしていては、いつまで経っても、本当の『最強』にはなれませんわ!」
その、二人の天才少女の、あまりにもレベルの高い議論。
それを、誠一は、黙って聞いていた。
そして、彼はゆっくりと、その手に持っていた緑茶を一口啜ると、その重い口を、開いた。
「――麗華さんの言う通りだ」
その、あまりにも意外な、肯定の言葉。
それに、麗華と葉月の、その二対の美しい瞳が、同時に、彼へと向けられた。
「ええ、そろそろE級ダンジョンに挑もうと思います」
誠一の、その静かな声が、ラウンジの喧騒を、切り裂いた。
「ですが、その前に、一つ解決しなければならない問題がある」
彼は、そう言うと、自らのARコンタクトレンズの視界を、テーブルの中央へと、ホログラムとして投影した。
そこに映し出されたのは、彼がこの二週間、こつこつと記録し続けてきた、彼ら三人の、あまりにも詳細な、収支報告書だった。
「…E級ダンジョンを、ただ普通に周回しても、我々が一日で得られる収益は、せいぜい10万円程度だ。F級よりはマシだが、労力と、リスクに見合った額とは言えない。なので、何か明確な『金策』をする必要があります」
その、あまりにもビジネスライクな、そしてどこまでも現実的な、問題提起。
それに、麗華と葉月は、ただ黙って、頷くしかなかった。
「そうですわね…。それで、お話するという事は、誠一さんには、何か『案』があるという事でしょう?どうぞ、話を続けて下さい」
麗華の、その促すような言葉。
それに、誠一は、最高の、そしてどこまでも自信に満ちた、元サラリーマンの笑みを浮かべて、答えた。
「ああ。最高の、『プロジェクト』がな」
◇
「――E級ダンジョン【廃墟と化した王族の庭園】を、周回したいと思います」
誠一の、その静かな、しかしどこまでも確信に満ちた一言。
それに、葉月が、その眉をひそめた。
「…王族の庭園、ですの?あそこは、E級の中でも、特にモンスターの個体数が少なく、魔石のドロップ率も低い、不人気のダンジョンですわ。金策には、最も向いていない場所かと…」
その、あまりにも的確な、データに基づいた反論。
「ええ。葉月さんの言う通りだ」
誠一は、頷いた。
「だが、我々の狙いは、魔石じゃない」
彼は、そう言うと、そのARウィンドウに、一枚の、古びたカードの画像を、映し出した。
「狙いは、E級ダンジョン【廃墟と化した王族の庭園】のボス**「うろつく獅子」**からのみ、低確率でドロップする、宿星のカード【獅子王の遺産】です」
その、あまりにもマニアックな、そしてどこまでも玄人好みの、ターゲット。
それに、麗華と葉月の、その瞳に、困惑の色が浮かんだ。
「…獅子王の、遺産…?」
「ええ」
誠一は、その二人の反応を、楽しむかのように、続けた。
「このカードを、8枚集めることで、交換できるアイテムが、これだ」
彼の、そのARウィンドウの表示が、切り替わる。
テーブルの中央に、一つの、禍々しくも美しい、深紅の宝石の、立体的なホログラムが、ゆっくりと回転を始めた。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも暴力的なまでの、魔力のオーラ。
それに、二人の少女は、息を呑んだ。
「――交換アイテムは、【獅子の咆哮】。時価、3000万円を超える、A級の物理アタッカーたちが、喉から手が出るほど欲しがる、ユニークジュエルです」
「アイテム名:
獅子の咆哮 (Lion's Roar)
装備部位:
ジュエル(パッシブツリーに装着)
レアリティ:
ユニーク (Unique)
装備要件:
レベル 60
効果テキスト:
範囲:中
範囲内の、「近接物理ダメージが増加する」通常パッシブスキルの効果が50%増加する。
範囲内の、「斧、メイス、剣」に関する通常パッシブスキルの効果が50%増加する。
術者は、元素ダメージおよび混沌ダメージを与えることができなくなる。
フレーバーテキスト:
小賢しい魔法も、卑劣な毒も、王者の前では意味をなさない。
ただ、純粋なまでの「力」。
それだけが、玉座へと至る、唯一の道なのだ。」
「…さんぜんまん…」
麗華の、その震える唇から、声が漏れた。
彼女は、名家・天龍院家の令嬢だ。金に、困ったことはない。
だが、それでも、この、たった一つの小さな石ころが持つ、あまりにも巨大すぎる「価値」に、彼女は、ただ戦慄するしかなかった。
「理論上、このダンジョンに一ヶ月通えば、8枚ドロップすることが出来ます」
誠一の、そのプレゼンテーションは、まだ終わっていなかった。
彼のARウィンドウに、今度は、美しい円グラフと、右肩上がりの折れ線グラフが、表示された。
「8枚集めて、3000万円で売却できたと仮定した場合。我々三人の取り分は、一人頭1000万円。これを、30日で割れば、日給は、33万円程度です」
「これに合わせて、エッセンスや魔石の通常ドロップがあるので、おそらく、日給は40万円を超えるでしょう」
「これは、E級探索者の稼ぎとしては、破格。C級の中堅パーティに匹敵する、非常に美味しい話です」
その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも論理的な、事業計画。
それに、葉月が、その眼鏡の奥の瞳を、これ以上ないほど、輝かせた。
「…素晴らしいですわ、誠一さん。完璧な、計画です」
「ああ」
誠一は、頷いた。
「だが、リスクもある」
彼は、そのグラフの片隅に、赤い文字で、一つの注釈を付け加えた。
「まあ、ボスの『うろつく獅子』は、E級にしては、そこそこ強いらしいですが」
「ですが?」
「そこは、慣れていきましょう」
彼の、そのあまりにもシンプルで、しかしどこまでも力強い、結論。
それに、麗華の、そのストイックな魂が、燃え上がった。
「――はーい!賛成しますわ!」
彼女は、その場で、勢いよく立ち上がった。
そして、その小さな拳を、強く握りしめた。
「しばらくは、ボス狩りですわね!最高じゃありませんの!」
その、あまりにも楽しそうな、そしてどこまでも彼女らしい、決意表明。
それに、葉月もまた、静かに、しかし力強く、頷いた。
三人の、その視線が、一つの場所で交差する。
彼らの、新たな、そして最も過酷で、最もエキサイティングな「プロジェクト」が、今、確かに、その産声を上げたのだ。