第13話 三十八歳と、初めての弟子
冒険者になって、三週間が経過した。
斎藤誠一の日常は、もはや完全に、この新しい世界の理に染まっていた。
彼のレベルは、すでに7に到達していた。F級ダンジョンは、もはや彼らにとって、脅威ですらなかった。ただ、経験値と資金を、効率的に回収するための「作業場」となっていた。
「――はぁ」
「…誠一さん、葉月。私、少し飽きてきましたわ」
その、あまりにも正直な、そしてどこまでもお嬢様らしい一言。
それに、後方で警戒を続けていた相川葉月が、呆れたように、その眉をひそめた。
「麗華様。まだ探索を開始して、三週間ですわよ。我々は新人なのですから、まずは基礎を固めることが…」
「ですが、基礎はもう完璧ですわ!見てくださいな、この、芸術的なまでの殲滅速度を!」
麗華は、そう言って、その手に持つ杖をくるりと回してみせた。
その、あまりにも子供っぽい、そしてどこまでも微笑ましい口論。
それに、誠一は、苦笑いを浮かべながら、仲裁に入った。
「まあまあ、二人とも。麗華さんの言うことにも、一理ある。確かに、同じような敵ばかりでは飽きるよな」
彼の、その鶴の一声。
それに、麗華の顔が、ぱっと輝いた。
「では!」
「ああ。だが、E級に挑むには、まだ少し早い。俺たちのレベルも、装備も、まだ万全とは言えないからな」
誠一は、その元サラリーマンらしい、慎重さで、その言葉を続けた。
「今日は、気分転換に、別のF級ダンジョンに行ってみる、というのはどうだ?」
◇
彼らが、次なる舞台として選んだのは、【野犬の巣窟】と呼ばれる、岩と枯れ木に覆われた、荒涼としたダンジョンだった。
「…うわぁ。ゴブリンの洞窟より、さらに殺風景ですわね」
麗華が、その不満げな声を上げる。
だが、その彼女の言葉は、すぐに、別の音によって、かき消された。
ガキンッ!
キャンッ!
前方の、大きな岩陰から、剣戟の音と、そして若い、悲鳴に近い声が聞こえてくる。
「――行ってみよう」
誠一の、その静かな声に、二人の少女もまた、頷いた。
三人が、その岩陰へと、回り込むようにして近づくと、そこには、信じられない光景が広がっていた。
三人の、まだあどけなさの残る、若い探索者パーティ。
彼らが、たった五体の、F級モンスター【ハウンドドッグ】に、完全に包囲され、なすすべもなく、蹂躙されていたのだ。
「くそっ!囲まれた!」
パーティの、リーダー格であろう、大柄な、しかしその動きがどこかぎこちない、盾役の少年が、叫ぶ。
「ミカ!魔法はまだか!」
「ご、ごめんなさい!詠唱が、間に合わなくて…!」
後方で、杖を構えた、小柄な少女が、涙声で答える。
そして、もう一人。パーティのアタッカーであろう、ツインテールの少女が、その手に持った、身の丈には不釣り合いな長剣を、やみくもに振り回していた。
だが、その大振りな攻撃は、俊敏なハウンドドッグに、一度も当たることなく、空を切るだけだった。
その、あまりにも危なっかしい、そしてどこまでも素人くさい光景。
それに、麗華と葉月は、思わず、その眉をひそめた。
だが、誠一は、違った。
彼の、その瞳には、侮蔑の色はない。
ただ、自分の娘と同じくらいの歳の、若者たちが、必死に、そして不器様に、その夢を追いかけている姿。
それが、彼の、その父親としての魂を、揺さぶっていた。
「――葉月さん、呪いを。麗華さん、援護を」
彼の、その静かな、しかしどこまでも力強い声。
それに、二人の少女は、はっとしたように、その顔を上げた。
そして、彼女たちは同時に、その師であり、保護者であり、そして最高の仲間である、この男の、その言葉に、完璧に応えた。
そこから先は、もはや救出劇ですらなかった。
ただ、一方的な、そしてどこまでも美しい「授業」だった。
葉月の【時間の鎖】が、暴れ回っていたハウンドドッグたちの動きを、完全に封じ。
誠一の【ポイゾナスコンコクション】が、その鈍重になった獲物たちを、確実に、毒の霧で蝕んでいく。
そして、麗華の【スパーク】が、その全てを締めくくる、華麗なフィナーレを奏でた。
数秒後。
そこには、絶対的な静寂と、そしてその中心で、今、何が起きたのか理解できないまま、呆然と立ち尽くす、三人の若い探索者たちの姿だけがあった。
◇
「…あ、あの…」
盾役の少年が、その震える声で、言った。
「…助けていただいて、ありがとうございます…」
「ああ、気にするな」
誠一は、そう言って、その温和な笑みを浮かべた。
「君たち、どこの学校の、探索部だい?」
「は、はい!僕たちは、都立の、第三商業高校の者です…!」
「そうか。うちの、娘と同じくらいだな」
誠一は、そう言うと、その三人の、あまりにもちぐはぐな装備と、そしてその立ち回りを、そのプロの、しかしどこまでも優しい目で、見渡した。
そして、彼は言った。
それは、彼が、その三十八年間の人生で、初めて行う、本当の意味での「コンサルティング」だったのかもしれない。
「君。盾役だな?」
誠一は、まず、リーダーの少年へと、向き直った。
「はい!」
「良い盾だ。それに、HPも高い。だが、守ってるだけじゃ、ダメだ。HPがあるから、もう少し大胆に攻撃していいよ。お前が、一歩前に出て、敵のヘイトを買うだけで、後ろの二人は、ずっと楽になる。盾役ってのはな、ただの壁じゃない。パーティの、攻撃の起点なんだ」
「…は、はい!」
少年の、その目に、確かな光が宿った。
「次に、君」
誠一は、その視線を、長剣を握りしめたまま、俯いている、ツインテールの少女へと向けた。
「その剣、良い剣だな。だが、君の、その俊敏な動きには、合っていない」
「…え…」
「長剣は、重いからな。振りやすい形の、ナイフがオススメだよ。その剣を一回振る間に、ナイフなら、三回は振れる。ハウンドドッグだから、一撃の重さより、攻撃しやすい武器がいいよ。手数で、圧倒するんだ」
少女は、はっとしたように、その顔を上げた。
「そして、君」
誠一は、最後に、その後方で、震えている、魔法使いの少女へと、その優しい視線を向けた。
「詠唱、間に合わなかったな。だが、それは君のせいじゃない。前衛の二人が、君のための時間を、作ってやれなかったからだ。パーティってのはな、そういうもんだ。一人で、戦うんじゃない。互いの、弱点を補い合って、初めて、一つの力になるんだ」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも温かい、アドバイスの数々。
それに、三人の若い探索者たちは、ただ言葉を失っていた。
彼らが、学校の座学で学んできた、どの理論よりも。
今、目の前の、このどこにでもいる「おっさん」が語る言葉の方が、遥かに、そしてどこまでも、本物の「真実」の響きを持っていた。
「…あの!」
リーダーの少年が、その顔を、決意の色に染め上げて、叫んだ。
「…ありがとうございました!俺たち、もう一度、基礎から、やり直します!」
「ああ、頑張れよ」
誠一は、そう言って、その若者たちの、その輝かしい未来を、心から祝福するかのように、その背中を、優しく叩いた。
◇
その、あまりにも微笑ましい、そしてどこまでも温かい光景。
それを、麗華と葉月は、その後方で、ただ静かに、見つめていた。
そして、彼女たちは、改めて、理解した。
自分たちが、パーティを組んだ、この斎藤誠一という男が、ただの「冴えない中年」などではない。
一つの、巨大な、そしてどこまでも計り知れない「器」の、持ち主なのだと。