第12話 三十八歳と、先人の知恵
斎藤誠一が冒険者になってから、二週間が経過した。
彼の日常は、もはやネットカフェの硬いリクライニングチェアの上にはなかった。
ギルド島「高天原」。その、白亜の天守閣の最上階に与えられた、広すぎるほどの自室。畳の香りと、窓から差し込む二つの太陽の穏やかな光。それが、彼の新しい「日常」だった。
朝9時にラウンジで麗華と葉月と合流し、その日の目標とスケジュールを簡潔に確認する。午前中はF級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】と【胞子の洞窟】を交互に周回し、昼食はギルド島に戻って、A級探索者が調理した豪華な食事を無料でいただく。そして、午後もまた、夕暮れまでダンジョンに潜る。
それは、かつてのサラリーマン時代の、終わりなき会議と、理不尽なノルマに追われる日々と比較すれば、天国のような日々だった。
だが、誠一の心は、完全には晴れていなかった。
(…遅い)
その日の夜。
麗華と葉月が、それぞれの自室で予習と復習に励んでいる間、誠一は一人、自室でノートPCの前に座っていた。
画面に映し出されているのは、この二週間の、彼ら三人のパーティの戦闘ログと、収支報告書。彼が、サラリーマン時代に培ったスキルで、独自に作成したデータだった。
数字は、正直だ。
彼らのレベルは、ようやく4に到達したところ。稼いだ金額も、日給に換算すれば、一人あたり10万円程度。
もちろん、新人パーティとしては、破格の成果だ。
だが、誠一は知っていた。この世界の、本当の頂が、どれほど高く、そしてどれほど遠い場所にあるのかを。
(このままでは、ダメだ)
彼の脳裏に浮かぶのは、ギルドのラウンジで見た、あのA級パーティの姿。そして、月に一度会う、娘の光の、あの期待に満ちた瞳。
(俺は、まだ、何も成し遂げていない)
彼は、その焦燥感を振り払うかのように、SeekerNetの検索窓に、一つの単語を打ち込んだ。
『盗賊 ビルド ポイゾナスコンコクション 考察』
そうだ。
自己流には、限界がある。ならば、学ぶしかない。
この世界の、先人たちが築き上げてきた、その偉大な知恵を。
◇
彼の検索結果の、最も上部に表示されたのは、一つの、あまりにも有名な配信者の名前だった。
ホリー・ミラー。
アメリカが生んだ、若き天才。武器を持たず、ただフラスコを投げ続けるという、そのあまりにも異質な戦術で、B級ダンジョンをソロで踏破した、フラスコ投げビルドの、第一人者。
ギルドのラウンジで、A級の先輩たちが、彼女の噂をしていたのを、誠一は覚えていた。
「…これか」
彼は、その中でも最も再生回数の多い、【初心者向けフラスコ投げビルド講座】と題された動画の、再生ボタンをクリックした。
画面が切り替わり、そこに映し出されたのは、どこまでも明るい、そしてどこまでもエネルギッシュな、アメリカの少女の姿だった。
彼女の、そのあまりにも流暢な英語。それに、誠一は一瞬だけ、眉をひそめた。
だが、次の瞬間。
彼のARコンタクトレンズに、一つの小さなアイコンがポップアップした。
【AIによるリアルタイム字幕を、表示しますか?】
彼は、そのボタンを、タップした。
すると、画面の下に、完璧な、そしてどこまでも自然な日本語の字幕が、表示され始めた。
(…すごい時代になったもんだな)
彼は、そのあまりにも便利な世界の理に、改めて感心しながら、その少女の、その神々しいまでの講義に、その魂の全てを集中させた。
「――はーい、みんな!フラスコ投げビルドで大事なのは、フラスコのチャージよ!」
画面の中のホリーが、その元気いっぱいの声で、語りかける。
「チャージを使用して威力が上がるスキルなのだから、初期状態ではこのビルドは長時間戦闘には向かないの!フラスコのチャージが切れて、ダメージが出しにくい状態になるからね!」
その言葉に、誠一は、何度も頷いた。
そうだ。
まさに、今の自分たちが、直面している壁だった。
エッセンスモンスターのような、少しだけタフな敵を相手にすると、戦闘の終盤には、どうしてもフラスコのチャージが枯渇し、麗華の魔法に頼らざるを得なくなる。
「でも、大丈夫!」
ホリーは、そう言って悪戯っぽく笑った。
「パッシブスキルに、それを改善出来るノードが用意されてるのよ!」
彼女の、その配信画面に、あの広大な、星空のスキルツリーが、映し出された。
「まず、レンジャーのスタート地点の、すぐ近く!この、『フラスコ獲得チャージノード』…フラスコチャージ獲得量が10%増加する、を取得するの!」
彼女のカーソルが、一つの小さな星を、ハイライトする。
「その次に、ここ!『ライフフラスコチャージ獲得ノード』…3秒ごとにライフフラスコのチャージを1獲得する、を取得するのよ!これで、継続戦闘能力を会得できるわ!」
「だけど、まだ足りないから、さらにその奥にある、この中ノード!【満たす妙薬】…フラスコチャージ獲得量が15%増加する、3秒ごとにライフフラスコのチャージを2獲得する、3秒ごとにマナフラスコのチャージを2獲得する、を取得するのよ!」
「これで、3秒ごとに3チャージも、ライフフラスコにチャージを貰えるようになるわ!ポイゾナスコンコクションは、1回投げるのに1チャージしか使わないから、これだけあれば、もうチャージ切れの心配は、ほとんどなくなるのよ!」
「――ほー、なるほどな」
誠一の口から、感嘆と、そして深い納得の声が漏れた。
「チャージが、自動で貯まるようになるように、パッシブポイントを振れば良いのか」
目から、鱗が落ちるようだった。
彼は、これまで、パッシブスキルというものを、ただ攻撃力や防御力を上げるための、単純なものだとしか考えていなかった。
だが、違う。
それは、自らのビルドの、その弱点を補い、そして長所を、さらに伸ばすための、無限の可能性を秘めた、究極のパズルなのだ。
その、あまりにも深く、そしてどこまでも美しい世界の理。
それに、彼の、その元サラリーマンとしての、分析と、改善の魂が、燃え上がっていた。
「――じゃあ、そう振るか」
彼は、その場で、自らのステータスウィンドウを開いた。
彼の、その魂の内側に広がる、広大な星空のスキルツリー。
そこには、レベル2、3、4で得た、合計3ポイントの、まだ使われていない、貴重なパッシブスキルポイントが、輝いていた。
彼は、そのホリーが示した、完璧な回答へと至る道を、その指先で、なぞった。
そして、彼はその三つの星を、何の躊躇もなく、タップした。
3ポイントを消費して、振る。
彼の、その魂の設計図が、確かに、そして力強く、書き換えられていく。
そして、その変化は、すぐに、彼の目の前の現実に、その姿を現した。
彼の、ARウィンドウに表示された、ライフフラスコのチャージゲージ。
その、これまで静止していたはずの数字が、3秒に一度、カチリ、と音を立てて、一つ、また一つと、増えていく。
その、あまりにも地味な、しかしどこまでも確かな、成長の証。
それに、誠一は、その震える拳を、強く、強く、握りしめた。
(…すごい)
(これなら、いける…!)
彼は、そのARウィンドウの片隅に表示された、自らのステータスを、改めて確認した。
レベル4。
パッシブポイント、残り0。
ステータスポイント、残り15。
(…ステータスポイントは、まだ温存しておこう)
彼の、その慎重な性格が、そう告げていた。
まだ、このパーティの、本当の形は、見えていない。
その、最後の切り札は、最高のタイミングで、切るべきだ。
彼は、そう判断すると、そのノートPCを、静かに閉じた。
そして、彼はベッドへと、その身を横たえた。
彼の心は、もはや焦燥感に満ちてはいなかった。
あるのはただ、明日から始まる、新たな「仕事」への、尽きることのない、好奇心と、そしてどこまでも力強い、高揚感だけだった。