第11話 三十八歳と、チーム
月詠に正式に加入してから、数日が経過した。
斎藤誠一の日常は、一変した。
朝、ギルド島「高天原」の、広すぎる客室で目を覚ます。窓の外には、二つの太陽に照らされた、エメラルドグリーンの穏やかな海が広がっている。ラウンジで、A級探索者たちが調理した、栄養バランスも味も完璧な朝食を摂り、そして午前9時きっかりに、彼は二人の天才少女と共に、戦場へと赴く。
それは、彼が三十八年間の人生で、初めて経験する、あまりにも刺激的で、そしてどこまでも充実した「仕事」だった。
「――はぁ」
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。その、ひんやりとした湿った空気の中で、天龍院麗華が、その美しい顔に、隠しきれない退屈の色を浮かべて、深いため息をついた。
彼女の足元には、今しがたスパークの一撃で黒焦げになった、十数体のゴブリンの亡骸が転がっている。
「…誠一さん、葉月。私、少し飽きてきましたわ」
その、あまりにも正直な、そしてどこまでもお嬢様らしい一言。
それに、後方で警戒を続けていた相川葉月が、呆れたように、その眉をひそめた。
「麗華様。まだ探索を開始して、三日目ですわよ。我々は新人なのですから、まずは基礎を固めることが…」
「ですが、基礎はもう完璧ですわ!見てくださいな、この、芸術的なまでの殲滅速度を!」
麗華は、そう言って、その手に持つ杖をくるりと回してみせた。
その、あまりにも子供っぽい、そしてどこまでも微笑ましい口論。
それに、誠一は、苦笑いを浮かべながら、仲裁に入った。
「まあまあ、二人とも。麗華さんの言うことにも、一理ある。確かに、ゴブリンばっかりじゃ飽きるよな。よし、じゃあ、今日は別のダンジョンに行ってみるか」
彼の、その鶴の一声。
それに、麗華の顔が、ぱっと輝いた。
「本当ですの!?」
「ああ。葉月さん、近くに、何か面白いF級ダンジョンはあるか?」
「…はい。それでしたら、いくつか候補が」
葉月は、そう言うと、そのARウィンドウに、周辺のダンジョンマップを、瞬時に表示させた。
その、あまりにも手際の良すぎる、そしてどこまでも完璧な秘書ムーブ。
それに、誠一は、改めてこのパーティの、その異常なまでのポテンシャルの高さを、実感していた。
◇
彼らが、次なる舞台として選んだのは、【胞子の洞窟】と呼ばれる、比較的新しいF級ダンジョンだった。
ポータルをくぐり抜けた瞬間、三人の全身を、これまでにないほどの、幻想的な光景が包み込んだ。
洞窟の、壁も、床も、天井も、全てが様々な色に輝く「発光苔」と、腰の高さほどもある巨大な「発光キノコ」で覆われている。それらが放つ、ぼんやりとした、赤や、青や、緑の光だけが、唯一の光源だった。
空気中には、常にキラキラとした胞子が舞っており、それはまるで、夢の中に迷い込んだかのような、非現実的なまでの美しさだった。
「――わぁ…!」
麗華が、そのあまりにも美しい光景に、感嘆の声を上げる。
「綺麗ですわ…!ゴブリンの洞窟とは、大違いですわね!」
「はい、麗華様。ですが、油断は禁物です」
葉月が、その夢見心地な主君を、冷静な声で、現実へと引き戻す。
「事前のデータによれば、このダンジョンに出現する敵は、通称『歩ききのこ』。注意点としては、特殊な胞子をばらまいて、こちらの視界を完全に遮ってくるそうです。なので、遠距離攻撃が、有効とのことです」
「なるほどな」
誠一が、頷く。
「じゃあ、フラスコ投げと、スパークで行くか」
「ええ。それが、最適解かと」
三人の間で、あまりにもスムーズに、そしてどこまでも合理的な、戦術が組み立てられていく。
彼らは、その幻想的な回廊を、慎重に、しかし確かな足取りで、進んでいった。
そして、彼らは遭遇した。
最初の、敵と。
回廊の奥から、ふよふよと、まるで意志を持っているかのように、数体の巨大なキノコが、その傘を揺らしながら、近づいてくる。その姿は、どこかコミカルで、そしてどこまでも、可愛らしかった。
「あら、可愛らしいですわね」
麗華が、その杖を構えながらも、その口元を緩ませた、まさにその時だった。
キノコたちが、一斉に、その傘を、ぶわりと震わせた。
そして、その傘の下から、おびただしい量の、キラキラとした胞子が、放出されたのだ。
それは、一瞬にして、三人の視界を、完全に真っ白な霧で、覆い尽くした。
「きゃっ!何も見えませんわ!」
麗華の、その悲鳴に近い声。
だが、その混乱の中心で。
二つの、冷静な声が、響き渡った。
「――時間の鎖!」
葉月の呪いが、その霧の中にいるはずの、キノコたちの、その全てを、完璧に捉えた。
そして。
「――そこだ!」
誠一の、その経験に裏打ちされた勘が、その呪いによって可視化された、敵の輪郭へと、完璧な一撃を、叩き込んだ。
緑色の、毒の瓶が、霧を切り裂き、そして炸裂する。
その、あまりにも完璧な連携。
それに、キノコたちは、なすすべもなく、その胞子を撒き散らしたまま、光の粒子となって消滅していった。
霧が、晴れる。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、おびただしい数の魔石の山を前にして、その完璧な勝利の余韻に浸る、三人の姿だけだった。
「――楽勝だな」
誠一が、そう言って笑う。
「ええ!まあ、F級ですからね!」
麗華が、そう言って、誇らしげに胸を張った。
「どんどん狩って、行きましょうか」
葉月の、その冷静な声が、次なる戦いの始まりを告げた。
◇
そこから先は、もはやただのレベリングではなかった。
一つの、完璧なオーケストラの、そのあまりにも美しい、演奏会のようだった。
葉月の呪いが、戦場のテンポを支配し。
誠一のフラスコが、その混沌に、確実なダメージというリズムを刻み。
そして、麗華の魔法が、その全てを締めくくる、華麗なフィナーレを奏でる。
彼らのレベルは、その美しいハーモニーと共に、凄まじい勢いで、上昇していった。
その、あまりにも単調な、しかしどこまでも心地よい作業の、その合間に。
誠一の、その満身創痍だったはずの体が、一つの、黄金の光に、優しく包まれた。
【LEVEL UP!】
【Lv.2 → Lv.3】
「おっ、レベルアップ」
誠一の口から、安堵と、そして歓喜の声が漏れた。
「まだ、パッシブポイント、振ってないけど。まあ、まだ大丈夫だな」
「そうですね」
葉月が、そのARウィンドウに表示された経験値のグラフを、満足げに眺めながら、頷いた。
「敵が弱いので、まだ平気ですね。ですが、E級に上がるまでには、方向性を決めておいた方が、よろしいかと」
「だよな」
誠一は、頷いた。
(…パッシブポイント、か)
彼の脳裏に、あの広大な、星空のスキルツリーが、浮かび上がる。
どの道を、進むべきか。
その、あまりにも広大な、そしてどこまでも自由な選択肢。
それが、彼の、その三十八年間の人生で、初めて味わう、本当の意味での「自由」だったのかもしれない。




