第1話 三十八歳の進路変更
東京の夜は、いつもと変わらず無数の星々(ネオン)をその身に宿し、静かに、そしてどこまでも深く広がっていた。だが、その光は、もはや斎藤誠一の心を照らすことはなかった。
新宿駅西口、高速バスターミナル。その、どこまでも機能的で、そしてどこまでも無機質な空間の片隅。プラスチック製の硬いベンチに、彼は一人、深く腰掛けていた。
ディーゼルエンジンの排気ガスの匂い、けたたましく鳴り響く発車案内の電子音、そして、それぞれの人生を抱えて行き交う人々の、目的のない喧騒。その全てが、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、彼の意識の上を滑っていく。
彼の服装は、この場所に少しだけ不釣り合いだった。着慣れた、しかし上質な生地のチャコールグレーのスーツ。その手元には、15年以上連れ添った、革のビジネスバッグ。だが、その中身は、もはや分厚い企画書や、ノートパソコンではない。数日分の着替えと、そして、たった今銀行で下ろしてきたばかりの、分厚い現金の束が入った封筒だけ。
退職金。
彼が、新卒で入社してから15年間、その魂を削り取られるようにして働き続けた会社が、彼に与えた、最後の、そして唯一の「対価」。その額は、田舎で小さな家を建て、慎ましく暮らしていくには、十分すぎるほどのものだった。
だが、彼の心に、喜びはなかった。
あるのはただ、一つの巨大な「終わり」を前にした、絶対的な虚無感だけだった。
(…終わったんだな)
彼は、心の中で呟いた。
中堅メーカー「新星インダストリアル」営業三課、課長、斎藤誠一。
その、かつては彼の誇りであり、そして彼を縛り続けた重い鎧は、もうない。
先週、彼は自らの手で、その鎧を脱ぎ捨てたのだ。
「一身上の都合」。
その、あまりにもありふれた、そしてどこまでも空虚な言葉を、退職届に書き殴った時のことを、彼はぼんやりと思い返していた。引き止める上司の、偽善的な顔。心配するふりをして、その実、次のポストを虎視眈眈と狙っている同僚たちの、いやらしい視線。そして、涙ながらに花束を渡してくれた、若い部下たちの、その純粋な瞳。
その全てが、もはや遠い、遠い世界の出来事のようだった。
燃え尽きていた。
彼の心は、完全に。
(…これで、よかったんだ)
彼は、自らに言い聞かせる。
このまま、あの灰色のビルの中で、心をすり減らし続ける人生に、未来はなかった。
田舎に帰る。
両親が残してくれた、あの古い家で。
静かに、ただ静かに、残りの人生を、消化していく。
それが、今の自分にできる、唯一の、そして最も正しい選択なのだと。
(…光)
彼の脳裏に、一つの、あまりにも眩しい光景が浮かび上がる。
別れた妻と暮らす、一人娘の、その笑顔。
この春、高校生になったばかりの、光。
先月、月に一度の面会日で会った時、彼女は楽しそうに、その新しい制服姿を、彼に見せてくれた。
『お父さん、見て!第一新星高校、合格したんだよ!ダンジョン探索部に入るんだ!』
その、あまりにも誇らしげな、そしてどこまでも嬉しそうな声。
彼は、その時、心の底から、祝福することができなかった。
ただ、曖昧に笑って、「そうか、良かったな」と、その頭を撫でてやることしか、できなかった。
その、不甲斐ない父親の背中を、彼女はどんな思いで、見つめていたのだろうか。
(…許してくれ)
彼は、心の中で、そのまだ見ぬ娘の姿へと、謝罪した。
黙って、東京を去ることを。
この街での、お前との、ささやかな繋がりを、断ち切ってしまうことを。
俺の、東京での人生は、これで終わりにしよう。
それが、お前のためでもあるんだ。
情けない父親の姿を、これ以上、見せ続けるわけには、いかないのだから。
彼は、そのあまりにも重い感傷を振り払うかのように、ポケットから、一枚の、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
故郷行きの、夜行バスのチケット。
出発時刻は、23時30分。
あと、15分。
その、宣告の時を、彼はただ、静かに待っていた。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも絶望的な、彼の世界の終わり。
それを、一つの、あまりにも場違いな光が、唐突に、そしてあまりにも無慈悲に、引き裂いた。
ピカッ!
彼の目の前、バスターミナルの、巨大なガラス壁。
その、夜景を映していたはずのスクリーンが、突如として、まばゆい光を放った。
そして、そこに映し出されたのは、一本の、あまりにもキャッチーで、そしてどこまでも彼の心をざわつかせる、AR広告だった。
画面には、楽しそうにダンジョンを冒険する、様々な年代の、様々な人種の男女の姿が、モンタージュのように映し出されていく。
そして、その中央に、黄金色の、力強いテロップが、躍った。
『――人生を変えたい貴方!冒険者になりませんか?』
その、あまりにも直接的な、そしてどこまでも彼の、その今の境遇を、見透かしたかのような、問いかけ。
それに、誠一の、その虚ろだったはずの瞳が、わずかに、その光を取り戻した。
『F級冒険者の日給は10万円!を超えた今の時代、冒険者をしないなんておかしい!』
『学歴不問!経験不問!年齢不問!必要なのは、ほんの少しの勇気だけ!』
『さあ、貴方も冒険者になりましょう!あなたの、第二の人生が、ここから始まる!』
その、あまりにも胡散臭い、しかしどこまでも力強い、煽り文句の数々。
それに、誠一は、ふっと、その口元を緩ませた。
(…馬鹿馬鹿しい)
彼は、そう吐き捨てると、その視線を、再び手元の、バスのチケットへと戻した。
(俺はもう、38だ。今更、夢を見る歳じゃ…)
だが、その広告は、まだ終わっていなかった。
画面の最後に、一人の、若い女性探索者の、インタビュー映像が映し出された。
『冒険者になって、人生が180度変わりました!毎日が、本当に楽しいです!』
その、屈託のない笑顔。
「…冒険者かぁ……」
誠一の口から、無意識に、その言葉が漏れた。
「……冒険者か!」
彼の脳裏に、再び、娘の光の顔が、浮かび上がった。
あの、屈託のない笑顔。
そして、彼女が、彼に会うたびに、目を輝かせながら語っていた、あの言葉。
『お父さん、知ってる!?JOKERっていう、すごい人がいるんだよ!』
『私も、早く冒険者になりたいな!そしたら、お父さんにも、高級時計、買ってあげるのに!』
(…そうか)
誠一の、その心の、最も奥深く。
燃え尽きたと思っていたはずの、その灰の中から。
一つの、小さな、小さな火種が、ぽつりと、その光を灯した。
(…冒険者か)
(第二の人生として、冒険者も、ありだな…)
彼の、その思考が、そこまでたどり着いた、その瞬間。
彼の目の前に、二つの、あまりにも鮮明な、選択肢が、見えた。
一つの道は、今、まさにアナウンスが流れ始めた、あの夜行バスへと続く道。
その先にあるのは、静かで、穏やかで、そして何も変わらない、田舎での、余生。
そして、もう一つの道。
それは、このバスターミナルを出て、再び、あの光と喧騒の渦の中…新宿へと、戻る道。
その先にあるのは、未知。
危険と、理不尽と、そしておそらくは、幾多の失敗。
だが、そこには、確かに「可能性」があった。
娘が憧れる、あの世界。
そして、情けない父親ではない、新しい自分になれるかもしれないという、あまりにも甘美な、可能性。
(…どうする)
彼の、その魂が、揺れていた。
サラリーマンとしての、15年間が培ってきた、冷静な理性が、叫んでいた。
(馬鹿を言え。お前はもう、若くない。今更、新しいことなど…)
だが。
彼の、その心の、さらに奥深く。
父親としての、そして一人の男としての、最後のプライドが、叫び返していた。
(――このまま、終わって、いいのか?)
彼の、その脳裏に、浮かび上がるのは、娘の、あの少しだけ寂しげな、笑顔。
そうだ。
俺は、あの子に、まだ何も、してやれていないじゃないか。
かっこいい姿なんて、一度も、見せてやれていないじゃないか。
「――俺は……」
誠一の、その震える唇から、声が漏れた。
「――冒険者になる!!」
彼は、その場で、立ち上がった。
そして、その手に握りしめていた、故郷行きの、夜行バスのチケットを、その両手で、力任せに、引き裂いた。
ビリビリ、という、乾いた音。
それは、彼が、その過去の、そして諦めの人生と、決別した音だった。
舞い散る、紙片。
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも狂気的な行動に、周りにいた数人の乗客が、ぎょっとしたように、彼を見つめている。
だが、誠一は、もはやその視線を、気にする事はなかった。
彼は、その胸に、三十八年分の、全ての魂を込めて、叫んだ。
それは、彼の、新たな人生の、産声だった。
「――俺は、冒険者になるぞ!」
その、あまりにも力強い、そしてどこまでも希望に満ちた絶叫が、バスターミナルの、その喧騒を、一瞬だけ、完全に支配した。
彼は、その場に散らばった、過去の残骸に、一瞥もくれることなく、その身を翻した。
そして、彼は歩き出した。
バス乗り場とは、逆の方向へ。
新宿の、そのどこまでも続く、光の海へと。
彼の、その疲れていたはずの背中は、今、確かに、そして力強く、伸びていた。
まるで、これから始まる、最高の冒険に、胸を躍らせる、一人の少年のように。