1-8 「仕組まれた獣」
北端の森は、沈黙を湛えていた。
陽の光すら葉に遮られ、地面はじめじめと濡れ、空気は重く湿っている。
倒木や枯れ葉の匂いの奥に、鉄のような、血のにおいが混じっていた。
クラリスは、地面に膝をつき、指で焼け焦げた土をそっとすくった。
指先がわずかに震える――恐怖ではない、興奮とも違う。
これは、知識と直感が警鐘を鳴らすときの、彼女特有の反応だった。
「……この焦げ跡、魔獣の爪痕じゃない。魔法による爆裂痕。それも、“導火”魔法による誘発……」
《確認完了:戦闘痕跡は魔獣によるものではなく、第三者の攻撃によるものと一致。
さらに、周囲の魔力痕は人間由来の残留反応あり。特定条件下で使用される“拘束呪”の痕跡も検出》
「誰かが、魔獣を“暴走させた”……そういうことね」
まるで、村を襲撃させるために魔獣を操ったかのような魔法痕。
そして、その目的は――村の破壊か? それとも何かの“実験”か?
そのとき、クラリスの脳裏に浮かんだのは、あの断罪の場にいた男――
王宮魔導院長・ギルベルト。
表向きは温厚で理知的な魔導学者。
だが、クラリスは知っている。
ギルベルトが、違法な実験や魔導生物の密造に関わっていたという噂を。
断罪の裏で、クラリスを“処分”させた一人でもある、あの男。
「……偶然、とは思えないわね」
森の中をさらに進むと、朽ちた祠のような構造物が現れた。
入り口には、明らかに最近貼られた“結界符”の残骸がある。
《警告:高位魔法陣の痕跡。動作痕あり。範囲内で人為的に魔力を操作し、動物性生物の理性を奪う効果が推定されます》
「やっぱり。魔獣の暴走は“仕組まれた”もの。……問題は、それを誰が、何のために?」
クラリスは、怒りよりも冷静さを保ちながら、そっと奥へと踏み込んだ。
祠の内部には魔法陣の痕跡と共に、まだぬるい血の跡があった。
それは人間の――しかも、子どもほどの小さな足跡だった。
「人間を、“媒介”にして……?」
喉がひりつく。
怒りではない。
心の奥底に、冷たいものがしんしんと降り積もるような感覚。
――この世界は、私が想像していたより、ずっと醜く、冷たい。
けれど、それでも――
彼女は目を伏せない。
目を逸らすことも、諦めることもしない。
(誰が何を隠していようと、私は暴く。力で。知識で。ユグドラシルと共に)
「ユグドラシル、記録と分析を。祠内部の全データを吸い上げて。……この事件、証拠を握れば、王宮に切り込める」
《了解。データ吸収開始――完了まで10分》
クラリスはその場に腰を下ろし、深く息を吐いた。
震えているのは、冷気のせいだけではない。
この手で真実を暴く恐ろしさと、それでも抗わずにはいられない強い意志が、心を波立たせていた。
(私はもう、誰にも操られない。誰にも裏切られない。
――信じられるのは、私自身と、ユグドラシルだけ)
祠の外では、木々の葉がさらさらと揺れていた。
まるで、風がこの決意に、そっと頷いているかのように。