1-7 「はじまりの契約」
市場から戻ったクラリスは、黒曜の離宮の応接室で一人、茶をすすっていた。
薫り高いハーブティーは、かつて王宮で飲んでいたものよりも素朴で、けれど不思議と心を落ち着かせた。
部屋には、魔導通信機が一基――ユグドラシルに接続された小型のクリスタル球体が、青白く脈動している。
《クラリス・ノワール様。闇市場経由にて、最初の依頼が届いております。依頼主名:不明。内容:村落の魔獣被害に関する調査と対処。報酬:500金貨+情報の提供》
「魔獣被害……?」
一瞬、眉をひそめる。
思っていたよりも、ずっと“地味”で“辺境的”な案件だった。
「もっと、貴族の不正とか、王宮の情報とか……そういう依頼が来るかと思ってたけど」
《依頼の信頼度:S級。依頼主は情報経路に特異性あり。要注意。》
ユグドラシルの冷静な声が、彼女の背筋を正す。
そう、ただの村落問題ではない。
それがわかるからこそ、AIは“要注意”と言った。
クラリスは椅子にもたれ、視線を天井に向ける。
古びたシャンデリアの灯りが静かに揺れ、天井の漆喰に影を落としていた。
(始まったのね。私の“外の世界”での一手が)
これまでの自分は、王宮という“檻”の中で、与えられた枠組みの中で“完璧”を演じ続けてきた。
でもその完璧さは、他人の都合によって簡単に壊された。
だったら――これからは、自分の価値を、自分で証明する。
「いいわ。受けましょう。場所と状況の詳細を」
《依頼対象:西部山岳地帯・フィエル村。魔獣“トゥルクス”による襲撃。被害家屋15棟、死亡者2名、行方不明3名。
村の外にて、未知の魔力波動を検出。通常の魔獣行動パターンとは異なる動きが確認されています》
「なるほど……ただの獣じゃないわね。誰かが“何か”を仕込んでる可能性がある」
頭の中で、推論が走る。
魔獣の暴走。被害。異常な魔力の動き。
そして、匿名の依頼――普通の村落にしては、筋書きがきな臭すぎる。
(これ、“お試し”なのかもしれないわね。私がただの令嬢じゃないと知っている者が、試している)
クラリスは立ち上がり、旅支度を整え始めた。
実は彼女は剣術も魔法も“最低限”しか使えない。
けれど、ユグドラシルがいれば、十分に対応できる。
そして何より、彼女には“頭”がある。
「いい機会だわ。悪役令嬢が、村を救うって……物語としても面白いじゃない」
◆
数日後。
クラリスは、黒衣のローブに身を包み、護衛の傭兵二人とともにフィエル村に足を踏み入れた。
空気は薄く、風が冷たい。
山間に広がる小さな村は、すでにどこか死んだように静かだった。
「……想像以上ね。焼けた家屋、折れた柵。村人の数も……思ったより少ない」
《魔力反応、村の北端に集中。範囲:直径約30メートル。魔獣以外の干渉痕アリ》
「やっぱり“誰か”が関与してる」
クラリスは村の中心にある集会所に入った。
怯えた顔の村長が、彼女の姿を見るなり目を見張る。
「お、お嬢さん……まさか、貴族様が来てくださるとは……!」
「私は“クラリス・ノワール”。貴族じゃないわ。――でも、あなたたちを助けるつもりで来た」
その声は、冷たくも、どこか凛としていた。
かつて王宮で「冷血な公爵令嬢」と呼ばれた頃の面影は微塵もない。
そこに立っているのは、名もなき一人の“実力者”だった。
そしてこの瞬間――クラリス・ノワールという名が、初めて“現場”に刻まれたのだった。