1-6 「闇市場という舞台」
翌朝。
黒曜の離宮の庭には霧が立ち込めていた。
冷えた空気がバラの茂みにしっとりと降り、白い吐息が朝陽の中に溶けてゆく。
クラリス――かつてクラウディアと呼ばれていた令嬢は、シンプルな黒の乗馬服に身を包み、馬車の手配を命じていた。
ユグドラシルはすでに隠し魔導路経由で王都地下の“闇市場”とつながっている。
そこは、貴族が表立って口にできない品物や情報を売買する、もう一つの経済圏。
今のクラリスには、そこで築く“信用”が何よりの武器となる。
――私の名前も、地位も、家族も、王太子も。
何もかもが、昨日までの私を殺してきた。
けれど。
――私の頭脳は、健在よ。
AIという現代の奇跡が、この世界でも“力”として通用するなら……
私は、全てを覆してやる。
「行きましょう。予定どおり、“クラリス・ノワール”として」
《確認:変装完了。通行証、偽名義、全てのデータ改ざん完了。》
魔導遮蔽付きの漆黒の馬車が静かに門を出る。
向かう先は、王都の表からは決して見えない“裏”。
名もなき商人たちが集い、政治家が密談し、魔道具が法の網を潜って売買される場所。
◆
王都北端――地下に広がる、廃坑を改装した市場。
壁はむき出しの岩で、頭上には剥き出しの魔導灯が赤く光る。
薬草、魔道具、情報屋、傭兵……無数の小さな商いが、ぬるく澱んだ空気の中で交錯していた。
「ここが……“市場”ね」
クラリスの声は沈着だったが、胸の奥では冷たい緊張が波打っていた。
この空気。
この湿った、人の欲と欺瞞と好奇の混じりあった空間。
前世――日本の都市の深夜、薄暗いネットカフェや裏通りに足を踏み入れたときの感覚が、微かに蘇る。
《周辺情報確認中。信頼度A以上の取引先候補、現在5件表示可能》
ユグドラシルの音声は、彼女の耳元にのみ届く魔導通信仕様。
AIというより、まるで忠実な相棒のように彼女を導いてくれる。
(AIって、なんて心強いのかしら。誰よりも正確で、裏切らない。……そう、家族なんかより、ずっと)
クラリスは魔導フードで顔を隠したまま、ひときわ小さな古道具屋に足を踏み入れた。
棚に並ぶ魔石や古書の奥、店主と思しき初老の男が目を細めてこちらを見る。
「……お嬢さん。こんなとこで迷子かい?」
「違うわ。私は買い手。“クラリス・ノワール”と申します。信用と情報を求めに来たの」
声は落ち着いていた。けれど、内心では心臓が跳ねるように高鳴っていた。
もし見破られたら――もし名前が割れたら――
でも、ここで怯んでは始まらない。
男はしばらく彼女を見つめていたが、やがて喉の奥で低く笑った。
「……面白い。“クラリス・ノワール”ね。名前は覚えた。で、何を買いたい?」
「信頼、よ。金貨で払う。情報と、発言権も買うわ」
机の上に並べたのは、ユグドラシルが管理する資産口座から換金した金貨。
さらに、いくつかの薬草調合レシピ――前世の知識に基づいた“現代風の効果的なポーション”の製法メモも添える。
男の目が細められる。
「……なるほど。あんた、ただの小娘じゃねぇな」
《契約成功。情報共有ネットワークへアクセス開始。信頼度ランクC→Bへ昇格》
初取引としては、上出来だった。
クラリスは店を出たあと、そっとフードを上げ、息を吐いた。
心臓がまだ速く打っているのを感じながらも、確かな達成感があった。
(これが、“私のやり方”……。この手で、私はやり直してみせる)
かつて王宮で甘く微笑みながら彼女を断罪した貴族たち。
アメリアの「聖女」としての無垢な演技。
家族の、冷たい目。
全部――いつか、膝をつかせてやる。
彼女は、振り返らなかった。
ただ前を見て、まっすぐ歩いて行った。
“クラリス・ノワール”としての未来へと。