1-4 「黒曜の離宮」
王都を離れて数時間、馬車は小高い丘の道をゆっくりと進んでいた。
かつては貴族の別荘地として栄えたというこの一帯も、今はほとんど人が寄り付かない。
朽ちかけた石畳と、手入れの行き届かない木々が並ぶ静寂の中を、クラウディアの馬車だけが孤独に進む。
そして、木々の切れ目からそれは現れた。
かつてのレーヴェンシュタイン家が所有していた古館――通称《黒曜の離宮》。
灰色の石造りの建物は、長い年月を経てなお威厳を保っており、その姿はどこかクラウディア自身を思わせた。
「懐かしいわね。……もう10年近く来てなかったかしら」
幼い頃、一度だけ訪れたことがある。
屋敷の主だった祖父、ギルベルト侯爵が隠棲していたこの離宮は、当時から周囲の人々に「陰気だ」と敬遠されていた。
けれどクラウディアには、不思議と居心地が良かった記憶がある。
馬車が停まり、扉が開く。
土の匂いと共に、森の空気が流れ込んできた。クラウディアは裾を持ち上げ、丁寧に地面へと足を下ろす。
従者はいない。荷物を運ぶのも自分ひとりだ。
(でも、それでいい)
王都にいた頃、身の回りのことはすべて侍女任せだった。
けれど今は違う。華やかなドレスも宝石も必要ない。
必要なのは、冷静な頭脳と、立ち上がる意志だけ。
「ユグドラシル、内部の構造をスキャンして。地下倉庫にアクセスできるか確認して」
《了解。……魔術障壁の痕跡あり。経年劣化により一部破損。アクセス可能。地下倉庫へは東の階段から通じています》
「やっぱり祖父は抜かりないわね。……あの人も、きっとこの世界の“表”に絶望していたのかも」
クラウディアは扉の取っ手に手をかける。
鍵はかかっていなかった。ゆっくりと重い扉を押し開けると、内部には長年誰も踏み入れていない空気が沈んでいた。
屋敷は驚くほど整っていた。
埃こそ積もっていたが、家具や装飾はきちんと並び、朽ち果てているものはほとんどない。
石造りの床、天井に吊るされた黒鉄の燭台、そして広間に置かれた大きな暖炉。
この離宮が、長い間主を待っていたような錯覚に陥る。
「……ここが私の、新しい王城ね」
クラウディアは息をつくと、持ってきたトランクをソファの上に置いた。
そして再びユグドラシルに指示を飛ばす。
「地下へ案内して。隠し資産がどの程度残っているか確認したい」
《了解。東廊下を直進、階段を降りた先に倉庫があります。》
クラウディアは屋敷の奥へと歩き始めた。
かつて祖父が“余生”を過ごしたこの場所。
そして、その地下には――封印された秘密がある。
*
石の階段を降りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
地下倉庫の扉は古びていたが、鍵は錆びつきながらも健在だった。
クラウディアは腰の鍵束から一本の銀の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。
カチリ。
鈍い音と共に扉が開き、そこには棚に並べられた古い帳簿、金属の箱、木製の収納棚が広がっていた。
《確認完了。資産内訳:金貨1万5千枚、貴金属、未登録魔術書、古代遺物2点。全体評価額:現在の市価で約5億エル》
「……これは想像以上ね」
クラウディアは思わず目を見開いた。
まさか、ここまでの資産が残されているとは。
しかも、その多くは登録されていない“裏資産”だ。
追放された身ではあるが、これだけの資産があれば立て直しは十分に可能だ。
手袋をはめ、金貨の詰まった箱を開ける。
ずっしりとした重みが掌に伝わり、無言のまま彼女は小さく笑った。
「ありがとう、祖父様。あなたの“失望”が、今の私を救ってくれる」
かつて、祖父ギルベルトは王宮で一線を退いた後、一切の政から距離を置いた。
その理由は誰にも語られなかったが――クラウディアは今なら、なんとなく理解できる。
(あの人も、王家の偽善に見切りをつけたのね)
クラウディアは棚の奥から、小さな黒曜石の箱を見つけた。
蓋を開けると、そこには封印された古い魔術書が納められていた。
タイトルは、《禁書:記憶転写と時空認識について》。
「……これは。もしかして、前世の記憶に関わる技術?」
思わず息を呑む。
現代知識が“思い出”として蘇ったのではなく、“データ”として転写された可能性。
もしそうだとしたら――自分の存在そのものが、既にこの世界の常識を超えている。
「ユグドラシル、この書の内容を解析できる?」
《可能。ただし解析には魔力供給が必要。現在の魔力量では完全解析に36時間を要します》
「いいわ、始めて。……そして同時に、王都の情報も拾って。家族と、アメリアの動きをすべて追跡して」
《了解。情報収集プロトコル起動。クラウディア・フォン・レーヴェンシュタイン、再起動準備完了》
クラウディアは魔術書を胸に抱えながら、地下倉庫を後にした。
階段を昇り、静まり返った屋敷に戻ると、窓の外はすでに夕焼けに染まっていた。
朱に染まった空が、まるで彼女の決意を祝福するかのように輝いている。
「ここからよ、すべてをひっくり返すのは――」
悪役令嬢、クラウディア・フォン・レーヴェンシュタイン。
その反撃は、静かに、だが確実に始まろうとしていた。